「抗日闘争と大韓帝国の喪失」
■ 愛国啓蒙運動
開化運動と独立協会の流れを受け継いできた知識人は第2次日韓協約(乙巳条約)締結を前後して活発な愛国啓蒙運動を行った。彼らは武力抗争によってもすぐに独立することは難しいと判断して国権を回復するためには国民を啓蒙し愛国的な知識人は大韓自強会、新民会のような団体を作って国権回復運動に乗り出した。愛国団体の会員は学校を建てて教育と言論活動を通じて民族意識を鼓吹した。
新民会は秘密結社団体であり実力要請のために教育と産業振興運動を展開する一方、戦争を通じて独立を達成できると信じ国外に独立運動の根拠地を作るための活動も展開した。
民族指導者が特に力を注いだのは教育運動であった。彼らは民族の実力を育てるためには国民を啓蒙し2世教育に力を尽くすべきだと考えた。そして第2次日韓協約(乙巳条約)以降、全国に3000余校の私立学校を建て学生の愛国心を鼓吹した。統監府はこれに対して大韓帝国を通じて統制を強化し弾圧した。
言論活動も活発に起こった。『皇城新聞』、『帝国新聞』『大韓毎日申報』などが発刊され日本の侵略を糾弾する一方、国民を啓蒙し民族意識を教え悟らせることの先頭に立った。
また彼らは産業の振興と経済的自立にも力をそそぎ日本から借りた資金を返そうという国債報償運動を展開したりもした。当時、韓国政府は日本から約1千万ウオンの借款をして道路の拡張と上水道の施設、官庁の補修と俸給の支払いなど主に韓国に居住する日本人の生活条件を改善して日本の侵略のための施設を作るのに使った。当時の国債1300万ウオンは大韓帝国1年間の予算に当たる額であった。このような状況で愛国的な知識人は日本に借りた負債を返すことが経済的自主権を維持する道であり、それこそ国権を取り戻すことであると考えた。大邱から始まった国債報償運動は全国民の参加によって全国各地から600万ウオンの寄付金が集まった。国債報償運動をきっかけに日本に反対する気運が高まったが統監府が国債報償運動を弾圧したために失敗に終わってしまった。
愛国啓蒙運動は日本の国権侵略に対して武力で闘争することはできなかったが国民を啓蒙し民族独立を育てていくのに寄与した。
∥「韓国併合」か「韓国強占」か?∥
1910年の日本による韓国の植民地化を日本では「日韓併合」または「韓国併合」といい、韓国では「国権碑被奪」のたは「強占」という。
1910年の「併合条約」で使用された「併合」という用語は日本の緻密な計算の下に造ったものである。1909年、日本政府の閣議で韓国を植民地にする方針を決定した時の文書から使った用語である。
当時、日本では「合邦」とか「合併」という用語は「日韓両国が対等に合一」するかのように理解される、そこで韓国を滅亡させて日本帝国の領土の一部になる点を明確にしながらも「植民地」のような露骨な用語を避けるために苦心の下に造り出された用語が「併合」だったのである。
しかし「併合条約」は批准書に純宗皇帝の署名もないなど手続上・形式上の問題点が多く根本的に無効なので日本の植民地支配は軍事力による不法で強制的な占領、すなわち「強占」であった。と見るのが当時以来韓国の見解である。
∥「韓国併合」を自慢する寺内正毅と悲しむ石川啄木∥
寺内正毅統監(後の初代朝鮮総督)は「併合条約」調印の祝宴を開き「小早川加藤小西があらば 今宵の月を如何に見るらむ」と詠んだ。
小早川隆景、加藤清正、小西行長は豊臣秀吉が朝鮮を侵略した時に出征した武将である。寺内監督は昔の武将が朝鮮を支配しようとして果たせなかった夢をまさに自分を実現したと自慢したのである。
他方、朝鮮侵略に反対していた社会主義者が天皇を殺害しようという理由で弾圧された事件(大逆事件)で多くの知識人が沈黙せざるをえないなかで「併合」の翌年に歌人石川啄木は「地図の上朝鮮国にくろぐろと 墨をぬりつつ秋風を聴く」と詠んだ。
