今年の元旦に発生した、M7の大地震は能登半島先端に大きな被害を与え、未だに避難の方が多く、復興もまだの様子です。心よりお見舞い申し上げます。
わたくし自身も関連会社への営業訪問で、石川県能登半島に何度か参りました。千葉に比べると多少大気温は低め。例えば4月、小松空港ビルから、空港バスで金沢へ。バス乗り場に出るとスーツだけでは結構寒く、コートを羽織りました。花のすっかり散ってしまった千葉に比べ、北陸の桜は満開でした。
2日目は金沢から能登半島に、何年か前に無料化となった「のと里山海道」を北進。能登中核工業団地にある顧客の北陸工場を目指します。
春霞に水平線がかすむ日本海は、ひねもすのたり、のたりとしてみたい、春の渚に打ち寄せる波音も優しく。
で、今回のテーマは能登。左の親指を第一関節から、クイっと曲げたような姿のいわゆる能登半島のほぼ全部。実は父方の祖母の出生地であり、同時に母方の祖父のルーツも能登にあると、昨年1月に母の弟である伯父が亡くなり雪が解けた(旭川でございますので)頃に弟夫妻と焼香に参りまして、初めて知りました。
能登の語源はアイヌ語で岬を意味する「not」からという説がございます。
元々は越の国の一部。都から見れば山を越すから越の国。越の国は律令国名で西から越前・加賀・能登・越中・そして越後に分割となり、現在で言えば福井(越前)石川(加賀・能登)富山(越中)新潟(越後)と4県にまたがる大国であります。そうそう忘れていけないのは佐渡も越の国でした。出羽も確か元々はそうだったかも。
能登の国は養老2年(718年)、越前から羽咋、能登、鳳至、珠洲の4郡を分立し、成立しました。同じ年に安房国が上総から分立しており、律令制度の旧国名では最も後に成立した国の一つといえます。
時代的には元正帝の時代。藤原不比等が養老律令を編成し、その2年後に亡くなります。丁度日本書紀が成立し、古代天皇制(律令制の確立として)が天武帝以来徐々に確立していく時代ですね。
ところが、天平13年(741年)にいったん越中に併合され、更に天平宝字元年(747年)に再度分立されて以降は定着しています。
古代(平安中期くらいまで?)は実際に国守が赴任しておりまして、成立頃の国守としては古代貴族である平群(へぐり)虫麻呂(765年)、その随分後ではありますが「和名類聚抄:平安期の辞書」正編纂者として有名な源順(みなもとのしたごう)が986年に赴任しています。
武家の時代になると、実際には赴任せず官位のみとなりますが、最も有名というか、個人的な好みでいえば、大納言平知盛(清盛の三男)とならんで武家としての平家最後の華、能登守平教経です。壇ノ浦で義経を追い回し、いわゆる八艘飛びで義経が逃れると、付近の源氏の郎党を両脇に捉えて、入水したといわれる平家最後の豪傑ですね。
室町時代には畠山氏が守護となり、特産のこのわた等を将軍に貢いだ(献上)りしています。
奥能登には時国家という、文化財がございます。学生時代に練習船実習にて輪島に停泊したときに自由時間を利用して、下時国家には参りましたが、江戸時代の藩主加賀家の当主でも入れないという部屋があったり、欄間には平家の揚羽蝶の紋所が金具で施されたりと、見事な造りであったと記憶しております。今回の地震で上時国家の方に被害が出たと、聞き及んでいます。
この時国家は、「平家にあらずんば、人にあらず」とのたまわった、大納言 平時忠が壇ノ浦で平家没落後配流され、その子時国が興した家であり、代々続いた建物です。
大納言時忠は長女滋子を後白河帝に嫁がせ(建春門院)、高倉天皇の外祖父となり、妹の時子を清盛に嫁がせ、建礼門院徳子や知盛などの母となりました。
徳子は高倉帝との間に安徳天皇を産み、壇ノ浦で入水しますが義経に助けられたのち、京都大原の寂光院にて余生を過ごすことになります。
