7月31日に季刊誌『横濱』2020年夏号が発行された。本来なら7月上旬に販売されるのだが、今年は新型コロナの影響もあって遅れたらしい。 さて、その遅れた『横濱』、今回は《進化する横浜駅エリア》をテーマに特集を組んでいる。買ってきてすぐに読んだのは、初代・二代目・三代目と続く横浜駅の変遷の物語だ。 160年前、開港場が現在の関内に造られたため、新橋から続く鉄道の終着駅が現在の桜木町駅になってしまったことが、その後の東海道線の延伸に大きな影響を与えたことを、地図や写真を使って解説している。桜木町から西へ線路を敷設していくのは難しかったので、スイッチバックをしたり短絡線を造ったりせざるを得なかったのだ。 その間、関東大震災を挟みながら様々な改良を重ね昭和3年、現在の場所に三代目・横浜駅が完成した。 今日は、この新駅を設置するにあたって移転させられた施設があったことを記録しておきたいと思う。 東口駅前にあった横浜社会館である。(以下の写真は『神奈川県匡済会四十五年のあゆみ』から引用) 労働者宿泊所の登場 大正7年の米騒動を背景にして、困窮している労働者を救済するため神奈川県救済協会という組織ができた。これが神奈川県匡済会となり、大正10年、男子労働者の宿泊所を建設。その施設を横浜社会館といった。場所は現在の横浜駅東口の前。当時の横浜駅は高島町にあったので、この辺りは閑散とした場所だったに違いない。しかもすぐ傍まで海が迫っていたから、労働者の宿泊所を建設するにはちょうど良い場所だったのだろう。 これが、その横浜社会館の外観である。拡大写真がないのでよく分からないが、ぱっと見、なかなかいい建物だったようだ。 宿泊室。一部屋に10人ぐらいが寝泊まりしていたのだろうか。壁には戸棚のようなものがある。ここに個人の物品を格納していたのかな。 今みたいな感染症が流行していたら大変な状況だったろうね。 食堂。細長いコの字型のカウンターがいくつか並んでいる。昔の居酒屋のような造りだ。時代は違うが、野毛の「尾張屋」とか福富町の「杉田屋」を思い出させるよね。 娯楽室。ここで簡単なスポーツなんかをやっていたのかな。 労働者の生活 『神奈川県匡済会四十五年のあゆみ』を読んでいくと、宿泊者の生活がよく見えてくる。 館内には居室、娯楽室、食堂のほかに応接室、病室、理髪所、売店もあった。ここは単に宿泊施設というだけではなく、生活改善、貯蓄の指導、就職支援なども行っていたし、さらに精神修養、衛生思想の向上のため毎月、講話会も開催されていたというから、労働行政や福祉行政の一翼を担っていたのである。 彼らの生活を見ていこう。 宿泊は男子のみで、料金は1日15銭だった。回数券も発行されていて、11泊分で1円50銭(1泊分おまけ)、23泊分で3円(3泊分おまけ)というサービスも♪ 利用時間は午前4時の開門で午後11時に閉門。朝早くから仕事に行く労働者や夜遅く帰ってくる人たちが多かったようだ。 宿泊するには「宿泊申し込み票」を提出する必要があった。そこに記載する事項は、氏名のほかに本籍、今までの職業、これからの職業、前夜の宿泊地、学歴などだ。神奈川県匡済会ではこのデータを毎日集め、統計処理を行っていた。宿泊していた人々の職業は、人夫・雑役夫・行商の人・出稼ぎの人・苦学生・旅人などである。収容人数は456人で、一人当たりのスペースは2畳だった。 寝具は敷布団・掛布団が各1枚だったが、冬場は掛布団が2枚提供された。『あゆみ』には食堂のメニューが一例として載っている。 朝食:ネギの味噌汁・タクアン・ご飯 夕食:甘煮(豚肉、ニンジン、大根、ネギ)・タクアン・ご飯 タンパク質の摂取が少ないようだが、外で食べる昼食で補充していたのだろうか。身体が資本の労働者としては、十分だったとは思えないが。 