キリスト教徒でなくても、これをご存知の方は多いと思う。山上の垂訓である。 柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受けつぐであろう。 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわみを受けるであろう。 私も中学生のころ「マタイによる福音書」を読んで、このあたりは何となく理解していた。 しかし、垂訓の最初に書いてある2行は、さっぱり分からなかった。 心の貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。 とくに、「悲しんでいる人は、さいわいである」なんて、どういうことかと思った。 親族や友人の死、離婚、子供の非行、家業の没落、リストラ、詐欺被害…… 我々のまわりには“悲しむ”ことがたくさんある。あまりにも多すぎるくらいだ。 それを幸いだなんて…… “悲しみ”というと、我々は外部から引き起こされてくるものに思いが行きがちであるが、実はそうではなく、自分自身の不誠実さ、器量の無さ、あるいは嫉妬、偽善、嘘まみれといったように、わが心の内にある醜さに気付いて悲しむ、そういう人たちは天国に行けますよと、そう教えているのである。 キリストによる「山上の垂訓」は素晴らしい言葉であるが、私が体験した「山上の酔訓」は大変な出来事だった。 それは作治さんと一緒に丹沢に登った若いころのことである。もちろん酒好きの二人のこと、休憩のたびにビールを飲みながら登った。 頂上に着くまでに4,5本はやっていただろう。 昼。 頂上で祝杯をあげる。缶ビール3本は空けたかな。 そして、かなり酔った状態で下山。 あと少しでバス停というところで、石に躓いて転倒してしまった。ひざ下が痛い。ズボンをたくし上げると、たいして出血はしていなかったのだが、肉がパックリと口を開けて、中の白い部分が見えていた。 救急道具も持っていなかったので、タオルを巻きつけそのままバスに乗車。不思議と痛みはない。 「バカなことをしたもんだ」なんて喋りながら、電車を乗り継ぎ横浜駅にたどり着いた。 そこで大事を取ってすぐ帰宅すればいいものを、二人して打ち上げと称し駅前の居酒屋に。ここで生ビールを3杯ほど飲んでしまった。 夜遅く、家に帰り就寝したのだが、傷がうずき始めて眠れたもんじゃない。 なんてバカなことをしたんだろうと、深~く反省した。 酔華の「山上の酔訓」。 飲みながら登るな。 頂上で飲むな。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
傷跡が残っています。
後遺症はないですけどね。
家にちゃんと帰り着くまでが、遠足ですね。(^^)