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淀屋の碑 on 2024-5-19

2024年07月10日 06時10分27秒 | 大阪情報
2024年5月19日、大阪の父母の墓参りに出かける途中、大阪・淀屋橋周辺を散策した。
その時に本日、写真紹介する「淀屋の碑」を見つけた。

上の写真は現地の案内地図(北が下にきているんので注意)で現在地のの右手に
淀屋の屋敷跡の場所が明示されています。住所は大阪市中央区北浜4-1 
文章で表現すると「淀屋橋から南側の土佐堀川沿いを約50m西に進んだ所にあります」


上の2枚の写真は淀屋橋

前置きが長くなりました。本題の「淀屋の碑」に戻ります。
上の写真は「淀屋の碑」の遠景です。

上の2枚の写真はレリーフの拡大版です。
当時の中之島の賑わいを表現したレリーフは立派です。

日本学士院会員の宮本又次さんによって書かれた文章を転記しておきます。
一部、加筆してあります。

淀屋は江戸時代前期の大坂を代表する豪商であった
淀屋の豪富と闕所*1のことはあまりにも有名である
*1 闕所(けっしょ)とは、江戸時代の財産没収刑(所領を没収すること)
淀屋の本姓は岡本氏通称三郎右衛門 城洲岡本の荘の出身 
辰五郎の称もあった 豊臣氏が天下をとるに及んで大坂に出て
十三人町(いまの大川)にト居し 淀屋と称し材木を商う
元和元年(1615)京橋一丁目の淀屋持地に着物市を開き
また米の相場をたてる中之島を開発し常安諸地を開く
常安橋ー常安町の名前がいまに残る
初代常安の長子(養子)善入善右衛門 常安町家 斉藤町家の祖となる
次子(実子)常有五郎右衛門は別に大川町家の初代となり
言直から六代まで続く
心斎橋筋から西肥後橋の間にその宅地あり その宅地の小路を淀屋小路という
四十八戸前のいろは蔵有り 町人蔵元の元祖といわれたが
むしろ巨大なる米商人と目すべく淀屋米市のために
土佐堀川に自費で橋をかける 淀屋橋であり 
ここで行われた淀屋米市の盛大さは
この碑の絵が表現する通りであった
日本学士院会員 宮本又次 記
チャーターゲイト二十五周年の記念事業としてこれを建てる
 昭和62年(1987)2月19日 大阪北浜船場ライオンズクラブ

米市の設立
米の価格が仲買人により無秩序に決められ、米の質や量などが正しく反映されていなかったことに目を付け、全国の米相場の基準となる米市を設立することで、米の質、量、価格の混乱を収めることに成功しました。
総資産
総資産は約20億両と、現在の貨幣価値に換算すると約200兆円もの資産があった
御用商人 淀屋
淀屋は徳川家の御用商人を勤め、米取引は、1697年に堂島に移るまで、淀屋橋の南詰めにあった淀屋の店先で行われていました。
淀屋橋の架橋
二代目个庵(こあん)はその淀屋橋を市場の便宜のために私費で架けたことで知られています。
二代目个庵の事業
米市場・魚市場の開設、国内外の交易、大名貸しに代表される金融業など幅広い事業を起こし、商都大阪の礎を築きました。
淀屋の屋敷
淀屋の屋敷は土佐堀川に面し東西は心斎橋筋から御霊筋付近にまで及び、
約1万坪もあったようです。 

Wikipediaによる解説
概要
淀屋とは、江戸時代の大坂で繁栄を極めた豪商であり、総資産は約20億両
(現在の貨幣価値に換算すると約200兆円)。
全国の米相場の基準となる米市を設立し、大坂が「天下の台所」と呼ばれる
商都へ発展することに大きく寄与した。
米市以外にも様々な事業を手掛け莫大な財産を築くが、その財力が武家社会にも
影響することとなったため、幕府より闕所(財産没収)処分にされた。
しかし、闕所処分に先立ち伯耆国久米郡倉吉の地に暖簾分けした店を開き、
後の世代に再び元の大坂の地で再興した。
幕末になり討幕運動に身を投じ、ほとんどの財産を自ら朝廷に献上して幕を閉じた。
淀屋を創業した岡本家によるものを前期淀屋、闕所後に牧田家により再興されたものを後期淀屋と呼ぶ。
淀屋が開拓した中之島には、かつて常安町と常安裏町(現在の中之島四丁目~六丁目)が有った。
屋敷は現在の大阪市の北浜にあり、中之島に掛かる淀屋橋や常安橋にその名を残している。