彼らの生活費に関する統計資料も載っている。 宿泊者の平均的な月収は30円。しかし仕事柄、雨が降れば即減収となるから、長雨の時季は大変だったろうね。 食費の平均金額は1日あたり42銭で、その他の経費が63銭、そこに宿泊費が15銭だから、1日の生活費はだいたい1円20銭だ。これで1ヶ月の生活するとなると、その費用は36円だ。平均月収が30円なので毎月、6円の不足(涙)。 報告書によると、その赤字をなくすため食費を切り詰めている人たちが多くいたそうだ。 それでも雨風をしのげる所でなんとか生活をしていた労働者を襲ったのが、大正12年(1923)に発生した関東大震災である。しかし、横浜社会館は頑丈な建物だったらしく、大きな被害はなく、一部改修で再開することができたという。おそらく労働者は震災復興の仕事で月収も増加したのではないだろうか。 一方、高島町にあった二代目横浜駅は壊滅し、新しい横浜駅を造らなければならなくなった。そこで目をつけたのが、現在の場所である。 昭和3年、三代目横浜駅が完成した。しかし、横浜の玄関ともいうべき横浜駅(東口)の目の前に「横浜社会館」があるという状況に対し、いろいろなところから声が上がってきた。 周辺の路上には港湾労働者が多数たむろしていたし、また、窓には作業服などが干されていたので、景観なども問題になってきたのだ。 横浜社会館の移転 そこで、建物はそのまま残して、横浜社会館という組織、施設を中区翁町に移転することになった。 これは昭和7年の地図。日ノ出川右岸に横浜社会館が描かれている。その対岸には寿小学校。ここはのちに横浜工業高校になり、そのあと横浜総合高校を経て、最近、横浜武道館・サブアリーナとして生まれ変わっている。 寿公設市場のあるところはのちに、横浜職業安定所となり、現在は「横浜市生活自立支援施設 はまかぜ」が建っている。ちなみに、ここの運営は神奈川県匡済会だ。 中央卸売市場寿分場があった場所には、横浜市寿町健康福祉交流センターがある。 この一帯に市場関係の施設が2つもあったのは、日ノ出川を活用した舟運が関係しているのだろうね。 ついでに言っておくと、戦後、日ノ出川は埋め立てられ、一部はテニスコートのある日ノ出川公園に、また中村川合流近くの部分は寿町飲食街になっている。 横浜社会館が移転していったエリアは現在、寿地区と呼ばれている。ここで一応、この街の歴史にも触れておこうと思う。以下は『中区史』や『中区わが街 中区地区沿革外史』による。 吉田新田はいくつかの区画に分けて埋め立てが進んでいった。南一つ目沼と呼ばれていたこの一帯は製鉄所だけが稼働していたが、埋立は不完全なまま残っていた。そこを明治3年に本格的な埋め立てを開始し、明治9年に完成。埋め立てには根岸の堀割川開削の土を利用した。ここが、のちに埋地地区となる。最後に埋め立てたから「埋地(うめち)」というわけだ。 埋め立て完成前の明治6年、新開地にふさわしい名前が付けられた。それが寿町、松影町、松ヶ枝町、若竹町、梅ヶ枝町、蓬莱町、万代町、不老町、翁町などである。 埋地が開けてくると、地代が安かったので関内から移転してくる人が多くなった。当時、横浜には問屋、仲買が50軒ほどあったが、そのうち30軒は埋地にあった。問屋街だったのである。 そのほかに震災前は材木屋が多かった。周囲には中村川、派大岡川、日ノ出川があったので船で輸送するのに都合が良かった。 大正時代には県会議員、市会議員が4,5人も住んでいたという。別に議員が偉いわけではないが…。 寿町2丁目には左右田銀行、翁町2丁目に横浜実業銀行があった。横浜を代表する銀行があったのである。 当時は、お茶場に通う人たちの通勤経路だったし、伊勢佐木~亀の橋~根岸競馬場は競馬開催日のメイン道路でもあったから、いろいろな人たちでにぎわっていた。 