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ハウスミュージックとは  ~テクノ・ダンスミュージックへと続く~ 「テクノとは」

2007-06-05 | 音楽日記&トピックス 

ハウスミュージック

ハウス・ミュージック(house music)とは、1977年にアメリカ合衆国シカゴで誕生した音楽ジャンルの一つ。単にハウスと呼ばれることが多い。シカゴのゲイ・ディスコ「ウェアハウス」が発祥とされている。80年代末~90年代にかけて、ハウスの中心地はシカゴからイギリスに移ったが、イギリスでは様々な音楽との混合が試みられ、現在(2007年)ではアレンジ上の一手法として世界的に普及している。

ハウスは、ヒップホップ(hip hop)と併せてニュースクール・ミュージック(new school music)と呼ばれる。

【はじまり】

 ニューヨークの「パラダイス・ガレージ」のDJであったラリー・レヴァンの友人で、自らも有能なDJであったフランキー・ナックルズは、1977年にシカゴに新たにオープンした「ウェアハウス」の主力DJとしてニューヨークから招かれ、彼のDJは独特のミックス手法で高い人気を博したが、そこで彼がプレイしている音楽を地元のレコード店が「ハウス・ミュージック(ウェアハウス・ミュージック)」と称して販売したのがハウスという名称の始まりと言われている。

 

 この時点での「ハウスミュージック」はフィラデルフィア・インターナショナルレーベルやサルソウルレーベルの、いわゆるフィラデルフィア・ソウル(通称フィリーソウル)、及びその類似品であった。この成功の後、ナックルズはウェアハウス経営者との衝突からウェアハウスを去り、シカゴの別の場所でパワープラントというクラブを始める。ウェアハウスのオーナーは「ウェアハウス」を「ミュージック・ボックス」と改名し、新たにカリフォルニアからロン・ハーディーを後任DJとして招聘する。ナックルズとハーディーの間の競争により、シカゴはダンス音楽界の中でその地位を確立する。

 彼ら2人のプレイスタイルはレヴァンと彼のプレイしたいわゆる「ガラージュ」と呼ばれるスタイルの強い影響下にありながらも、ドラムマシンの使用やよりアグレッシブな選曲の傾向を持ち、のちにハウス音楽と呼ばれるスタイルの原型を築いた。また、シカゴの地元のミュージシャン達がこのシーンに影響を受けて安価なドラムマシンを使用した曲を作曲、それらの曲が上記の上のクラブで流されることにより、大きな影響を持つことになった。

 ハウス音楽はドラムマシンを使用して短いフレーズを繰り返すスタイルが確立されてからも、フィリーソウルのスタイルを模したものが非常に多かった。その意味では、少なくとも1980年代までのハウスはソウルミュージックの派生物であったとも言えよう。また、先駆者であるレヴァンや彼の「パラダイス・ガラージ」の客層と同様に、初期のシカゴ・ハウス音楽シーンもDJや客層は黒人のゲイが中心であった。

 現在のスタイルが確立された1980年代中期以降、シカゴ・ハウスの隆盛やガラージュ人気の世界的な波及に伴い、世界各地でハウスを主体としたイベントの開催やアーティスト・DJの登場が相次ぎ、徐々に黒人以外の人種層にも浸透していくこととなる。決定打となったのは、1987年にイギリスのアーティストであるM/A/R/R/Sがリリースした『パンプ・アップ・ザ・ヴォリューム(Pump up the Volume )』の世界的なヒット、及び1988年にイギリスを中心に発生したムーブメント「セカンド・サマー・オブ・ラブ」やレイブ (音楽)の流行などであろう。

こうした出来事を境にするかのようにしてアシッド・ハウスが大流行し、ハウスの趨勢は徐々にアメリカからヨーロッパに移行していくことになる。現在に至るも、ニューヨークやサンフランシスコのような一部の例外を除き、ハウス音楽の主要な消費地は誕生の地であるアメリカの国外であるヨーロッパや日本などである。ニューヨークなどで製作されるハウスのシングルレコードの7割近くが国外に輸出されているとも言われている。

