所で、江戸時代に江戸、大阪、京で活躍した近江商人ですが、もう一方の大商人を輩出したのが、松坂の伊勢商人でございます。越後屋で有名な三井家が代表ですが、元をたどればこれらの伊勢商人もルーツは近江商人でございます。
信長、秀吉に可愛がられ実際に武将としても、経済官僚としても有能であった、近江日野郡出身の蒲生氏郷は、秀吉の命により、日野から伊勢松坂12万石に移封されます。この時氏郷は松坂の田園に都市区割をし、この地を商業都市にするために、故郷日野から日野商人を根こそぎ移住させました。これが伊勢商人の始まりとなります。三井氏はこの機会に武士から商人になったのが、起こりとされます。
蒲生氏郷はその後会津に転封されますが、この地でも会津塗に代表される漆器などの物産を開発して、奥羽の経済政策の礎としています。若くして亡くなりますが、非常に有能な武将であったと感じます。
更に尼子周辺の旧跡を紹介致しますと、古い方では野洲市の御国神社と並んで近江三宮の多賀大社がございます。大社と呼びだしたのは当然明治になってからですが。
因みに、近江の一之宮は大津の建部神社(祭神は日本武尊であり、犬上氏と同じ祖先伝説を持つ軍事集団建部氏の祖社)、二宮は日吉神社(言わずと知れた比叡山の鎮守神)で、全てが式内社というのは、さすが先進地帯の近江ですな。
さてこの多賀大社。祭神は伊邪那岐命・伊邪那美として有名ではありますが、どうも違う雰囲気が。
もともと伊弉諾祭神の根拠地は、古事記写本のうちの真福寺本に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」の記述があり、近江の多賀と普通に解釈してきました。
しかし、実際の伊弉諾の本拠地は古事記国生みで最初に生んだ淡路であり、日本書紀には明確に国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島の地に幽宮(かくりみや、終焉の御住居)を構えたとあり、おそらく前者は写し間違いと思われます。
藤原忠平らによって延長5年(927年)に編まれた『延喜式神名帳』では、当社は「近江国犬上郡 多何神社二座」と記載され、小社に列され「二座」とはありますが、伊邪那岐命・伊邪那美命とされていたわけではありません。恐らく近辺の犬上神社、甲良神社ともども犬上氏の祖神ではないかと思われます。
最後に国宝彦根城。この城は大阪の秀頼を討滅させるために、井伊家の重臣たちに命じて物色させた家康がこの地に決めたことを、大いに賛同したところから、築城が始まっています。
時間的に余裕が無かったこともあり、近辺の石田治部少の居城であった佐和山城や、京極氏の大津城、安土近辺の六角氏の本拠であった観音寺城などの資材を流用。特に彦根駅を挟んで至近の佐和山城などは根こそぎ持ち出されており、佐和山は文字通りただの山になってしまって現状となっています。最近は山麓に「佐和山城跡」の看板が出ましたが、以前は全く見分けはできませんでした。
資材もそうですが、この城は公儀普請とし、7か国12大名に手伝わせており、徳川家の先鋒たる井伊家の城として西国三十数か国への睨みを担って築城された訳ですが、司馬遼太郎氏によれば、武威の象徴よりも湖畔にあって雅さを感じさせる佇まいと表現されています。
確かに、ここ最近は仕事で訪れる時間は取れないものの、城周りを歩くとその優雅さは現存十二天守の城のうちでも、好みは別として姫路と双璧だとは思います。
明治になって太政官令により多くの城がこぼたれたなかで、明治大帝がこの城をご覧になり、その典雅さに感じて是非残せとのことで残されたとの伝承は、あながち間違いではない気分になります。
天守は大津城を移築したと伝えられていますが、この城の素晴らしさは藩政時代の城郭をそっくりそのまま現存しているということだと思います。
数年前の1月末に十数年ぶりという大雪(彦根で60センチの積雪を記録)に、尼子の駅で3時間半も電車を待つという経験も致しました。近江牛も高くて出張で口に入ることはありません。好物の鮒ずしも高いしねぇ。多賀大社は未だにお詣りに行けてません。
近江という国は近畿の水がめ琵琶湖の周りに多種多様の文化を蓄えた、魅力的な土地柄で、日本の古代から中世の良質の遺産が数多く残されています。湖東の彦根をちょっと摘まんでみても、これだけの掘り出し物が。ゆっくりと時間を掛けて周遊してみたい、地の一つではございます。