新たに創建された神社ばかりではありません。明治に吹き荒れた廃仏毀釈の影響で、仏教寺院が神社に代わった例もあります。
代表的なのが、山形県米沢市の上杉神社。戦国を飾る代表的な武将上杉謙信が急死(天正6年1578年)後、遺骸は城内の不識庵に仏式で祀られており、上杉家の移封と共に、会津を経て米沢に遷され、城内2の丸の報音寺を主席とする11の寺院で祭祀をされてきました。
明治になって廃城令と、神仏分離令により、城外の上杉家霊廟に移され、同時に次席寺院の大乗寺の僧侶が還俗して神官となり、大乗寺の姓を名乗り上杉神社の宮司として現在も続いているとのことです。
もう一つが出羽三山神社。言わずと知れた月山、湯殿山、羽黒山の元々修験道の道場であった、ものが明治になって三山一体として神社となりました。
元々は修験道が仏教に属するのか、神道に属するかは微妙ではありますが、江戸時代に別当寺が、仏教寺院として一体となっていたようです。
これが明治6年の神仏分離令により、時の国家神道推進の急進派であった西川須賀雄が宮司として着任し、その際に廃仏毀釈が行われ、特に羽黒山において、伽藍・文物が徹底的に破却されました。その結果、別当寺が廃され神社となって3社を1つの法人が管理することとなり、出羽神社に社務所が置かれ、現在に至っています。
現在の宗教法人としての正式名称は「月山神社出羽神社湯殿山神社」となっており、出羽三山神社は俗称でございます。
さて、明治になって建立された神社を挙げてみましたが、実は明治以降は実際には大幅に神社の数は減っております。
明治39年(1906)12月に1町村1社を原則として統廃合を行う「神社合祀令」が発布されました。最も顕著なのは三重県で6500社が1/7に、和歌山県では3700社が1/6に減少し、1913年には19万社が12万社迄大幅に減少しました。
その結果古来の神々の由緒が大きく損なわれ、特に出雲系の信仰が大きく後退し、記紀神話の皇統譜に統一されていくという、現代では北朝鮮かIS国並みの偏狭な思想統制に近いことが行われました。
この施策により物理的には広大な面積の鎮守の森が失われる結果にもなり、入会地として農村の大きな財源が国家に摂取されることにもなりました。
あの戦争により多くの変化がありました。
神道は宗教か否かという問題が戦前は議論されたようですが、国家神道という中では宗教を超えた教育の基礎とされ、教育勅語はこれが根底となっているようです。
明治維新とは、全てがハッピーな変革ではありませんでした。
人民の90%を超える農民が四公六民と(後に誤解から天領と呼ばれた幕府直轄領では江戸時代を通じて保たれた)米で納めていた税が、現金での支払いに代わり、それだけで農民の小作化(不在地主の出現)が著しくなり、更に古代防人時代以来の徴兵制度で労働搾取されと、一般の国民には迷惑極まりなく、それゆえに維新後に所謂一揆は大幅に増加しています。
戦後、その時代に生まれたことの幸せは、神社の変遷を見ただけでもなんとなく実感できるように思えます。