白黒の文字が羅列する社会の教科書。
平坦な知識の積み重ねだった受験勉強。
高校で日本史を選択しなかったあたしにとって
そこはペラペラの紙面に描かれた二次元の世界だった。
年号と出来事の組み合わせだったモノクロの知識が、五感から流れ込んでくるさまざまな感覚に染められ、色を帯びながらあたしの中で呼吸し始めたその瞬間。
あたしがいるこの三次元の空間と、それは見事に融合した。
古代から脈々と受け継がれて流れているこの血の中に、江戸を生き抜いた先祖の血は、確かに存在してたんだ。
あたしの中に、確かに。
記録と記憶が繋がる。知識が体験とリンクする。
深い実感を伴う体験は、時間も、空間も超えて、人と人とを有機的に繋ぐ気がする。
顔すらも見ることができない古人の思考に己の思いを馳せる。
そんなの妄想かもしれないけど。
古人の生活をただ模倣する、それだけで、その思いをも共有できるんじゃないかって期待があるんだ。
だからあたしは、古の人がかつて通った道を辿って、旅をすることに憧れを抱いてるのかもしれないな。
毎日の日常の積み重ねなんだよね。その内のニュース
になるような大事件が教科書に載って残って行く・・・。
そんなポイントだけで見てるから、数千年分の幾つみたいに感じちゃうけど
ちぽさんが感じてるように流れとして受け取ると全然変わってくるよね。
一つ一つの時代は確実に今と繋がっていて、現代も今生きてる人達も
唯独立して存在してる訳じゃなくて各時代という経験を経て存在しているって☆
(個体としてじゃなくて種もしくは血統として)
そう見るとこの歴史っていうのは無味乾燥な過去を取り扱う学問じゃなくて、
過去より存在し、今なお変化し続ける人間そのものを取り扱う凄く
巨大で奥行きの深い学問なんだなって改めて感じますね。
ちょっと長くなっちゃってごめんね{ハッピー}
アツいコメントありがとうございます^^大好物です{ルンルン}
今は過ぎ去りし過去の偉大な先達は、常に歴史から学んだことをもとにして自分達の歴史を刻んできたんだなぁ・・・って、歴史を学ぶほど深く感じます。
そんな意味で、一見怠惰にも見えかねない徳川300年余の歴史も、織田・豊臣をはじめとする歴代の偉人たちを、場合によっては模倣して、ときにはオリジナリティを加えて、組織と仕組みを緻密に組み立てた成果だったんだって思いました。
ただ・・・江戸時代の人たちだって、自分達の生活や使っていた道具や、はたまた根底に流れる思想まで深読みされて、歴史として紹介されるとは思ってなかっただろうなって思います。
そして、いずれわたしたちの生活も、歴史として一枚の画となり、遺物としてコンピューターやらケータイやらが取り上げられ、“平成時代の生活”として未来の子どもたちにさまざまな感情を起こさせながら模倣されるかもしれないと思うと、ちょっと恐ろしい感じがしますけどね。。。</色>