朝鮮が植民地になってなくなることを「墨をぬる」と表現しその寂しさとむなしさを「秋風を聴く」と詠って韓国の植民地化を批判したのである。石川啄木は日本人のなかで韓国の植民地支配を批判した稀な例である。
ここに「日韓2000年の真実」という著書がある。写真400枚が収録されている。編著書は名越二荒之助、発行は株式会社国際社会、発売元はジュピター出版株式会社。この著書は「封印された日韓友好史」帯封には「日韓関係ぐらい面白く複雑で愛憎をともなう物語はない。神話時代から秀吉の朝鮮出兵、日韓併合そして戦争、戦後まであらゆる事実を時に韓国人になり時に日本人になってプリズムを7色に写し出すよう描きだした日韓交流の秘話」と記述されている。著書は1997年に発行されている。
この中で「安重根と伊藤博文」―二人の合同慰霊祭を営む心で―と言う項目がある。次回からこの項目を少しずつ紹介していこうと考えている。
著書の記述である。
著者は韓国に訪問した時若い人たちに「韓国を代表する歴史上の5人を挙げて貰いたい」と何回か質問したことがあります。
豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を打ち破った聖雄として李舜臣将軍と「日帝36年」の元凶・伊藤博文を暗殺した安重根義士(先生の敬称をつける者が多い)は2大英傑になっています。安重根が高く評価されるのに対して殺された伊藤博文の方は何としても不評で千円札の肖像画になった時も韓国から異議を申し立てられました(今は夏目漱石に変更)。また昭和61年(1986年)、高校用歴史教科書『新編日本史』(原書房刊)が安重根を「壮士」と記述したら韓国側は壮士には「ごろつき」という意味があると抗議、結局、文部省(現在は文部科学省)の指導で「指導者」に書き替えさせられたという苦い思い出があります。安重根と伊藤博文は、日韓関係を考える最も象徴的な教材ではないでしょうか。次回から詳細に少しずつ紹介していきます。
さて2月10日の夜、韓国ソウルにある国宝第1号、崇礼門(南大門)が放火によって焼け崩れてしまった。放火した犯人は「また作り直せばいい」と言っている。
筆者は奈良という渡来文化の宝庫を庭にして住んでいる奈良県人である。古代の百済、高句麗、新羅など古代朝鮮の宝物の中で生活をしている。史跡など文化財の保存と保護は緻密な計算の中でされている。学芸員たちは周りが驚くような報酬を得て保存研究をしているわけではない。普通の会社員のサラリーマンと同様の報酬で保存研究を積み重ねている。なかには研究段階の高松塚古墳の壁画の保存はカビなどが生えて問題があったもののまたそれを取り除いた保存の研究に余念がない。古代史の歴史を奈良県の遺産として元の形に近いようにして保存されている。しかし韓国は度重なる侵略と植民地そして動乱を潜り抜けてきたので古い物をそのまま保存するということはきわめて困難だっただろう。しかし南大門は戦乱ね潜り抜けて600年の歴史を経てもソウルの町に鎮座していた。韓国の歴史、朝鮮王朝を物語っている崇高な歴史遺産だった。あのまま古い形で残っていることが韓国の自負心を養うものだった。復元されると今度は色鮮やかな建物がお目見えするだろう。しかしそれですむ問題ではない。新しく作り直せばいいということではない。先人たちが造営した技術に国の自尊心を養うものがあった。焼けた建物に朽ちていないものはなるべく復元される建物の一部に入れて復元をしてもらいたい。それも韓国の歴史であり現代人は何が足りなくてこうしたことが起こったのか検証していく材料になり文化財の大切さを市民たちに指導していく必要があるだろう。