 1990年代に入ってからは音楽ジャンルの細分化が進み拡散していく一方、メジャーのアーティストがハウス音楽の独特のリズム(4つ打ち)を多用するようになるなど、さらに一般化の道を進んだ。現在ではアメリカ、イギリスやイタリアを中心としたヨーロッパやオーストラリア、イスラエル、日本を中心としたアジアなど、世界各地に大規模な支持層が存在する。

 日本では1980年代後半頃より、アメリカでの人気隆盛の動きに呼応する形でハウスを主体とするDJが登場するようになった。先駆的な活動を行ったDJ・アーティストとして、1980年に単身ニューヨークに渡り、ハウスを日本に伝導した高橋透を筆頭に、1986年に渡米し、ラリー・レヴァン等とともにパラダイス・ガラージでプレイを行っていたNORI、80年代後半に渡米し、デヴィッド・モラレス、フランキー・ナックルズと共にDef Mix Productionsの一員として活動を行った富家哲(SATOSHI TOMIIE)、1980年にDJ活動を始め、1990年より芝浦で営業を開始したディスコGOLDの立ち上げに、前述した高橋透、NORI等と共に関わった中村直(NAO NAKAMURA)、1985年より活動を開始し、1989年に開催されていたパーティ「コニーズ・パーティ」のレジデントDJを務めたEMMA、1984年の活動開始以降ハード・ハウスプログレッシブ・ハウスシーンの中心人物となった木村コウ等がいる。また、1990年にディー・ライトの一員としてアメリカでメジャーデビューを果たし、『グルーブ・イズ・イン・ザ・ハート』などのヒットを記録したテイ・トウワの活動も特筆すべきであろう。

 1989年、小泉今日子がアルバム「KOIZUMI IN THE HOUSE」を発売したことで、当時AERAでも記事になるなどハウスに対する注目度が一気に高まった。

 1990年代初頭には、GOLDの人気上昇、及び後を追うようにしてオープンしたクラブの大量発生、そしてハウスを標榜した数多くのDJやアーティストの登場などにより、日本におけるハウスの土壌は一定の定着を見た。

 以後、今日まで多くのイベントやパーティが催されている他、大沢伸一のようにハウスの特徴を取り入れた楽曲リリースを続けるアーティストや、田中知之(Fantastic Plastic Machine)や前述のEMMAなどのようなメジャーデビューを果たすアーティストなども多数現れるなど、現在まで様々な活動が続いている。

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参考:アシッド・ハウスとは

アシッド・ハウスとは、狭義にはアナログシンセサイザーの変調効果を多用したエレクトロニック・ミュージックを指す。広義では、1987年頃からシカゴやロンドンで同時多発的に始まった、電子音楽、ファッション、クラブ・カルチャーをミックスしたカルト現象を意味する。

 元々の発生は、1987年、シカゴでDJ Pierreが『Acid Trax』を製作した時、古いアナログシンセサイザー「ローランド・TB-303」のツマミをランダムに動かすことによって偶然生み出されたサウンドが、あたかもアシッドすなわちLSDの幻覚作用を思わせる幻想的なサウンドであったために、この名前がついたといわれている。現在では必ずしもアシッドサウンド=TB-303を使用した楽曲だけに留まらず(もちろん狭義ではそれこそを「アシッドハウス」と呼ぶが)、アナログシンセのフィルターやミキサーのEQなどを用いて音色変化のスウィープ感を強調した音楽全般へと拡大を見せている。ダフト・パンクの登場以降にシーンを席巻したフィルターハウスと呼ばれるジャンルなどがその筆頭である。

 このムーヴメントはやがて、イビサやロンドンにおけるクラブ・シーンを経て、1980年代後半から1990年代初頭の、セカンド・サマー・オブ・ラブからはじまるレイヴ・カルチャーへと進化していった。1993年には世界的なアシッドハウスリヴァイヴァルが起こり、その人気を不動の物とした。近年ではさらにアシッドハウスリヴァイヴァルのリヴァイヴァルといった現象まで起こった。

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ハウス・ミュージック(house music)の特徴

ハウスはソウルやファンク・ディスコのリズムにラテン音楽のリズム(特にピアノやパーカッションのパターン)の融合により誕生し、特徴としては極めて短い同じ音、同じメロディーラインを何度も何度も繰り返す小節が、曲の随所に見られ、聴く者に陶酔感を与えることにある。また殆どがアップテンポなリズムで、BPM(beats per minute;音価の項参照)にしておよそ120前後のテンポをとる。90年代初頭にはダウンテンポの、さらに90年代中頃にはアップテンポなハウスミュージックも誕生し、ダンスミュージックの一形態に止まらない広がりを見せている。

