2025年の大河ドラマ(第64作)は『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』に決まっています。
主演は俳優の横浜流星さん(26)が務める。
江戸時代の版元で浮世絵師の喜多川歌麿や葛飾北斎を世に出したことで
知られる蔦屋重三郎(1750-1797)の生涯が描かれます。
脚本は森下佳子さんが担当されます。制作統括:藤並英樹
プロデューサー:石村将太、松田恭典 演出:大原拓
今から約11ヶ月先の2024年8月からクランクインするそうです。
蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう)(1750-1797)の基本情報
生まれ:寛延3年1月7日(1750年2月13日)
死去: 寛政9年5月6日(1797年5月31日)
父:丸山重助 吉原で遊郭の勤め人であった
母:津与
出生地:江戸吉原 略称:蔦重
のちに喜多川氏の養子になった。名前は喜多川柯理(からまる)
「蔦屋」は喜多川氏の屋号。
吉原の茶屋といわれる。また、「耕書堂」とも号した。
蔦屋の商標は富士山形に蔦の葉
江戸時代の版元で浮世絵師の喜多川歌麿や葛飾北斎を世に出したことで
知られる蔦屋重三郎(1750-1797)の生涯が描かれます。
脚本は森下佳子さんが担当されます。制作統括:藤並英樹
プロデューサー:石村将太、松田恭典 演出:大原拓
今から約11ヶ月先の2024年8月からクランクインするそうです。
蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう)(1750-1797)の基本情報
生まれ:寛延3年1月7日(1750年2月13日)
死去: 寛政9年5月6日(1797年5月31日)
父:丸山重助 吉原で遊郭の勤め人であった
母:津与
出生地:江戸吉原 略称:蔦重
のちに喜多川氏の養子になった。名前は喜多川柯理(からまる)
「蔦屋」は喜多川氏の屋号。
吉原の茶屋といわれる。また、「耕書堂」とも号した。
蔦屋の商標は富士山形に蔦の葉
蔦屋重三郎は吉原に関係することが多いことから
吉原について調べてみた。
吉原は江戸で唯一幕府から公認された遊郭である。
人口の7割を男性が占める江戸の町で風紀の乱れを予防するための必要悪
として存在が許された。
当初、吉原は繁華街として栄えていた日本橋にあった。この地には葭 (よし)が
生い茂っていたいたため「葭原」と呼ばれたが、葭は「悪し(あし)」とも読め
縁起を担いで「吉原」と称するよになった。営業は昼間のみで客の中心は武士だった。
元々は大御所徳川家康終焉の地である駿府城下町にあった二丁町遊廓から
一部が移されたのが始まりである。
しかし、江戸市域の拡大で吉原が江戸の中心地に隣接する状況になると
これを好ましくないと思った幕府のメスが入ることとなった。
上の写真は寛永期(1624-1644)も吉原遊郭周辺の地図
明暦3年(1657)、幕府は深夜営業を認める代わりに日本橋から浅草の千束に
広がる田園地帯への遊郭街の移転を命じました。
元の吉原に対して「新吉原」と呼ばれた。
市街地から隔離されたことで客層の中心は武士から町人へと移行した。
時代をリードする知識人層が集うようになった吉原は一流の社交場としての
格式をもち、江戸文化の最先端を担う場所となった。
新吉原は昭和32年(1957)の売春防止法が施行されるまで歴史が続いた。
上の写真は新吉原遊郭の内部の案内図
出典は安政2年(1855)に発刊された「花廓新宅細見図(はなくるわしんたくさいけんず)」
東北大学附属図書館蔵
安永2年(1773年)、蔦屋重三郎は23歳で吉原大門の前に書店を開き、
はじめは鱗形屋孫兵衛に独占されていた吉原細見
(店ごとに遊女の名を記した案内書)の販売、出版から
出版業に関わっていった。
はじめは鱗形屋孫兵衛に独占されていた吉原細見
(店ごとに遊女の名を記した案内書)の販売、出版から
出版業に関わっていった。
上の写真は新吉原大門口時代の蔦屋店頭
出典:松木寛「蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者」(1988) Page34
新吉原遊郭の周囲は堀で囲まれ、高い塀が巡らされた。入り口は大門一つのみ。
門の両サイドには番所があり、一方には町奉行が派遣した同心と岡っ引きが詰め、
往来に厳しい監視の目を光らせていた。
十返舎一九 編著、喜多川歌麿 画「青楼絵本年中行事」 享和4年(1804)で、
新吉原遊郭の様子を垣間見ることができるのでその一部を写真添付しました。
青楼とは吉原のことを指しています。
上の写真は室津の浄運寺の本堂に掲示されていた「諸国遊所競」の番付表で
著名な場所に混じって、たつの市室津は西前頭の上位8番目に出ています。
著名な場所に混じって、たつの市室津は西前頭の上位8番目に出ています。
撮影:2017-11-5
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