JR西日本は「ちょこっと関西 歴史たび」というキャンペーンを2013年から実施
されています。毎年、春、夏、秋、冬の4回。関西の由緒ある史跡を選び、期間限定の
特別公開や特別講座、ガイド付きウォークなど魅力的な企画です。
2019年1月12日(土)から3月22日(金)までは明石城のキャンペーンです。
本ブログではキャンペーンの内容をJR西日本のPR誌「西NAVI」より紹介するとともに
明石城に関する歴史を中心に記載していきます。
PR誌「西NAVI」
明石市立文化博物館
撮影禁止となっていますので私が撮った写真はありませんが1月12日(土)に訪問済
同時開催の竹久夢二展については下記ブログを作成済です。
明石市立文化博物館 新春特別展 竹久夢二展 見学記 on 2019-1-12
また、下記サイトで明石市市制100周年及び明石城築城400周年記念に関して
ブログを作成していますのでリンクしておきます。
明石市市制施行100周年イベント予定 目玉は11月23日-24日開催予定のB-1グランプリ
上の4枚の写真は西NAVIで紹介の展示内容の解説
実際の展示では明石城を説明したビデオや場内、武家屋敷、商人が住んだ城下町の
区域が判るパネルが判り易い解説であった。
また城郭復元のジオラマも理解しやすい展示であった。
上の写真は1月12日(土)18:30からのテレビ大阪の番組「おとな旅あるき旅
兵庫・明石へ!冬に食べたい瀬戸内の幸と明石名物を堪能」よりジオラマに主要な
名称を記載したものです。
上の写真は同じくテレビ大阪の番組よりで第8代明石藩藩主・松平直明の鎧兜などの展示
上の写真は明石市立博物館の掲示板に掲示のPRポスター
撮影:2019-1-12
上の写真は「ちょこっと関西 歴史たび 明石城」の幟旗
撮影:2019-1-12
明石城の歴史
概要説明
明石城の概要説明を明石城パンフレット(一部加筆)より引用紹介します。
「元和三年(1617)、小笠原忠真(おがさわら ただざね)が信州松本より
明石に国替えとなり、現在の明石城より南西約1km程の所にあった船上
(ふなげ)城に入ったことから明石藩が生まれた。
現在の明石城は、元和四年(1618)徳川二代将軍秀忠が、西国諸藩に対する
備えとして、藩主忠真に新城の築城を命じたことに始まる。
徳川秀忠は姫路城主であった本多忠政の指導を受けるように命じ、3ヶ所の
築城候補地をあげ、現在の地が選ばれた。幕府は普請費用として銀壱千貫目
(時価31億円程度)を与え、3名の普請奉行を派遣している。
この頃、姫路藩本多忠政に仕官していた宮本武蔵が町割り図を作った。
石垣の普請(=現在の土木工事)は元和五年(1619)の正月に始められ、
工事は町人請負で行われたとされる。本丸、二の丸等の城郭中心の石垣、
三の丸の石垣、土塁及び周辺の堀の普請が同年八月中旬に終わり、幕府より
派遣の普請奉行はその任を終え江戸へ帰参している。
幕府直営工事は本丸、二の丸、三の丸までで、その他の郭の石垣・土塁工事は
幕府と小笠原氏の共同工事で行われている。
普請を終え、同年九月から藩主忠真により櫓、御殿、城門、塀などの作事
(=現在の建築工事)が始められ、その用材は幕府の一国一城令により廃城と
なった伏見城及び同国の三木城などの資材を用いて建てたとされている。
創建当初の坤櫓については次の資料があり、伏見城の建物を幕府からもらい受け
移築されたことを示している。
「坤ノ櫓ハ伏見御城ノ櫓ナリシヲ此度公儀ヨリ公エ下サレコレヲ建ル」
『小笠原忠真年譜』
「幕府から伏見御城の三重櫓一つ下され、御本丸未申の角に立候也」
『笠系大成附録』
各建物の建築は翌元和六年(1620)四月に完了した。
築城当初の明石城は、本丸に三層の御殿を築き、四隅に三重の櫓を配したが、
天守台の石垣は築かれたものの、天守は建てられなかった。」
上の写真は昔の明石城を示したもです。
現在は無い外堀や外堀の門、居屋敷の周囲に設けられていた内堀、さらに現在は一部
埋め立てられた中堀のかっての姿がわかります。
出典:郷土の城ものがたり 東播磨編 兵庫県学校厚生会(1973)Page14