しかし、そんな街に大正8年、「埋地の大火」が発生。罹災・負傷者は23,000人に達したという。しかし、その後の復興で以前よりもさらにいい町になった。寿小学校は市内で初のコンクリート造で再開された。 野毛に「ちぐさ」というジャズ喫茶がある。以前は野毛本通りに近いところで営業していたが、その経営者である吉田衛さんが亡くなったあとは野毛仲通りに移転。 吉田衛さんは大正2年、埋地七ヶ町(松影町・寿町・不老町・万代町・翁町・扇町・吉浜町)で生まれた。『中区わが街 中区地区沿革外史』では、こんなことを語っている。 大岡川(派大岡川)にかかる橋を渡れば、山下町の外国商館街、そして港に近い関係で、この埋地には、何らかのかたちで、輸出入に関係のある仕事を持つ人々が数多く住んでいた。外国商館へ納入する輸出品の陶器、漆器、絹織物を扱う店、また木綿の加工所があったが、なかでも輸出用の木箱屋が目立った。現在のようにコンテナなどない時代なので、輸出品はみなこの木箱に入れて積み出されていた。木箱の専門店は、6軒ほどあった。 そんな地区が昭和20年の横浜大空襲で大きく様変わりした。 一帯は焼け野原となり、戦後は米軍の接収によりなかなか復興しなかったのである。そして昭和30年代、桜木町にあった職安がこの地区に移転してきたことにより、労働者も移ってきた。現在の簡易宿泊所街はこうしてつくられていった。 建物は新興倶楽部に転換 話は昭和3年に戻る。新しい横浜駅ができ、目障りだった横浜社会館が翁町に移転していったあと、残された建物は「新興倶楽部」というアパートに転換された。入居者は独身サラリーマンに限られ、その多くは銀行員、公務員、教員だった。 関東大震災の被害が少なかったこともあって、外観はあまり変わっていないようだ。 これが新興倶楽部の居室だ♪ 横浜社会館時代と比べるとかなり優雅な感じだよね。 これも居室となっているが、別仕様なのか、それとも2部屋だったのか…… お風呂♪ 社会館時代の風呂場の写真がないので比較のしようがないが、まるで銭湯のよう。脱衣所の籐籠が懐かしいねぇ… 食堂! まるで、どこかのレストランか喫茶店みたいだ。 横浜社会館とは異なり、新興倶楽部には女性たちもしばしば訪問し、男子たちと一緒にお茶を飲んだり歌を歌ったりしていた。今でいう合コンだね。 横浜社会館だった時代は、まるで合宿所みたいな感じだったが、あれから比べると優雅なホテル住まいのような雰囲気だった。 しかし、こんな状態はいつまでも続かない。やがて戦争が近づいてくると、新興倶楽部の一部を開放して再び労働者を寝泊まりさせるようになった。 そして戦後。増える宿泊者に対応するため、海側に新しく横浜社会館をつくった。周囲を囲むのは、貯炭所、土砂置き場、土木事務所とその資材置き場、倉庫、ガレージなど。まるでその存在を隠すかのような配置だった。 昭和31年の横浜駅東口周辺の地図。 見にくいけど時間のある方は、じっくり眺めてみてね。いろいろ発見できるよ。 【参考】神奈川県匡済会のホームページ ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
震災前の大正時代なら、1円でビール大瓶が3本呑めたようです。
いまお大瓶3本呑んだら1,000円超でしょうか。
横浜社会館は今の簡易宿泊所と違って集団生活をしていたようです。
合宿所みたいなものですね。
結構楽しかったのかもしれません。
ほかにも消えた横浜を掘り起こしたいですね。
ドヤ街以前のドヤ!
匡済会のサイトも拝見しました。
横浜社会館と新興倶楽部の差も
興味深いです。
「消えた横浜」は、もっと検証されてもいいですよね。