先日の記事でドンキホーテ建て替えのことについて掲載したところ、「ドンキーとホテルが合体したものが出来る予定とか話を聞きました」というコメントをいただいた。 どうせならバンドホテルを復活させてほしいものだが… そういえば中華街でもホテルの建設が始まっている。場所は南門シルクロード。 先ごろまで建っていたオリエンタル・ホテル(今は建て替えられて食べ放題店になっている)の隣に結構広い駐車場があったのだが、そこに10階建てくらいのホテルが造られつつある。 2020年には東京オリンピックもあることだし、ホテル建設が増えているんだなぁ…なんて思いながら本町通を渡って「味奈登庵」に向かった。 この日はヒルメシ抜きで夕方近くになってしまったので、ここで蕎麦を啜ってから帰ろうと思いヨロヨロとやって来たのだが… 店に入る前にこんなものを発見してしまった。 「味奈登庵」と「ラ・バンク・ド・ロア(la banque du LoA)」の間にある金網フェンスに建築計画が張り出されていたのである。 山下町280番1と2がどこなのか分からないが、おそらく「味奈登庵」の入っている横浜ペインチングビルとその隣にある山下町石川ビル、およびそれらの裏に建つ第1上野ビルなんだろうと思ったのだが、念のためグーグルで調べてみると…… この3棟は山下町45番、46番であることが分かった。それじゃぁ、280番ってどこ? 恐る恐る「la banque du LoA」をクリックしてみたら、なんとここが280番だった! まさか「la banque du LoA」を建て替えてホテルにするわけじゃないよね。 これは大正10年(1921)に露亜銀行横浜支店として建設された歴史的建造物だ。 露亜銀行が撤退したあとは、終戦までモーガン設計事務所、横浜市瓦斯局、ドイツ領事館として使用されてきたという由緒あるビル。 戦後は米軍に接収されていたが、昭和34年(1959)の解除後は横浜入国管理事務所や警友病院別館として使われてきた。 そして現在は結婚式場「ラ・バンク・ド・ロア」となっている。 大正10年の建築以来、関東大震災や横浜大空襲にも耐えてきた老体であるが、これを解体してしまうなんてことがないことを願うのみだ。 さて、ホテルの話題が続いたので、ここでさらに横浜の有名なホテルをご紹介しておこうか。 それは水上ホテルだ。水上温泉ホテルじゃないよ。 昭和28年(1953)8月発行の『横浜文学』に水上ホテルのことが載っている。 ちなみに、この雑誌はのちに芥川賞作家となる郷静子たちが創刊した同人誌で、全ページ手書きのガリ版刷り。ガリ切りに手馴れている人が作業していたようで読みやすいので、すこしだけアップしておきたい。 興味のある方はどうぞ。 クリックして拡大できます 水上ホテルというのは、戦後しばらくの間、大岡川に浮かんでいた艀(はしけ)を改造した簡易宿泊所である。 戦前から「緑橋の立ちん坊」という言葉があるくらい、桜木町駅周辺には日雇いの仕事を探す労働者が多かったのだが、戦後は柳橋の近くに横浜公共職業横浜港労働出張所(現在は松影町)があり寄場もできていた。 クリックして拡大できます(昭和31年の明細地図) そのため周辺には大勢の日雇い労働者が集まり、お金の払える人たちはこのような水上ホテルに宿泊していた。 もちろん仕事にあぶれた者は野宿だ。 クリックして拡大できます ここに登場する37歳の男は他の人の記事でも取り上げられており、かなり知られた存在であったようだ。 クリックして拡大できます 水上ホテルのことは詩でも取り上げられている。 そして後日、この詩をにメロディーをつけた人がいた。その作品がこれだ↓ クリックして拡大できます さらに、この曲を使って、一幕の戯曲も創作されていた。 水上ホテル。 寿地区における簡易宿泊所の前身のような施設であったが、“簡宿”と決定的に違うのは潮の干満によって本体が上下したり、航行する他船の波を受けて揺れるということだ。 『中区史』より(以下同)。 左端に大江橋の親柱が見えている。 