上の写真は明治19年(1886)測量の大日本帝国参謀本部陸軍部測量局が作成した地図に
掘、川、海、池など水に関する場所と西国街道を色付けしたものです。
外堀や藩主の居舘のあった内堀が正確に描かれているので江戸時代後期の姿に近いものが
推定できる地図でもあります。
また中堀でも現在は埋め立てられて見られない部分の以前の状態が判る。
出典:明石城関連絵図資料集Ⅱ 明石葵会 平成29年(2017)3月発行 Page44
明石城下全体を観る資料として添付しました。
上の写真は明石市立図書館から観た明石城の遠景です。
西(左手)の櫓(やぐら)が坤(ひつじさる)櫓、東(右手)の櫓が巽櫓
現存するのは上述の2つの櫓ですがかっては北東の艮櫓(うしとらやぐら)や
北西の乾(いぬい)櫓も存在していましたが、明治の廃城後の明治14年(1881)に
取り壊されてしまいました。
撮影:2019-1-10
明石城各論
坤櫓
本丸跡に残る巽櫓(たつみやぐら)と坤櫓(ひつじさるやぐら)は、
元和5年(1619)年城主小笠原忠真が築城したとき建築されたものです。
巽櫓は船上城から移築され、坤櫓は伏見城から移設のものと伝えられています。
元和6年(1620)4月に移築建設が完了したそうです。
2012年11月10日の訪問記にリンクしておきます。
明石城 坤櫓(ひつじさるやぐら)訪問記 on 2012-11-10
今回のキャンペーンでは2階及び3階も公開されます。(詳細は下の西NAVI記事)
上の写真は天守台から観た坤櫓
撮影:2019-1-12
上の写真は入り口側(正面)から観た坤櫓 撮影:2019-1-12
上の4枚の写真は1月12日(土)18:30からのテレビ大阪の番組「おとな旅あるき旅
兵庫・明石へ!冬に食べたい瀬戸内の幸と明石名物を堪能」より坤櫓関連写真
上の写真は(公財)兵庫県園芸・公園協会 明石公園が作成した「明石城の歴史」の
リーフレットの添付資料で建築装飾の概要が理解できます。
巽櫓
巽櫓は船上城から移築されました。2016年4月30日(土)の訪問記にリンク。
明石城 巽櫓 一般公開 見学記 on 2016-4-30
上の写真は2019年1月12日撮影の巽櫓
本丸土塀
現在工事中の内容掲示
歴代城主
上の写真は明石シニアカレッジゆう・あい明石グループが2018年11月30日に発刊された
「明石城のことがよくわかる 楽しい 明石城学」の歴代城主のひょうです。
上記の冊子の表紙も添付しておきます。
下の写真は上述の明石シニアカレッジゆう・あい明石グループが纏めた初代藩主小笠原忠政の
系図です。
明石城の築城に深く関与した初代明石城藩主「小笠原家」は姫路藩主の本多忠政とも
深い関係があります。
明石城ゆかりの寺社
高家寺
高家寺(こうけじ)は初代城主小笠原忠政が再建したとされる寺院です。
高家寺の訪問記にリンクしておきます。
高家寺と太寺廃寺塔跡 on 2012-10-26
上の写真は高家寺(こうけじ)本堂 撮影2012-10-26
上の写真は西NAVIの記事
本松寺
上の写真は本松寺の本堂。(2008-6-12撮影)
訪問記にリンク
本松寺庭園
月照寺
上の写真は播州名所巡覧絵図(作者は秦石田、絵師:中井藍江)文化元年(1804)刊
の図絵
2008年6月12日の月照寺訪問記にリンクしておきます。
月照寺
長寿院
上の2枚の写真は長寿院に眠る越前松平家の歴代藩主の墓
出典:明石市ふるさと図書館の展示より(2019-1-12撮影)
8代目以降の藩主について記載しておきます。
8代目城主は松平直明(1682-1701)
明石藩主8代目松平直明公から15代松平斎宣公までの歴代の
城主とその夫人、子供など約60基の御廟所となっている松厳山長寿院を
9代目城主は松平直常(1701-1743)
10代目城主は松平直純(1743-1764)
11代目城主は松平直秦(1764-1784)
12代目城主は松平直之(1784-1786)
13代目城主は松平直周(1786-1816)
14代目城主は松平斉昭(1816-1840)