事業
淀屋の事業は米市を主とした多角的経営であった。
初代の岡本三郎右衛門常安は、伏見城の造営や淀川の堤防改修において工事の采配を振り、高い土木工事技術を発揮した。その後、大坂の十三人町(後の大川町、現在の大阪市中央区北浜四丁目)に移り、「淀屋」と称し材木商を営んだ。1609年から1614年に掛けて中之島の開拓を行い、江戸時代から現代まで続く経済の拠点を造った。
二代目の淀屋言當は、途絶えていた青物市を元和元年(1616年)に京橋一丁目の淀屋屋敷で再開した。寛永元年(1624年)には「海部堀川」を開削し、海部堀川の屈折点に造った船着場「永代浜」(現在の靱本町二丁目)に魚の干物を扱う雑喉場(ざこば)市を設立した。また米価の安定のため米市を設立し、大坂三大市場と呼ばれた青物市、雑喉場市、米市を一手に握った。また輸入生糸を扱うための糸割符に、大坂商人も加入できるように長崎奉行と掛け合った。寛永9年(1632年)に、糸割符の加入が認められ海外貿易を始める。寛永15年(1638年)からは加賀藩主前田利常の意向により加賀米の取扱いが本格化した。その大坂への輸送に際して、日本海から関門海峡と瀬戸内海を経由して大坂に至る西廻り航路を北風家の北風彦太郎と共に担い、北前船の先鞭と成った。

米市
江戸時代、米は経済の中心的な存在であった。年貢として納められた米は藩の蔵屋敷に蓄えられ、米問屋を介して現金化された。米は諸藩の財政の根幹をなし、米価の安定は経済の安定としても重要であった。しかし米の価格は仲買人によって無秩序に決められ、価格は米の質や量などを正しく反映したものではなかった。そこで淀屋は、米の質・量・価格の混乱を収めるため、全国の米相場の基準となる米市の設立を幕府に願い出て認められる事となった。
淀屋は自身が拓いた中之島に米市を開き、また中之島に渡るため淀屋橋を自費で土佐堀川へ架けた。米市に集まる米を貯蔵するため、諸藩や米商人の米を貯蔵する蔵屋敷が中之島には135棟も立ち並んでいた。また1620年代、全国の米の収穫は約2700万石有り、自家消費や年貢で消費される分を除く約500万石が市場で取引されていた。その4割の約200万石が大坂で取引されていたと言われている。
米市の取引きは場所を取る米を直接扱わず、米の売買が成立した証拠として手形を受け渡し、手形を受け取った者は手形と米を交換するという事が行われていた。それが次第に現物取引でなく、手形の売買に発展する事になった(米切手の項も参照のこと)。この淀屋の米市で行われた帳合米取引は世界の先物取引の起源とされている。淀屋の米市は二代目の言當、三代目の箇斎、四代目の重當の時代に莫大な富を淀屋にもたらした。井原西鶴は『日本永代蔵』の中で淀屋の繁栄ぶりを記している。
その後の米市は、元禄10年(1697年)に対岸に開拓された堂島新地(現在の堂島浜一丁目)に設立された堂島米市場に移された。堂島米市場では現物米を扱う正米取引のみが行われ、現物米と交換するための米切手を売買する事は禁じられていた。享保初年(1716年)頃より始められた帳合米取引が、享保15年(1730年)8月13日、幕府より公許され世界初の公設先物取引市場堂島米相場会所となった。

闕所(けっしょ)
宝永2年(1705年)、五代目の淀屋廣當が22歳の時に幕府の命により闕所処分となった。廣當の通称である「淀屋辰五郎の闕所処分」として有名である。
闕所時に没収された財産は、金12万両、銀12万5000貫(小判に換算して約214万両)、北浜の家屋1万坪と土地2万坪、その他材木、船舶、多数の美術工芸品などという記録が有る。また諸大名へ貸し付けていた金額は銀1億貫(膨大に膨れ上がった利子によるものであるが、現代の金額に換算しておよそ100兆円)にも上った。
闕所の公式な理由は「町人の分限を超え、贅沢な生活が目に余る」というものだった。しかし諸大名に対する莫大な金額の貸し付けが本当の理由であろうとされている。
宝永5年(1708年)、この淀屋の発展と凋落の顛末が近松門左衛門によって浄瑠璃『淀鯉出世滝徳』(よどごいしゅっせのたきのぼり)に描かれた。
鳥山石燕の妖怪画集『百器徒然袋』には、この淀屋辰五郎の逸話をもとにした鉦五郎という妖怪が登場する。





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