 ハウスは、テクノの各ジャンルと音楽の内容や特徴がよく似ていることが多いため、しばしば混同されやすい。テクノの項を参照すればわかる通り、テクノはシカゴハウスから派生したハウスの一種であった。ハウスとテクノ双方がジャンル的に拡散・融合が進んでいることもあってその区別は難しく、現在では分類が不可能なミュージシャンも多数存在する。

 ハウスには「4つ打ち」と称される、四分音符で1小節に4つのバスドラム音(キック)が鳴る楽曲構成が基本であるが、ただ、ファンキーな味付けのものなどは、必ずしも4つ打ちではない。 ドラムのパターンの特徴として、2拍目あるいは4拍目の16分音符裏にスネアドラムが入ることである。 これは、1970年代のソウルやファンクから影響を受けたためである。 「4つ打ち」のパターンの基本的構成が心臓の鼓動を想起し、一定のリズムを刻んでいくことに起因する踊りやすさ、陶酔性を発生させている。このような傾向が後述する民族音楽との親和性の高さなどを生んだと言っても過言ではないだろう。 さらに、ジャンルによっては「ブレイク」と称されるバスドラム音が鳴らない状態、及び無音の状態が幾度かはさまれることが大半で、この傾向はハード・ハウスやそれに影響を受けたジャンルに顕著である。

 ハウスミュージックはこの世の中の、ありとあらゆる音源との融合体である。トライバルハウス(民族調)は打楽器(コンガ、ボンゴ等)アフリカ系の楽器、リズムとの融合である。このように、ロック、クラシック、ラテン音楽、ジャズ、レゲエ、昨今では太鼓トラックなる、和をモチーフにした和太鼓との融合も出現している。

 【その後の流れ】
90年代に入って以降、それまでに発生していたジャンルへの回帰傾向や、ジャズや、テクノやトランスへの接近と融合による新ジャンルの発生などが行われた結果、ハウス音楽のジャンルは拡散しつつある。また、ロッテルダムテクノやガバへの接近により生まれたハッピーハードコアなど、非常に早いテンポを基本とするジャンルや、テクノとのクロスオーバーが進んだジャンルも発生した。現在では、ガラージュ(garage )、アシッド・ハウス(acid house)、イタロ・ハウス(italo house)、トライバル・ハウス(tribal house)、ハード・ハウス(hard house)、ディープ・ハウス(deep house)、プログレッシブ・ハウス(Progressive house)等々、多岐にわたる細分化がなされている。特にこのうちでガラージュ(ガラージハウス)については、国によってその意味するところは大きく異なる(詳しくはガラージュ参照)。詳しい各ジャンルの詳細については下記の関連項目を参照のこと。

 

===関連項目=====

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参考:カラジュ

ガラージュ(ガラージ、Garage)とは、狭義にはハウスやディスコに分類されるような音楽のうちの、ある種のものを総称した呼び名。通常、かつてニューヨークに存在したディスコ、パラダイス・ガレージで掛けられていたような音楽のことを指す。その正確な定義やジャンル分けには様々な説があり一定していない。

 パラダイス・ガレージにおいてDJのラリー・レヴァンはジャンルを超えた様々な曲を掛けていたが、そうした曲や彼が好みそうな曲などをまとめてガラージュ(ガラージ)と呼ぶことが多い。多くはディスコやソウルに分類される曲だが、彼の選曲はテクノ・ポップから日本のアイドル歌謡曲に至るまでその幅は非常に広い。レヴァンの死後もこうした音楽を愛好するDJやリスナーやクラバーは多数存在しており、クラブイベントや新作レコードでもガラージュと呼ばれるものは多い。そうした意味で、現在進行中の音楽でもある。これが狭義のガラージュである。