15代目城主は松平斉宣(1840-1844)8万石
松平斉宣(なりこと)は徳川将軍家斉の25男で養子に来て明石城主となった
養子に迎える見返りに2万石加増された。
16代目城主は松平慶憲(1844-1869)
松平慶憲(よしのり)の時代、鳥羽伏見の戦い(1868)で山陽鎮撫使
(さんようちんぶし)が通過する際、それまで佐幕の方針を貫いてきた
明石藩であったが藩の存続のため恭順した。
江戸の明石藩邸にいた大目付の津田柳雪は脱藩し松石隊を結成彰義隊に加勢
明治4年(1871)5月10日の上野戦争に加わった。
上野戦争で松石隊は津田柳雪の子芳之助ら7人が戦死し壊滅。
17代目城主は松平直致(1869-1869)
松平 直致(まつだいら なおむね、嘉永2年8月4日(1849年9月20日) -
明治17年(1884年)6月28日)は明治2年(1869年)慶憲の隠居に伴い家督を
相続する。同年6月版籍奉還で知藩事となる。この年、鎮姫と婚姻する。
明治4年7月14日(1871年8月29日)、廃藩置県により明石県が置かれ、知藩事職を
免官となる。東京へ移住する。その後、11月2日(12月13日)に明石県は姫路県
に併合され、1週間後に姫路県は飾磨県と改称された。
明治6年(1873)の廃城令により門や櫓が解体される運命に
明治17年(1884年)に病没し、弟の直徳が家督を継いだ。
2008年7月20日、長寿院への訪問記にリンク
明石長寿院
魚の棚
現在魚の棚商店街は観光の目玉になっており観光客も多い。地元の人からは「うおんたな」と
呼ばれ親しまれています。魚屋、練り製品、乾物などを中心に100軒あまりの店がある
そうです。
西NAVIのキャンペーンに合わせ「もぐチケ」330円も販売されています。
先着で「イラストで描く散歩地図」がプレゼントされるそうです。
下記のブログで最近撮影した魚の棚の写真を掲載しています。
時を刻むまち 明石
2008年3月3日の魚の棚訪問記にリンク
魚の棚商店街
されています。毎年、春、夏、秋、冬の4回。関西の由緒ある史跡を選び、期間限定の
特別公開や特別講座、ガイド付きウォークなど魅力的な企画です。
2019年1月12日(土)から3月22日(金)までは明石城のキャンペーンです。
本ブログではキャンペーンの内容をJR西日本のPR誌「西NAVI」より紹介するとともに
明石城に関する歴史を中心に記載していきます。
PR誌「西NAVI」
明石市立文化博物館
撮影禁止となっていますので私が撮った写真はありませんが1月12日(土)に訪問済
同時開催の竹久夢二展については下記ブログを作成済です。
明石市立文化博物館 新春特別展 竹久夢二展 見学記 on 2019-1-12
また、下記サイトで明石市市制100周年及び明石城築城400周年記念に関して
ブログを作成していますのでリンクしておきます。
明石市市制施行100周年イベント予定 目玉は11月23日-24日開催予定のB-1グランプリ
上の4枚の写真は西NAVIで紹介の展示内容の解説
実際の展示では明石城を説明したビデオや場内、武家屋敷、商人が住んだ城下町の
区域が判るパネルが判り易い解説であった。
また城郭復元のジオラマも理解しやすい展示であった。
上の写真は1月12日(土)18:30からのテレビ大阪の番組「おとな旅あるき旅
兵庫・明石へ!冬に食べたい瀬戸内の幸と明石名物を堪能」よりジオラマに主要な
名称を記載したものです。
上の写真は同じくテレビ大阪の番組よりで第8代明石藩藩主・松平直明の鎧兜などの展示
上の写真は明石市立博物館の掲示板に掲示のPRポスター
撮影:2019-1-12
上の写真は「ちょこっと関西 歴史たび 明石城」の幟旗
撮影:2019-1-12
明石城の歴史
概要説明
明石城の概要説明を明石城パンフレット(一部加筆)より引用紹介します。
「元和三年(1617)、小笠原忠真(おがさわら ただざね)が信州松本より
明石に国替えとなり、現在の明石城より南西約1km程の所にあった船上
(ふなげ)城に入ったことから明石藩が生まれた。
