実は神様や神話も好きですが、仏教・仏像が大好きでして、家には仏教関係の本や、仏像に関わる本や写真集が沢山ございます。いわゆる仏像では大好きな尊像が3体あります。
正確に申し上げれば、仏像とは本来、如来像、即ち悟りを開いた釈尊を初めとする、大乗仏教でいう、各如来の像を指しますので、仏像、菩薩像、天部像各1体というべきですね。いずれも国宝で、非常に人気の高い尊像で、言ってみればわたくしもミーハーです。
先ず、如来像としては、大和の伊賀に近い柳生の里の少し手前にございます、忍辱山円成寺の、運慶作「大日如来像」であります。実はこの尊像はどうも運慶のデビュー作らしい。台座の内部に墨書がありまして、間違いはなさそうです。
お参りに行ったのはもう随分前。当時のご住職の洒脱な御説法とともに、この仏様のえもいわれぬ、艶めかしい腰の廻りと、穏やかで若いお顔にしばし見入ってしまいました。
2004年に本像と非常に似た大日如来像が初めて紹介され、08年にクリステェーズのオークションにて日本の真如苑が落札したとの話題がございました。
現在この像は半蔵門ミュージアムに常設展示されています。こちらは重文。コロナ騒ぎで残念ながらこちらはまだ拝観していません。
菩薩像については、飛鳥中宮寺の菩薩半跏思惟像。最近の旅行番組を見ていたら、この尊像を如意輪観音と言っていました。如意輪観音って、確かに思惟像なんですが、あたしのイメージでは六臂で立膝のとても艶めかしいもので、好みの尊体ではありますが。あたくしとしては、この中宮寺の尊像は弥勒であると思っています。
釈尊入滅後56億3千万年後に、思惟の修行を終える弥勒に相応しい表情としか思えなく。このお姿にも、20分程度見入ってしまった記憶があります。いわゆるアルカイックスマイルと呼ばれる、曖昧なほほえみと、ほほに添えられた指先に魅入られた。たまたま空いていたので、尼ご住職とも少しの間、お話を交わさせて戴きました。
最後が、奈良興福寺の天部像、国宝阿修羅像です。少し眉を寄せ、何かに戸惑う美少女めいた表面の表情が本当にいとおしく、これもそれほど混んでなかったのを幸いに、じっくりと拝見し、思わず涙が(笑)こちらは人臣初の皇后である光明皇后により、同時に八部衆として何体かの観音の眷属として制作されたものの一体です。
元々阿修羅を含めた八部衆は同寺の東金堂に納められていたものです。
東金堂は元々光明皇后が1歳にて亡くなったその子(皇太子)の供養のために建立された御堂です。
光明皇后は藤原不比等と橘三千代との間に生まれた、諱は安宿媛(あすかべひめ)通称は光明子、藤三娘(とうさんじょう)、正式尊号は天平応真仁正皇太后。
聖武天皇の皇太子時代に結婚。養老2年(718)阿部内親王(後の孝謙・称徳天皇)出産。神亀4年(727)基王を生み、皇太子に立てられるも、翌神亀5年に夭折。
このために、後継問題が発生し藤原4兄弟により長屋王(天武帝の子高市皇子の子で、皇族であり正2位左大臣の最高位にあった、高階氏の祖先)の変がおき、直後に皇后の詔が出され、王族以外から最初の立后となり、以降藤原氏の子女が皇后になる先例となりました。
事績としては、東大寺、国分寺の設立を夫である天皇に進言し、悲田院(困窮者への施設)施薬院(慰労施設)を設置。更に聖武天皇崩御後の49日に遺品を東大寺に寄進し、その宝物を治めるために正倉院が創設されたという、天平文化のエッセンスを現代に残してくれた恩人といっても過言ではない女性です。随分お金も使ったんだろうな・・・。
そして、藤原氏の菩提寺として興福寺を創建し、東金堂を設立し八部衆を作らせました。
幼くして亡くなった基王が育つ過程を八部衆に託したという説もあり、阿修羅の少年のような正面は、特にその面影を感ぜさせます。
ところで光瀬龍というSF作家が故人ですがいらっしゃいまして。私は殆どの作品を読みましたがその中に「百億の昼と千億の夜」という作品があります。非常に難解な作品で実は萩尾望都さんによりコミックにもなっています。この作品のメインキャストは釈迦(ゴータマ・シッタルダ)、キリスト(ナザレのイエス)、プラトンと阿修羅ですが、この阿修羅のキャラクターモデルは、この興福寺の阿修羅像であり、釈迦が帝釈天により案内される兜率天で思惟している未来物の弥勒は、中宮寺の菩薩像がモデルとなっています。
さて、釈尊自体は、「自灯明・法灯明」(自らを依り所とし、法を依り所とせよ)という基本的理念から、自身が根本的な信仰対象であるとは考えていなかったようですし、原始仏教では、哲学的側面が強かったこともあり、仏像が信仰の対象として現れるのは、入滅後500年を経てからだと。
マトゥラ、ガンダーラ、何れが先かは未だに意見の分かれるところのようです。
最初はストゥーパ(卒塔婆)や、佛足跡、法輪などが信仰の対象であったのが、ガンダーラでは、アレクサンダーの東方進出などで、ギリシャ風の尊像が成立してきて、仏像に到ります。それが隋・唐を経由して飛鳥・平安と時代を経て鎌倉時代に日本の仏像として確立していく。ロマンです。
写真は「カラー版日本仏像史:水野敬三郎氏監修」美術出版社より