 一方、ガラージュという言葉はその後様々に意味が変わったものの一つである。イギリスにおいては、移民の間から始まった早いビートのしばしばMCを伴うダンス音楽をスピード・ガラージュと呼ぶようになり、ガラージュといえばこれを指すこともある。このスピードガラージュはその後、2ステップや、グライムと呼ばれる音楽へと変化していくが、これらを聴いて上記の狭義のガラージュとの共通点を探すことは困難である。ちなみに現在イギリスのレコード屋などでは、ガラージュ(garage)と言えば、2ステップとその関連ジャンル(グライムなど)を指す事が多い。他にもその国や属している(主に聴いている)音楽のジャンルによりこの言葉の意味は変化するため、誤解を招きやすい。

 

 

1980年代後半から世界的に流行した、ナイト・クラブ(日本ではディスコ)でのダンス文化の中から発生したダンス・ミュージックの総称。ハウス、テクノ、トランス、ヒップ・ホップ、トリップ・ホップ、ドラムンベースなどの下位ジャンルがある。70年代のディスコ・ブームは、DJの流すレコード音楽によって踊る文化を定着させたが、80年代中盤になるとディスコはクラブと呼ばれるようになり、DJが制作する新たなダンス・ミュージックに注目が集まるようになった。

 基本的にはミュージシャンの演奏を録音したものであったそれまでのダンス・ミュージック(ファンク、ディスコなど)とは異なり、クラブ・ミュージックの制作には必ずしも楽器の演奏能力を必要としない。DJがクラブで行うDJプレイ、さまざまなレコードを2台のターンテーブルによってつなぎ合わせミックスする実践の延長線上にクラブ・ミュージックは存在する。リズム・マシンによってダンスに適したビートを刻み、サンプラーによって既存のレコードからサウンドのサンプルを採取し配置したり、あるいはシンセサイザーのプログラミングによって楽曲を構築するのがクラブ・ミュージックの典型的な制作手法である。

DJによる音楽制作によって生まれた最初の音楽はヒップ・ホップである。70年代中ごろのニューヨークのブロンクス地区では、同じレコードを2枚用い、2台のターンテーブルを用いて、曲の中の気に入った箇所を繰り返し流して(これをブレイクビーツと呼ぶ)ダンスすることが行われていた。DJが生み出すビートに合わせてしゃべるラップや、アクロバティックなブレイクダンス、地下鉄の車体などに色鮮やかに落書きされるグラフィティなどはヒップ・ホップと総称され、アメリカの都市の黒人文化として発達していく。ヒップ・ホップは80年代に入ると世界的に流行し、DJが新たなミュージシャンとして認められはじめる。

  一方、70年代後半のニューヨークやシカゴのナイト・クラブはディスコ・ブームに沸いていたが、77年にニューヨークからシカゴに招かれたDJ、フランキー・ナックルズ(Frankie Knuckles)(1955― )は、ディスコ・ミュージックに限らない多様なジャンルのレコードをミックスしたプレイで評判を呼んだ。やがて、ナックルズや周囲のDJたちはそのようなDJプレイの延長線で、自ら音楽制作を開始する。ナックルズを呼び寄せたクラブ、ウェアハウスの名を取って、ハウスと呼ばれたこのクラブ・ミュージックは、ディープ・ハウスやガラージュ・ハウスといったさまざまなサブジャンルを生み、やがて大西洋を越えてイギリスへ浸透する。

 イギリスでは1988年ころからハウスが大流行し、社会問題化するまでに至った。イギリスで人気になったスタイルはアシッド・ハウスという幻覚的なベース音を持つハウスで、さらにブリープ・ハウス、アンビエント・ハウスといった新たなハウスが生まれる。

 同じころ、アメリカのデトロイトから登場したのがテクノであった。デリック・メイDerrick May(1963― )らはドイツのテクノポップ・グループ、クラフトワークのサウンドをクラブ・ミュージックに応用し、サンプリングに頼らずシンセサイザー中心に制作される電子ダンス音楽を生み出す。デトロイト・テクノと呼ばれた彼らの音楽は、イギリスのダンス・シーンで評価され、やがてヨーロッパ各地で盛んになる。テクノは次第に単なるダンス・ミュージックではなく、シリアス・ミュージックとも接近し、新しい世代の電子音楽として人気を得る。