現在の明石城は、元和四年(1618)徳川二代将軍秀忠が、西国諸藩に対する
備えとして、藩主忠真に新城の築城を命じたことに始まる。
徳川秀忠は姫路城主であった本多忠政の指導を受けるように命じ、3ヶ所の
築城候補地をあげ、現在の地が選ばれた。幕府は普請費用として銀壱千貫目
(時価31億円程度)を与え、3名の普請奉行を派遣している。
この頃、姫路藩本多忠政に仕官していた宮本武蔵が町割り図を作った。
石垣の普請(=現在の土木工事)は元和五年(1619)の正月に始められ、
工事は町人請負で行われたとされる。本丸、二の丸等の城郭中心の石垣、
三の丸の石垣、土塁及び周辺の堀の普請が同年八月中旬に終わり、幕府より
派遣の普請奉行はその任を終え江戸へ帰参している。
幕府直営工事は本丸、二の丸、三の丸までで、その他の郭の石垣・土塁工事は
幕府と小笠原氏の共同工事で行われている。
普請を終え、同年九月から藩主忠真により櫓、御殿、城門、塀などの作事
(=現在の建築工事)が始められ、その用材は幕府の一国一城令により廃城と
なった伏見城及び同国の三木城などの資材を用いて建てたとされている。
創建当初の坤櫓については次の資料があり、伏見城の建物を幕府からもらい受け
移築されたことを示している。
「坤ノ櫓ハ伏見御城ノ櫓ナリシヲ此度公儀ヨリ公エ下サレコレヲ建ル」
『小笠原忠真年譜』
「幕府から伏見御城の三重櫓一つ下され、御本丸未申の角に立候也」
『笠系大成附録』
各建物の建築は翌元和六年(1620)四月に完了した。
築城当初の明石城は、本丸に三層の御殿を築き、四隅に三重の櫓を配したが、
天守台の石垣は築かれたものの、天守は建てられなかった。」
上の写真は昔の明石城を示したもです。
現在は無い外堀や外堀の門、居屋敷の周囲に設けられていた内堀、さらに現在は一部
埋め立てられた中堀のかっての姿がわかります。
出典:郷土の城ものがたり 東播磨編 兵庫県学校厚生会(1973)Page14
上の写真は明治19年(1886)測量の大日本帝国参謀本部陸軍部測量局が作成した地図に
掘、川、海、池など水に関する場所と西国街道を色付けしたものです。
外堀や藩主の居舘のあった内堀が正確に描かれているので江戸時代後期の姿に近いものが
推定できる地図でもあります。
また中堀でも現在は埋め立てられて見られない部分の以前の状態が判る。
出典:明石城関連絵図資料集Ⅱ 明石葵会 平成29年(2017)3月発行 Page44
明石城下全体を観る資料として添付しました。
上の写真は明石市立図書館から観た明石城の遠景です。
西(左手)の櫓(やぐら)が坤(ひつじさる)櫓、東(右手)の櫓が巽櫓
現存するのは上述の2つの櫓ですがかっては北東の艮櫓(うしとらやぐら)や
北西の乾(いぬい)櫓も存在していましたが、明治の廃城後の明治14年(1881)に
取り壊されてしまいました。
撮影:2019-1-10
明石城各論
坤櫓
本丸跡に残る巽櫓(たつみやぐら)と坤櫓(ひつじさるやぐら)は、
元和5年(1619)年城主小笠原忠真が築城したとき建築されたものです。
巽櫓は船上城から移築され、坤櫓は伏見城から移設のものと伝えられています。
元和6年(1620)4月に移築建設が完了したそうです。
2012年11月10日の訪問記にリンクしておきます。
明石城 坤櫓(ひつじさるやぐら)訪問記 on 2012-11-10
今回のキャンペーンでは2階及び3階も公開されます。(詳細は下の西NAVI記事)
上の写真は天守台から観た坤櫓
撮影:2019-1-12
上の写真は入り口側(正面)から観た坤櫓 撮影:2019-1-12
上の4枚の写真は1月12日(土)18:30からのテレビ大阪の番組「おとな旅あるき旅
兵庫・明石へ!冬に食べたい瀬戸内の幸と明石名物を堪能」より坤櫓関連写真
上の写真は(公財)兵庫県園芸・公園協会 明石公園が作成した「明石城の歴史」の
リーフレットの添付資料で建築装飾の概要が理解できます。
巽櫓
巽櫓は船上城から移築されました。2016年4月30日(土)の訪問記にリンク。
