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月刊「よこはま」は昭和23年6月、横浜市民生局文化課のなかにあった横浜市文化政策員会によって創刊された。B5判で毎号28頁だて、定価は20円だった。 その創刊号で当時横浜市長だった石河京市が次のような意味の「ことば」を書いている。 「この雑誌は単なる市政宣伝を目的としたものではない。あらゆる角度から横浜を眺め、また面白い読み物とし、市民の文化を高めるために発行する」 戦争が終わって3年弱の時代。横浜の都市再建と一緒に文化の再建を目指して突き進む決意が語られている。 しかし、この雑誌は2年ほどで廃刊になってしまった(昭和25年9月号が最終刊)。その9月号では次号の予告がでていたので、廃刊は突然だったようである。 さて、そんな月刊「よこはま」であるが、昭和25年の3月号から各区の特集記事が連載されるようになった。最初が磯子区で、そのあと西区、南区、中区、戸塚区、神奈川区、金沢区と続いて、残念ながら廃刊によって特集は終わってしまった。だから鶴見区、保土ヶ谷区、港北区はない。 幸い中区は6月号で特集されており、そこで面白い記事を発見した。それが、これだ。 ![]() なんと中華街と書いてあるではないか。 かつては「唐人街」、「南京町」などと呼ばれていた町だが、昭和30年に善隣門が建設され、そこに「中華街」と書いた額を掲げたところから、この町を中華街と称するようになった、というのが定説だった。 しかし、昭和25年の時点で市役所はこの街を「中華街」としていたことが分かる。 さらに遡れば、昭和21年の新聞では早くも「中華街」という名称を使用していた。そのことは以前の記事でも紹介したので、時間のある方はそちらもお読みいただければと思う。 中華街という呼び名 中華街という呼び名(続) こうしてみると、戦後まもなく新聞社や市役所が「中華街」という名称を使い始め、その後、昭和30年に善隣門を建てたときには「中華街」という呼び名はある程度定着していたのではないかと思う。だからこそ、この門にあの額を取り付けたのだろう。 ![]() ![]() |
亡き夫は南京町と言ってました。
もうひとつ、差別用語とされるものが入って
いるのではっきり書くのははばかられますが、
横浜の地の人は「昔は〇〇〇町」と
普通に言ってた、とよく言いますね。
中華街と言う、まさに華々しい名称は
いつからだったのか。
かなり早くから使われていた、という証拠を
いくつも示してくださって感謝いたします。
私が就職した頃は戦前生まれの先輩たちがたくさんいて、
かなりの方々が〇〇〇町と言っていました。
戦後すぐに、マスコミや行政が中華街という名称を使い始めたのに、
一般庶民はずっと馴染んできた「南京町」とか「〇〇〇町」と呼んでいたんでしょうね。