 90年ころのイギリスでは、クラブ・パーティーが大規模化し、野外で数万人規模の客を集めるパーティーがレイブと呼ばれ人気を博していた。このころのレイブで好まれた音楽は派手なブレイクビーツを多用するハードコア・テクノと呼ばれた商業的な音楽だったが、やがてそこからレゲエなどの影響を受け、複雑なビートを構築する音楽が派生してくる。ジャングルと呼ばれたこの音楽は次第に洗練され、テクノやハウスの影響を受けながら、ドラムンベースという新たなクラブ・ミュージックに結実する。

 レイブはヨーロッパから世界中に広まっていくが、しばしば自然に包まれた野外で行われたことから、エコロジーやシャーマニズムなどのヒッピー的な思想と共鳴する流れが起こった。ここから、サイケデリックな感覚を強調したテクノやハウスが好まれる中、やがてトランスと呼ばれる音楽が生じ、90年代のレイブで聞かれる中心的なジャンルとなった。

 一方、イギリスでは黒人音楽の愛好家が独自のクラブ文化を形成していたが、90年代に入るとハウスやテクノなどの影響で音楽的な雑食性を示すようになり、その流れでジャズのサウンドをクラブ・ミュージックに取り入れたアシッド・ジャズというジャンルが生じる。また、アシッド・ジャズやヒップ・ホップ、レゲエやダブの影響を受け、90年代中ごろにはトリップ・ホップ(あるいはアブストラクト・ヒップ・ホップ)が発生する。いずれもクラブ・ミュージックの特性――多様な音楽リソースのDJ感覚による編集――を強く示す音楽ジャンルである。

 

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参考:テクノ (ダンスミュージック)とは

テクノ(英: Techno)とは、アメリカのミシガン州デトロイトを発祥とするエレクトロニック・ダンス・ミュージックである。

 また別の概念として、1978年から1980年初期の日本国内において、主に海外や国内のシンセサイザーを取り入れた音楽全般、特にニュー・ウェーヴとクラフトワークに代表されるシンセ・ポップもしくはエレクトロ・ポップ、ヨーロッパの前衛音楽であったプログレッシブ・ロックの一部から現代音楽的な電子音楽そのもの、またはドイツやイタリアのユーロディスコといったディスコ音楽など、多岐にわたる音楽ジャンルを「テクノポップ」、ないしはその省略形として「テクノ」とまとめて呼ぶムーブメントがあった。それら「いわゆるテクノ」については別項テクノ・ポップを参照すること。

 【歴史】
1980年初頭、アメリカのシカゴでは、その大半がゲイの黒人で占められるクラブにおいてDJによるダンスミュージックのさまざまな実験的DJプレイが試されていた(ハウス・ミュージックを参照)。そのような中、それまでのダンスミュージックの歴史にはみられなかった画期的な出来事が起こっていた。音楽作成の素人であるDJや、作曲の知識がなく楽器の演奏もできないクラブ通いの少年たちがDIYでレコードを作り始めたのだった。

それは当時DJプレイでも使われていたドラムマシンの単調な反復のビートの上に、彼らの好きなレコードからベースラインやメロディを持ってきて組み合わせるという非常に稚拙なつくりではあったが、シカゴのDJたちはこぞってそれらのレコードを採用した。こうしたいわゆる「シカゴ・ハウス」や、そのサブジャンルであり偶然に生まれた「アシッド・ハウス」によるムーブメントが当時の地元シカゴでは隆盛を極めていた。

 1980年代前半から中盤にかけ、シカゴに隣接する都市であり、同じく黒人音楽の伝統を持つデトロイトでもシカゴとデトロイトを行き来する人々によりこのシカゴ・ハウスが持ち込まれ、新しい音楽の運動が生まれてくる。この音楽成立に関わった主なアーティストとしては、同じ学校に通っていた音楽仲間でありDJ集団も組んでいたホアン・アトキンス、デリック・メイ、ケヴィン・サンダーソンらの、いわゆる「ビルヴィレ・スリー」(3人の出会った場所が地元デトロイトのビルヴィレ地区であったため名づけられた)が挙げられる。彼らの音楽はシカゴ・ハウスの影響を受けつつも、従来のハウス・ミュージックが持つ享楽性に対し厳しい現実を反映したシリアスな音楽を志向し、音楽雑誌の取材時にはより政治的・思想的な側面を打ち出していた。特に第1人者であるホアン・アトキンスはその時すでにエレクトロのユニットの活動を通して一定の名声を得ており、テクノの上においてもエレクトロの根底に通じる電子的な音のギミックやファンクのベースラインを、思想として黒人特有のSF・未来志向を強調していた。(アフロ・フューチャリズム)

