まくとぅーぷ

作ったお菓子のこと、読んだ本のこと、寄り道したカフェのこと。

桜に降る雪 「人生に行き詰まった僕は、喫茶店で答えを見つけた」感想

2020-03-29 18:25:16 | 読書
感染症の猛威により、県知事から週末は外出自粛とのお達しがあり、それを後押しするかのように、雪まで降ってきた。
ついこないだまでポカポカしてたのに、と、せっかく咲いた桜が凍えるように下を向いている。
リビングでは大画面でゲームに熱中する娘とギブソン を鳴らす夫、隣の部屋でマーチンと遊ぶ私。
お腹が空いたらその辺のものを適当に料理したり、お菓子を作ったり。
そして楽しみに取っておいた、発売に先駆けて入手した本を読む。
タイトルは今流行りの長々とした文章。中身は敬愛する珈琲文明の赤澤さんの開業メソッド。赤澤さんに取材しながらライターが書いたものを本人が校閲してる。
それでごめん、さっき嘘ついた。楽しみに取っておいた、っていうのはちょっと言い過ぎだった。何故なら、わたしは赤澤さんの文章が好きだから。彼がブログで書いている人生の三部作がそのまま印字された本ならどんなにかワクワクするのに。バッテリー切れも通信量も気にしないで、いつでも好きなところから開ける本なのだったら、どんなにいいだろう。って言っても仕方ないし、何より、赤澤さんが望んだスタイルでの出版なので、それはそれで楽しく読もうと思った。

主人公二人のうち、40代男性はご本人を存じ上げているし、カフェラボの特別講座でお話もしてくださったので、人物をリアルに想像しながら物語を読むことができた。本の中にもあるけど「もらったバトンを渡す」っていうのをまさに体現した、気合の入ったレジュメをカラーでバンバン印刷して持参してくれた。

うちの会社、このバトンを渡す行為を半ば強制的に先生に依頼してる。1年で1万円という、ほんのちょっぴりの謝礼で、新人先生を先輩先生に面倒見てもらってる。先輩先生がこれについて、本音のところでどう思ってるかは聞いたことがないからわからないけど、表面的にはとても熱心に親身になってやってくれてる。そうやって育った新人が、先輩になった時同じように後輩の面倒を見てくれてる。はず。

だけど大事なことは、バトンを渡してもらえるのは、その人の真剣なことが伝わってこそ。ただ口開けて待ってる奴にはそんなもの渡ってこない。改めて赤澤さんのやってきたことを読み返し、例えばカフェの専門学校に対して「珈琲のことはもういいんで、それ以外のことだけ講義を受けたい。あ、お金もその分しか払わないんで。」って、言ってくる人が違ったら怒って叩き出される案件だと思うし、それがまかり通ったのは、「もう余計なことに使う時間は無い」という必死さがあったからだと思う。

必死、って言えば、赤澤さんはこれまで何度も、「必死になる」経験をしてきている。親御さんの仕事の都合とはいえ、中学3年の夏に転校した先では高校受験に関して加算される内申点がゼロだったという不運な出来事があり、結果「首都圏の中学のワルのアタマが揃い踏みするような」私立高校に入らざるを得ず、ほとんど誰も目指す生徒がいない中で大学受験に挑んだこと。メジャーデビューを果たそうと入った音楽事務所の社長が劣悪で、無理難題を押し付けられては昼も夜もなく応えようとしてたこと。大手学習塾に勤めたものの、山梨に異動を命じられ、業績の悪かった教室を立て直そうと寝袋まで持ち込んで改善していったこと。

多分わたしは何かについて必死になったことがないんじゃないか。というのは、ものすごい逆境、あり得ない苦境に立たされたことがないから。もちろん、こんな日々でいいのかな、死ぬときにいい人生だったって思えるかな、っていうモヤモヤとした不安はいつも心の中にある。それはでもわりと簡単に他の事案のためにすみっこに追いやられてしまう。奈落の底に落とされるような経験はしたけど、自分が身を起こそう、這い上がってお日様を見よう、って決心さえできたら、あとはなんとかなった。

だからこそなんであれ、「必死になれる」人を尊敬する。でもその戦い方にも尊敬できるのとできないのがあって、他人を蹴落としてでも自分が高みに行くっていうのはちょっと違う。今も鮮明に覚えてるんだけど、最初の会社に入ってOJTしてくれた先輩が「新人の時、俺プログラミングの課題の提出いっつも最後で怒られたんだよね。」って笑ってて、それは何故かというと「パソコンの空きを競るのが苦手だったから」っていう、まさに一人一台じゃなかったあの時代ならではのエピソードだけど、そんな先輩のことはとても好きだった。

あ、それで思い出した、必死だった日々がわたしにもあったんだ。入社2年目の海外出張、システムのカスタマイズとインストール。それこそ、技術も営業力も社会人としての矜持も何一つ追いついていなくて、ただただ、本番稼働日に間に合うように毎日遅くまで降りかかる問題を右に左にぶった切るように生きてた期間。スーツケースにリール2本隠し持ち通関する時の縮み上がる心臓の痛みや、ホテルで飲んだ泥水みたいな珈琲、初めて体感する宗教という名の鉄壁。人って眠らないとちゃんと膝が立たないんだ、ってことも初めて知った。

この本を読んだらきっと、自分の中にあるものを棚卸ししてみたくなるはず。格付けとかじゃなくて、それは客観的に自分を知るために。あるいは、元々赤澤さんがお子さんのために半生の日記を書き残そうと思ったように、身近な誰かのために。そうすることで、過去の自分がこれから先の自分へと繋がっていく。だからきっと、手鏡かなんかのように、引き出しに置いておいて、5年とか10年とかしたらまた読んでみるといいんだと思う。ついでに、その頃には本の続編がどこかにあがってるといいな。開店13年目のペンギンカフェや、開店20年目の珈琲文明の様子を知りたいよね。

生まれて初めて経験する深刻な社会情勢の中で、見栄えのいい装いをひん剥かれて裸の中身が露呈しちゃう今、出版されるというタイミングもきっと意味があるんだろう。そういえば赤澤さん、花の中で桜がダントツにお好きだと聞いた。予期せぬ雪も雨に変わり、なんとか持ちこたえた花を見上げるひとときが、今年もあることを心から願う。






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