水上ホテル・かもめ寮。横浜市営だったのかなぁ… 水上ホテルの船内居室。まるで山小屋のようだ。 60数年前のことだが、こんなところで生活していた子ども連れの夫婦がいたとは…… 伝染病の患者が一人いたら、次々と感染していく。 発疹チフスのために閉鎖された水上ホテル。 (『敗戦の哀歌』より) 内豊号。これは柳橋近くにあった県営・内豊丸だろうか…… 昭和27年だったか、風や潮に押されてかなり流されてしまったという水上ホテルがあった。名前を内豊丸といったので、多分これかもしれないね。 昭和26年(1951)1月、水上ホテル・開進丸が転覆するという事件があった。 『中区史』によると…… ≪大岡川で廃船利用の自由労働者宿泊所、通称水上ホテルが、26年1月23日転覆。死者7名、重軽傷者37名を出した。 ホテルは心友会宿泊所開進丸で、満潮によって浮き上がると、岸壁との間にあった直径5寸、長さ6尺の支柱2本がずれて、大きな音がしたのをホテル居住に慣れない者が、舷側が破れたと早合点、「船が沈む」と怒鳴ったため、瞬く間にパニックが起こり、船は傾斜、転覆したものであった。 市では民生局、中区役所がその対応を開始、宿泊者中の病人、女子供は柳橋の市営水上ホテルに移し、負傷者は十全病院に移すなどの処置を行った≫ と書いてある。 しかし実際の転覆原因はどうだったのかは、よく分からない。昭和26年1月23日の毎日新聞には、こんな記事が出ているからだ。 これによると、干潮によって船が川底のヘドロにつかえて傾き、そのため逃げようとした超満員の400余名がパニックに、そんな経緯だったという。 この日は上の転覆写真でも分かるとおり、雪の降る寒い夜だった。普段なら野宿する風太郎も“なけなしの金”を払って水上ホテルに宿泊していたという。だから定員オーバーで400余名も宿泊していたのだ。 終戦直後からしばらくの間、大岡川にあった水上ホテル。こんな劣悪な環境のなかで生活してきた人々が大勢いた。『横浜文学』のルポルタージュで紹介された37歳の男性や、子ども連れの夫婦だけではなく、ほかにも様々な事情を抱えた人たちがここで生活していたはず。 昭和30年代、それまで米軍に接収されていた寿地区が返還され、そこに桜木町から職安が移転してきたことによって、日雇い労働者たちも移動してきた。その結果、この地区に簡易宿泊所が多数建設されていくことになったのであるが、その原点は大岡川の水上ホテルだったと言えるかもしれない。 ホテルの建設ラッシュが続く横浜だが、60数年前にはこんなホテルがあったことを、改めて市民の記憶に留めておきたいと思った次第である。 参考 さなぎの食堂もいいけど、音羽食堂もお勧め ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
もともと、KAATとその隣の地所との開発計画があり、旧警友病院跡にはホテルの建設計画がありました。
当時、KAAT以外は、それぞれの開発主が、採算性などから建設を先送りしたと聞きました。
ご存じとは、思いますが。
ケンコーポレーションは、旧日東倉庫のオーナーだったことを考えると....
もともとホテルの建設計画があったんですね。
だんだん思い出してきました。
>CPHさん
そういえば日東倉庫の跡地もホテル建設という話がありましたね。
あちらもケンコーポレーション…
>I_Kazさん
詳しいご説明をありがとうございます。
ホテルの結婚式場として残るようですね。
安心しました。
http://www.ur-net.go.jp/press/kanagawa/pdf/h17/yamashitachou_rikatuyou.pdf
最初の計画で噂のあったAPAは無いと思っていましたが、意外でした。
http://www.hamakei.com/headline/9953/
巨大な壁ができる感じですね。
なんだか、昔のゴールデンセンターを思い出します。
http://www.hamakei.com/headline/photo/9953/