 ハウス・ミュージックに触れる以前のデトロイトの音楽的環境については、デトロイトには基本的にクラブのシーンがなかったので、人々が音楽に触れることの多くは地元の著名なラジオDJ、エレクトリファイン・モジョによるラジオのプログラムを通じてであった。デトロイトにおいて電子音楽の影響が見られるのは、彼独特のセンスで選んだヨーロッパの電子楽器を使った音楽を好んで流していたためだそうである。

【転機】
 1988年、やがて彼らが作っていたデトロイト発のレコードのヒットに目をつけたイギリスのヴァージン・レコードにより、その傘下から編集盤アルバムが発売されることとなり、広報の一環としてイギリスの雑誌「ザ・フェイス」内でデトロイトの特集記事が組まれた。取材の中でインタビュアーが「あなた方の音楽をどう呼んだらいいのか」と問い掛け、それに対しホアン・アトキンスが「おれたちはテクノと呼んでいる!」と答える。

 アルバムにはインタビューの内容と同期するタイトルがつけられ、「テクノ!ザ・ニュー・ダンス・サウンド・オブ・デトロイト」(英:Techno! - The New Dance Sound Of Detroit)は発売された。このアルバムはヒットし、さらにシングル盤として分けられた「インナー・シティ」の「ビッグ・ファン」(英:Big Fun)はイギリスのダンスチャートのトップ10にランクインし、全世界で600万枚の大ヒットを記録した。ここに現在一般に呼ばれる「テクノ」の名称が成立した。

現在への流れ

 上記のようにそもそもテクノはシカゴ・ハウスの影響を通じて生まれてきた。もともとハウス・ミュージックにはあまり存在していなかった電子音]を押し出していたホアン・アトキンスの一連の作品を除いては、音楽的にハウス・ミュージックの範疇から外れることはなかったといわれる。それが区別されるようになったのは、なによりイギリスのレコード会社と契約した後のマーケティング戦略の力であった。しかし現在、テクノとハウス・ミュージックとを音で比較した場合、テクノと呼ばれる音楽のほうがより速くハードに聴こえる。これはこの音楽が広くテクノと呼ばれるようになった1988年以降の出来事によるものである。

 1990年、ヨーロッパでレイヴが続いていたころ、より刺激的な音を持つテクノとみなされたレコード、代表的なところではニューヨークのジョーイ・ベルトラムによる「エナジー・フラッシュ」(英:Energy Flash)やアンダーグラウンド・レジスタンス(UR)の作品などが続けざまに発売されヨーロッパへ流れ込み大きな衝撃を持って迎えられた。今一般にテクノと言われる音が方向付けられたのはこのあたりであるとされている。

 1992年、こうしたいわゆるヨーロッパのレイヴ後に登場しテクノの特徴をさらに推し進めたものとしてハードミニマルがある。その代表的なアーティストとしてはダニエル・ベルやジェフ・ミルズの名が挙げられる。ミルズもまた他のデトロイトのアーティストと同じくヨーロッパにDJのため回っていた一人であり、ハードテクノでヨーロッパに影響を与えていたURの元一員でもあった。「それまでほとんどミニマルと呼ばれる音楽は聴いたことがなかった」と語る彼は、DJプレイを続けているうちにこのスタイルにたどり着いたという。極端に音数を減らした自身の曲を多用しながら、ほとんど暴力的にも聴こえる4つ打ちやパーカッションのみで構成されたレコードを次々と切り替えてDJを行うスタイルは大きなインパクトを与え、その楽曲は多くの追従者を生み出した。

 その後もこういったダンス・ミュージックがかけられる場の人々の欲するままに、テクノにラテンの雰囲気が取り入れられたり、また楽曲のPC作成が進み、より複雑な音のサンプリングの切り貼りが強調され、さらにはミニマルが洗練されてハウス・ミュージックに近づくなど、さまざまな要素を取り込みながら試行錯誤を繰り返しつつ現在へと至るのである。



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