明石城 巽櫓 一般公開 見学記 on 2016-4-30
上の写真は2019年1月12日撮影の巽櫓
本丸土塀
現在工事中の内容掲示
歴代城主
上の写真は明石シニアカレッジゆう・あい明石グループが2018年11月30日に発刊された
「明石城のことがよくわかる 楽しい 明石城学」の歴代城主のひょうです。
上記の冊子の表紙も添付しておきます。
下の写真は上述の明石シニアカレッジゆう・あい明石グループが纏めた初代藩主小笠原忠政の
系図です。
明石城の築城に深く関与した初代明石城藩主「小笠原家」は姫路藩主の本多忠政とも
深い関係があります。
明石城ゆかりの寺社
高家寺
高家寺(こうけじ)は初代城主小笠原忠政が再建したとされる寺院です。
高家寺の訪問記にリンクしておきます。
高家寺と太寺廃寺塔跡 on 2012-10-26
上の写真は高家寺(こうけじ)本堂 撮影2012-10-26
上の写真は西NAVIの記事
本松寺
上の写真は本松寺の本堂。(2008-6-12撮影)
訪問記にリンク
本松寺庭園
月照寺
上の写真は播州名所巡覧絵図(作者は秦石田、絵師:中井藍江)文化元年(1804)刊
の図絵
2008年6月12日の月照寺訪問記にリンクしておきます。
月照寺
長寿院
上の2枚の写真は長寿院に眠る越前松平家の歴代藩主の墓
出典:明石市ふるさと図書館の展示より(2019-1-12撮影)
8代目以降の藩主について記載しておきます。
8代目城主は松平直明(1682-1701)
明石藩主8代目松平直明公から15代松平斎宣公までの歴代の
城主とその夫人、子供など約60基の御廟所となっている松厳山長寿院を
9代目城主は松平直常(1701-1743)
10代目城主は松平直純(1743-1764)
11代目城主は松平直秦(1764-1784)
12代目城主は松平直之(1784-1786)
13代目城主は松平直周(1786-1816)
14代目城主は松平斉昭(1816-1840)
15代目城主は松平斉宣(1840-1844)8万石
松平斉宣(なりこと)は徳川将軍家斉の25男で養子に来て明石城主となった
養子に迎える見返りに2万石加増された。
16代目城主は松平慶憲(1844-1869)
松平慶憲(よしのり)の時代、鳥羽伏見の戦い(1868)で山陽鎮撫使
(さんようちんぶし)が通過する際、それまで佐幕の方針を貫いてきた
明石藩であったが藩の存続のため恭順した。
江戸の明石藩邸にいた大目付の津田柳雪は脱藩し松石隊を結成彰義隊に加勢
明治4年(1871)5月10日の上野戦争に加わった。
上野戦争で松石隊は津田柳雪の子芳之助ら7人が戦死し壊滅。
17代目城主は松平直致(1869-1869)
松平 直致(まつだいら なおむね、嘉永2年8月4日(1849年9月20日) -
明治17年(1884年)6月28日)は明治2年(1869年)慶憲の隠居に伴い家督を
相続する。同年6月版籍奉還で知藩事となる。この年、鎮姫と婚姻する。
明治4年7月14日(1871年8月29日)、廃藩置県により明石県が置かれ、知藩事職を
免官となる。東京へ移住する。その後、11月2日(12月13日)に明石県は姫路県
に併合され、1週間後に姫路県は飾磨県と改称された。
明治6年(1873)の廃城令により門や櫓が解体される運命に
明治17年(1884年)に病没し、弟の直徳が家督を継いだ。
2008年7月20日、長寿院への訪問記にリンク
明石長寿院
魚の棚
現在魚の棚商店街は観光の目玉になっており観光客も多い。地元の人からは「うおんたな」と
呼ばれ親しまれています。魚屋、練り製品、乾物などを中心に100軒あまりの店がある
そうです。
西NAVIのキャンペーンに合わせ「もぐチケ」330円も販売されています。
先着で「イラストで描く散歩地図」がプレゼントされるそうです。
下記のブログで最近撮影した魚の棚の写真を掲載しています。
時を刻むまち 明石
2008年3月3日の魚の棚訪問記にリンク
魚の棚商店街
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