5月上旬のことですが、熱烈中華食堂「日高屋」の野菜たっぷりタンメンを初めて食べてきました。 たしかに野菜は多いと思います。食べても食べても、これでもかっていうくらい底の方から湧き出て来るのですから。 それでいて麺の量は普通にあるし、値段は500円だし、ここのタンメンのファンが多数いることが納得できました。 ただ、私にとっては塩分が強い。たまたまなのか、あるいはこの店がいつもそうなのかは分かりませんが、最近は塩分を控えているせいか「しょっぱく」感じたのです。 とかなんとか思いながらも、結局はスープを完飲してしまったのですが……。 そんな「日高屋」のタンメンを食べたあとは、ずっと気になっている「くすぶり」横丁の調査探訪に向かいました。 野毛でよく呑んでいる人なら、ここがどこかはすぐわかりますよね。 手前の道を左に行くと、野毛本通り、都橋の交番のところに出ます。「平戸庵」の裏をまっすぐ進むと、「にぎわい座」(旧中税務署)に突き当たります。 この「平戸庵」の入っているビルの場所に、昔は石炭ビルというのが建っていました。 妙な名前ですよね。石炭ビルというのは何でしょうか? 昭和11年発行の「大日本職業別明細図 横浜市中区」を見ると、こんな風に表示されていました。 石炭同業組合。今でいえば石炭業協同組合でしょうか。石炭を取り扱う会社や店の組合が建てたビルのようです。 画像をクリックして拡大。 これは昭和10年ごろの花咲町・野毛町を描いた記憶絵図で、中区役所発行『中区わが町』の巻末に載っています。 この石炭ビルの横に「めしや中島」という店がありました。名前からして大衆食堂のようですね。そのすぐ近くに「中島食堂」が見えますが、おそらく同系列なのでしょう。 「めしや中島」の場所には現在、中島ブラシという会社があります。食堂からブラシ屋さんに転換したのかな。 錦橋の際にあった「伊勢屋めし店」というのは、「関内伊勢」の前身でしょうか。「関内伊勢」は明治30年の創業で、当初は「伊勢屋」と名乗っていました。北仲通1-1を本拠にして、いくつもの「めし屋」を営んでいたといいますから、その可能性は充分ありそうですね。 戦前の桜木町駅周辺にある食堂はこの程度だったようですが、戦後は大きく変化します。 画像をクリックして拡大。 これは戦後間もなくの花咲町・野毛町です。石炭ビルを囲むように露店小屋の飲食店がズラリと並んでいます。桜川に沿った露店はカストリ横丁としてよく知られていますが、石炭ビルの裏を「くすぶり横丁」といい、ここは風太郎が呑み食い、寝起きをしていた所だそうです。 『ミナトのせがれ』(著:藤木幸夫)の中に石炭ビルのことが少しだけ出てきます。 ≪桜木町駅前の石炭ビルへトラックを乗りつけ、「藤木はいくらだ」「本間はいくらだ」、「笹田はこれだけ出すぞ」と言って、日雇い労働者を募集していた。≫ このビルの前が寄せ場だったんですね。 その写真が『敗戦の哀歌』(奥村泰宏・東野伝吉)という本の中に掲載されています。 奥に見える橋は大江橋。「はしけ」を改造して簡易宿泊所に仕立て上げた水上ホテルが浮かんでいたのは、この辺りだったんでしょうかね。 労働者が大勢いた関係で、周辺には食堂がいくつもありました。 この写真に写っている男たちは「くすぶり横丁」で呑んでいたそうですが、水上ホテルに泊まる金のない風太郎は、このあと屋台の裏や店の軒先で野宿をしていたそうです。 『目撃者の証言』(昭和27年 高見順 編)の中に宮内寒彌が書いた「ヨコハマの日本人町~野毛町ルポルタージュ~」というのがあります。 短文ですが、横浜市内の接収解除が始まった頃の風景がいろいろ出てきて面白く読める記事です。そこから少し引用してみたいと思います。 【以下引用文】 野毛の名物といえば、なんといっても、先ず第一に、この「風太郎」ということになる。 そこで、私は、五月の中旬のある日、その「風太郎」の実態を探りに例の「くすぶり横丁」の中へ入っていってみることにしたのである。 (中略) 通ってみると、あまり気持ちよくはない。今は一時のようにクジラを煮る臭いはしないけれど、なにかむんむんする悪臭が鼻をついて来る。 ちなみに「くすぶり横丁」というのは、石炭ビルの裏にある約四十米ばかりの横丁で、その道を真直ぐに電車通りの方へ突き抜けて行くと聖アンデレ教会を経て税務署にぶつかる。 もともと三間幅くらいの舗装道路なのだが、横丁へ来ると両側に風太郎相手の屋台が並んでいるので、一寸見ると細い露地のような感じを呈しているのだ。 しかも、その露地の両側には、屋台に首を突き込んで「まぜめし」(一杯二十円)、「麦飯」(一杯十円)などの立ち食いをしている連中がボロ服、垢まみれの姿ですらりと並んでいるのだ。 (中略) 仕事にアブレたり、病気で働く能力がなかったりして「ドヤ銭」のないものは、町内の家の軒下三尺三寸を拝借して青カンをする。だから夜十二時近くなると、町内のあちこちの軒下には菰で身体を巻いたり、あるいは、着の身着のまま風呂敷包を背中に縛り付けた連中が、ごろごろマグロを転がしたように眠っている風景が出現するのである。 【引用おわり】 ほかにもいろいろ凄い話が書いてあるので、この本はお勧めです。 ということで、昭和20年代の野毛・花咲町は日雇労働者の町だったことが分かります。 そして昭和30年代はどんな感じだったのでしょうか。 最後に昭和31年頃の地図を載せておきます。 画像をクリックして拡大。 石炭ビルの周辺に十数軒の食堂が並んでいました。この頃になるとカストリ横丁もくすぶり横丁もなくなっていますが、その名残が食堂だったようです。 現在は若い人たちが訪れる町に変化してきて、オジサンはなかなか足を踏み入れられない状況になっています……(涙) ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
もはや難しそうですね。
図書館で捜して読みます。
国会図書館デジタルコレクションではまだネット公開していないので、
中央図書館で借りて読みました。
宮内寒彌の話の中には、
P宿なんていうのが出てきます。
パンパン宿でしょうかね。
八木義徳の「ヨコハマ」もいろいろ出ています。
混血児のことを「婦人公論」5月号で詳しく書いているとも言っています。
でも、これも手に入りそうにないです。