日本では著名な雷神さんがあと2柱ございます。
古事記、日本書紀で有名なのが前述の、鹿島神宮とその分社として藤原氏が奈良に迎えた、春日大社の主神であります建御雷神(たてみかづちの神)。そして実在した人間が神となった最初の例である、菅原道真の天神様であります。
まずは建御雷。生まれたのは冒頭の如く、カグツチの血からでありますが、古事記の「出雲の国譲り」の場面が最初の活躍の場面でございます。
事の発端は高天原の天照大神による豊葦原の中つ国を、息子である天忍穂耳に統治させようとしたことによります。この辺りは関西系やくざの、関東進出のようにしか思えないところでございますが、現代の世相とは異なる価値観なのでしょうか。
いずれにせよ2度の先兵を派遣しますが、大国主の前に失敗して、取り込まれてしまいます。この辺りは古事記に詳しい。満を持して出雲の伊邪佐小浜(いざさのおはま)に天鳥舟にのって、降臨した建御雷神は十束の剣を波の上に逆さに突き立てると、その切っ先に胡坐をかいて、「われは天照大神と高木の神(高皇産霊神の別名)の命により、あなたの治める豊葦原の中つ国は、天忍穂耳命が治めるべきと、交渉に参ったが、お考えは如何?」と大国主に問いかけます。
口調は柔らかですが、なんせ雷の神様ですので、すごい迫力であったのでしょう。
大国主は息子の事代主(ことしろぬし)に預けてしまい、事代主は物わかり良くも認めます。
唯一反対して歯向かうのが、大国主のもう一人の息子である建御名方(タケミナカタ)でしたが、手の握りあいで冷気を浴び、最後には投げ飛ばされて、信州の諏訪(現諏訪大社)に逃げ込んで恭順してしまいます。
国譲りの条件として現出雲大社に壮大な社を造らせて、大国主は隠遁しこの国は天孫の統治するところとなります。
書記では香取神宮の経津主(ふつぬし)の神と一緒にやはり、剣の上にあぐらをかきという場面から、折衝を始めるといった具合となります。
神話にもう一度登場するのは、神武東征に際してのお話でございますが、鹿島神宮の成り立ちになります。瀬戸内を下り難波に上陸しようとした東征軍はナガスネヒコの反撃にあい、熊野に上陸地点を変えますが、ここで嵐に合い次兄、三兄が絶望のあまりに入水。さらに神武自身も熊野の神の毒気にあたり、壊滅の危機を迎えますが、この時に建御雷が神剣をもたらし、神武の毒気を払い蘇生するというお話。以降高木の神の遣わした、八咫烏(サッカー日本チームのシンボルですな)の道案内によりヤマトに向かって進軍、やれめでたしとなるわけです。この時に神武が感謝して建御雷を鹿島に祀ったとされます。随分遠いような気もしますが。この神様が藤原氏に祀られる経緯は、これも別稿とさせて戴きます。
さて、最後を飾るのが天満大自在天。天神様として有名な菅原道真でございます。
ところで日本の神様には、実在した人物が神になったことは平安中期までは皆無です。この菅原道真が最初の例となりました。
今では明治の神仏政策により、神社と仏教寺院は全く別物と捉えられていますが、この布令がでるまで、区別のつかない「宮寺」が大多数でありました。
天神様として、大宮神社の摂社の神社を紹介したときに、太宰府と、北野天満宮のお話を致しましたが、太宰府の方はどちらかといえば墓所に近い。北野天満宮をメインに致しましょうか。
菅原道真の簡単な紹介を致します。元々は古代豪族の土師氏の出身で、奈良時代に居住地である平城京内の菅原の地(現在も菅原寺がございます)に因み、土師の宿禰から菅原の朝臣に改姓を許されました。平安時代には文書博士を出す、学問の家として知られ、道真も大学の文書博士等を歴任。ここから天神さんが学問の神となる所以があるようです。
さて道真、宇多天皇の厚い信頼を受け、最終的には異例の右大臣兼右大将まで昇進します。ここまで大臣にまで登るのは、摂関家と陽性源氏以外はございませんでしたので、まさしく異例なんですな。遣唐使の一時中止などという活躍は十分に興味深いのですが、これも改めて稿を起こしたいと思います。
さあ、ここで摂関家の藤原氏の凄まじい攻勢が始まるわけです。
時代的には醍醐天皇(宇多天皇の子)になってからですが、直接的には藤原時平の讒言が基となります。曰く、醍醐帝を廃し、道真の娘婿である斉世(おきよ)親王を皇位につけようと諮ったというのが、その讒言。醍醐帝の勅命に従い、道真とその子の高視(たかみ)を始めとして縁故者十数人を筑紫の太宰府に配流します。
平安の律令制度下では貴族に刑罰は行いませんので、形としては右大臣から太宰府権師(だざいふごんのそち)に、降格のうえ転勤という処置となります。
実際には太宰府のそばの浄妙院という荒れ寺で、2年間幽閉され、59歳にて亡くなります。
こののち都では次々にて天変地異や、政敵の死という異変が起こり、これが道真の怨霊によるものと噂されます。圧巻は延喜8年の藤原の時平の39歳での死となります。時平といえば、以前紹介した延喜式を取りまとめていた最中でございますな。
決定的になるのは、時平の娘が妃であった醍醐帝の皇太子保明親王が亡くなったことです。慌てた天皇以下は、道真を右大臣に服したうえで、正二位まで位階を進めますが、更に次の皇太子の死去、果ては清涼殿への落雷により藤原氏の公卿数人が亡くなり。醍醐上皇もその数日後に薨御という風に続きます。その後都に天変地異や災害が発生するごとに、道真の怨霊の故とされ、祭ろうという機運が次第に高くなっていくわけです。現在のネット社会の如くですね。
さて、この道真の怨霊が北野の地に神社(正確には宮寺)に坐すことになる経緯ですが、これは庶民の巫女(多治比文子)とか禰宜の子息(太郎丸)に道真が神がかりしたりして、それを元に朝日寺の僧侶(最鎮)が協力して社殿を造営したのが始まりです。もともとこの地には、前述の記紀などの神話に登場する雷神とは異なる雷神の祠があり、毎年豊作祈願の祭りがあったと記録に残っておりますし、元々京都盆地は夏の雷が多いのではございます。
この雷神信仰と道真の怨霊進行が結びついたとも思われます。いずれにせよ天神というのは天上にあって鳴動する雷神を指すものであり、他にも京都市内には別口の天神の祠がいくつかあったようです。
御霊会というのは元々怨霊を鎮めるもので、天台・真言の僧によるいわゆる密教による仏教儀礼でございます。従って北野天神もどちらかといえば、神社というよりもまさに宮寺で、明治までは神仏習合の天台宗の宮寺(延暦寺系列下の曼殊院が別当)でした。明治になって神仏分離政策により、宮寺の寺院建築は殆ど破棄され、現在の姿になりました。
この神社は戦国期以前に初めて実在した人物を祭る神社であり、この社殿は戦国期の武将を祭る霊廟建築の規範とされ、秀吉の豊国廟や、家康の東照宮の建築様式に採用され、家康に因んだ「権現造り」とも呼ばれるようになります。宮寺や、神仏習合、明治の廃仏毀釈による神仏分離につきましては、また別の機会に語らせて戴きます。
いずれにせよ、雷は怖いものです。雷除けのくわばらくわばらについても、道真の両地であったとかという言い伝えがあるようです。栃木・群馬(毛野国)も雷の多いところでございます。この辺りでゴルフに興じる場合は、是非お気を付けくださいませ。