養老焼の小皿(5枚)です。
11.6㎝ x 12.0㎝、高台径 5.4㎝、高 3.2㎝。明治、大正。
小振りの皿ですが、何でも受けいる幅の広さをもっています。時々使うので、一枚、縁が欠けています。金継ぎで修理をせねば(^^;
薄造りの皿です。隅に掛けられた海鼠釉が控えめなアクセントとなっています。岐阜の片田舎で作られたとは思えないセンスの品です。
養老焼は、幕末期、尾張の陶芸家、大橋秋二が、自身の還暦祝いとして、菊紋の陶器を養老の地で焼いた事に始まると言われています。その後、明治35年、養老郡牧田村の大工、小谷嘉市が地元で陶土を発見し、養老の滝や菊紋の陶磁器を作り、販売しました。後に、養老駅前に窯を移し、大正中期まで養老焼は続きました。
高台内に、瓢箪型に「養老」の押印があります。いわゆる牧田養老焼です。
轆轤技術やデザインなど、畑違いの大工が始めた焼物とはとても思えません。岐阜の片田舎で興った小窯ながら、職人の心意気が伝わってくる小品ですね。
金継ぎをしているものは見たことがなく 捜しているとYouTubeに 欠けたお猪口を
金継ぎで修理する動画がありました。
素人はすぐに出来ると思っていましたが 漆を乾かす時間もいるし 金粉を刷毛で
きれいにはたき それで終わりではなくサラダ油?で艶を出したりの
作業もあり へぇ~と驚きました。
↑この5枚の器は欠けたところが見えませんが 金継ぎされるのは6枚目の器でしょうか。
時々使うのでと書かれていますが 日常の生活にこれを使っていますか?
この錆釉など、吸坂手古九谷を思わせるような深みのある味わいですね。
確かに、「轆轤技術やデザインなど、畑違いの大工が始めた焼物とはとても思えません」よね。
天分の才に恵まれていたのかもしれませんね(^-^*)
金の工程は最後の最後、金粉(まずは真鍮)を入れた漆液を塗り、その層が乾く寸前に、上に撒きます。それを、絹綿で磨くと光と艶が出ます。
が、これは最終工程で、それまでの地道な作業が重要です。まず、欠けた部分をコクソ漆で埋め、乾いたら木賊で研いで形を整えます。そして、今度は液体の漆を塗って、乾いたらまた研ぎます。これを繰り返します。塗りー研ぎ作業の回数が多いほど綺麗な仕上がりになります。漆が乾くまで、一週間は待たねばならないので、この工程を4回繰り返すと、一か月ほどかかります。固まった漆は硬いので、木賊で研ぐのはとても大変です(ペーパーで研ぐと本体の方に傷がついてしまう^^;)
この器は、気が向いたら使います。明治、大正頃の品は、それほどの値段ではないので、気楽に使えます(^.^)
ほんと、吸坂手に似ていますね。でも、養老焼は、滝や菊などもう少し通俗的なデザインが多いです。
ついでながら、この場所、上石津町牧田は、現在は、大垣市の一部です。市内からは離れた飛地です(垂井町を挟んでいる)。同じく、一夜城のある墨俣町も飛地(安八町を挟んでいる)で、現在は、大垣市の一部です。離島のようで妙な感じです。市町村合併のゴタゴタの結果です(^^;