筆者は古代史という先人の歴史の詳細は勉強不足でわからないが神話の時代からある春日原始林を森にした奈良公園、その中に鎮座する東大寺、興福寺、元興寺などなど高句麗、百済、新羅文化などが伝えた古の文化財がある町で暮らしている。歩いて15分から20分というところに住居を構えて宝物の中で暮らしている。その裏ではたゆまない努力をされている。文化遺産を保存する関係者は日夜、研究と保存を修練しておられる。こうした中で暮らしていると韓国も研究と保存に余念がないと思っていた。筆者が知る慶州の宝物は大事に保存されている。そんなものだと思っていたが南大門の放火を通して文化財保存に懸念をもった。このことが筆者にもっと衝撃を与えた。復元することは古の先人たちの生き様を伝えていくことである。これが国家を守っていく1つの目安にもなる。
分断国家の中でイデオロギーとの戦いもあるだろうが経済が豊かになった韓国、儒教文化の繋がりを教える歴史教材の保存に尽力しなければ歳時記が崩れていく。歳時記が崩れると生活も乱れていく。日本の一般家庭は歳時記が崩壊してけじめのない暮らしがはびこっている。電車の中の化粧に飲食、住居がキッチンとリビングがワンルームになってけじめのない生活、家族構成のあり方も変わりけじめがない。正月にコンビニが開いている。これも歳時記が崩れているからである。正月と言う歳時記をきちんとすれば人間の暮らしにけじめがついていく。そんな中を日本の学芸員たちは先人の暮らしを伝えようと文化財保護に余念がない。こうした文化財保護はいつか歳時記のある暮らしになると信じている。学校教育の中にも1950年代から1960年代に教わった季節の行事もきちんと取り入れて学習することで暮らしにけじめのある生活に戻ることができるだろうと考えている。
韓国は歳時記を重要にしている。この中で先人の造った文化財にももっと目を向けてもらいたい。筆者は南大門がいつまでもソウルに鎮座していると思っていた。それが土台は残ったが楼閣がない。なんとも物悲しく寂しく驚いている。
【写真説明】1995年4月11日撮影。日韓の報道関係者に10数人が9日から12日まで韓国を取材旅行。この場所は韓国霊岩郡にある「王仁廊」に入る入口のところである。
■ 愛国啓蒙運動
開化運動と独立協会の流れを受け継いできた知識人は第2次日韓協約(乙巳条約)締結を前後して活発な愛国啓蒙運動を行った。彼らは武力抗争によってもすぐに独立することは難しいと判断して国権を回復するためには国民を啓蒙し愛国的な知識人は大韓自強会、新民会のような団体を作って国権回復運動に乗り出した。愛国団体の会員は学校を建てて教育と言論活動を通じて民族意識を鼓吹した。
新民会は秘密結社団体であり実力要請のために教育と産業振興運動を展開する一方、戦争を通じて独立を達成できると信じ国外に独立運動の根拠地を作るための活動も展開した。
民族指導者が特に力を注いだのは教育運動であった。彼らは民族の実力を育てるためには国民を啓蒙し2世教育に力を尽くすべきだと考えた。そして第2次日韓協約(乙巳条約)以降、全国に3000余校の私立学校を建て学生の愛国心を鼓吹した。統監府はこれに対して大韓帝国を通じて統制を強化し弾圧した。
言論活動も活発に起こった。『皇城新聞』、『帝国新聞』『大韓毎日申報』などが発刊され日本の侵略を糾弾する一方、国民を啓蒙し民族意識を教え悟らせることの先頭に立った。