この輪島停泊でのもう一つの思い出が、若い海女さんでございます。当時高校を卒業したばかりでお母様の後を継いで海女になった、私と同世代のキュートなお嬢さんです。週刊誌などで有名になり、たまたま朝市でお店に出ているところに巡り合い、写真を撮らせて戴き少しだけ親しくお話をさせて戴きました。そういえば、同世代でございますので、彼女も70歳になるのですね。写真では若いままのお奇麗な姿で残っております。
さて、能登守で有名なところは、ずっと時代は下がり江戸は享保の頃。大岡政談で有名な大岡忠相、時代劇の花形、大岡越前守であります。
忠相は山田奉行(伊勢山田の為政官)就任に際して、能登守に任官しますが、その後八代将軍吉宗に抜擢され江戸北町奉行に。その際中町奉行であった坪内定鑑の名乗りが、同じく能登守であったため、越前守となったそうです。
能登の名産で有名なのが、海鼠(ナマコ)の加工品です。この海鼠という海産物ですが、最初にこれを食べようとした不思議さの食べ物の代表格でございます。勇気なのか、物好きなのかはたまた切羽詰まった飢餓のせいなのか。
良く云われる話として、飢饉が起こるたびに食べられるキノコの種類が増えるとの、説ですが、この海鼠も同様なのかと思えるほどに奇怪な海産物です。
ナマコの語源は「コ」でありまして、生で食べられることから「ナマコ」もしくは滑らかから三文字になったとも。茹でて干したものを煎りこと称したことから、生のものをナマコとしたというのが、なんとなくあたっているように思います。そして漢字で海のネズミと表記されるのは、後姿の類似性と夜行性という共通項によるもののようです。
いわゆるウニなどと同じ仲間の棘皮類でございます。生体としては非常にユニークな生物で、それだけでブログが一つや二つ書けそうですが、ここではその加工品について。
まず食べ物としては、生で酢の物というのが、まず一般的でこれは多分縄文時代にも食されていたと考えられます。まあ、縄文時代に食用酢があったかは、ちょっと判りませんが。なんせ動かないので補食が簡単。最初の捕食者は蛮勇の塊なのでしょう。先ほど出た茹でて干したのが煎りこですが、これは中華料理にも使われ、日本からの貢ぎ物(古代から中華の帝国は、貿易は貢物と、それに対して下賜という形がとられましたので)として輸出も盛んであったと思われます。中華料理と、滋養強壮の漢方薬として現代でも盛んに用いられます。
出雲風土記にも税の一種として表れますが、伊勢湾、三河湾とならんで能登半島の名産品としても有名です。
加工品としてはウニ、からすみと並んで三大珍味である「このわた」。いわゆる腸の塩辛でございます。結構面倒な作り方となります。そのまま生でも食されますし、美味のようです。平安時代にすでに能登の産物として、延喜式には中央政権への能登のみの、貢納物として記録に残っています。
そして生殖巣、つまり動物で言う卵巣にあたるのが「このこ」もしくは「口子(くちこ)」と呼ばれる、もう一方の加工品となります。1~3月の繁殖期に口の下側にある生殖巣が肥大することから、口子と呼ばれるそうで、「このこ」ついては、(なま)この子からのネーミングとなります。軽く塩をして塩辛にしたものや、能登の名産品である三角形に干した口子が有名でございます。干しあがった姿から三味線の撥にたとえて「ばちこ」とも呼ばれます。
よく同行した部下が、居酒屋で顧客に紹介されて食し、それは美味であったと能登に同行するたびに口にしていました。あたくしは残念ながら未だに賞味していない、美味の一つでございます。
今回の地震が1月の繁殖期に入る時季でもあり、漁港もかなりの被害に。漁場はどうなったのか。漁師さんたちの苦慮はいかばかりかと、ただ心配するばかりでございます。