また彼らは産業の振興と経済的自立にも力をそそぎ日本から借りた資金を返そうという国債報償運動を展開したりもした。当時、韓国政府は日本から約1千万ウオンの借款をして道路の拡張と上水道の施設、官庁の補修と俸給の支払いなど主に韓国に居住する日本人の生活条件を改善して日本の侵略のための施設を作るのに使った。当時の国債1300万ウオンは大韓帝国1年間の予算に当たる額であった。このような状況で愛国的な知識人は日本に借りた負債を返すことが経済的自主権を維持する道であり、それこそ国権を取り戻すことであると考えた。大邱から始まった国債報償運動は全国民の参加によって全国各地から600万ウオンの寄付金が集まった。国債報償運動をきっかけに日本に反対する気運が高まったが統監府が国債報償運動を弾圧したために失敗に終わってしまった。
愛国啓蒙運動は日本の国権侵略に対して武力で闘争することはできなかったが国民を啓蒙し民族独立を育てていくのに寄与した。
∥「韓国併合」か「韓国強占」か?∥
1910年の日本による韓国の植民地化を日本では「日韓併合」または「韓国併合」といい、韓国では「国権碑被奪」のたは「強占」という。
1910年の「併合条約」で使用された「併合」という用語は日本の緻密な計算の下に造ったものである。1909年、日本政府の閣議で韓国を植民地にする方針を決定した時の文書から使った用語である。
当時、日本では「合邦」とか「合併」という用語は「日韓両国が対等に合一」するかのように理解される、そこで韓国を滅亡させて日本帝国の領土の一部になる点を明確にしながらも「植民地」のような露骨な用語を避けるために苦心の下に造り出された用語が「併合」だったのである。
しかし「併合条約」は批准書に純宗皇帝の署名もないなど手続上・形式上の問題点が多く根本的に無効なので日本の植民地支配は軍事力による不法で強制的な占領、すなわち「強占」であった。と見るのが当時以来韓国の見解である。
∥「韓国併合」を自慢する寺内正毅と悲しむ石川啄木∥
寺内正毅統監(後の初代朝鮮総督)は「併合条約」調印の祝宴を開き「小早川加藤小西があらば 今宵の月を如何に見るらむ」と詠んだ。
小早川隆景、加藤清正、小西行長は豊臣秀吉が朝鮮を侵略した時に出征した武将である。寺内監督は昔の武将が朝鮮を支配しようとして果たせなかった夢をまさに自分を実現したと自慢したのである。
他方、朝鮮侵略に反対していた社会主義者が天皇を殺害しようという理由で弾圧された事件(大逆事件)で多くの知識人が沈黙せざるをえないなかで「併合」の翌年に歌人石川啄木は「地図の上朝鮮国にくろぐろと 墨をぬりつつ秋風を聴く」と詠んだ。
朝鮮が植民地になってなくなることを「墨をぬる」と表現しその寂しさとむなしさを「秋風を聴く」と詠って韓国の植民地化を批判したのである。石川啄木は日本人のなかで韓国の植民地支配を批判した稀な例である。
ここに「日韓2000年の真実」という著書がある。写真400枚が収録されている。編著書は名越二荒之助、発行は株式会社国際社会、発売元はジュピター出版株式会社。この著書は「封印された日韓友好史」帯封には「日韓関係ぐらい面白く複雑で愛憎をともなう物語はない。神話時代から秀吉の朝鮮出兵、日韓併合そして戦争、戦後まであらゆる事実を時に韓国人になり時に日本人になってプリズムを7色に写し出すよう描きだした日韓交流の秘話」と記述されている。著書は1997年に発行されている。
この中で「安重根と伊藤博文」―二人の合同慰霊祭を営む心で―と言う項目がある。次回からこの項目を少しずつ紹介していこうと考えている。
著書の記述である。
著者は韓国に訪問した時若い人たちに「韓国を代表する歴史上の5人を挙げて貰いたい」と何回か質問したことがあります。
豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を打ち破った聖雄として李舜臣将軍と「日帝36年」の元凶・伊藤博文を暗殺した安重根義士(先生の敬称をつける者が多い)は2大英傑になっています。安重根が高く評価されるのに対して殺された伊藤博文の方は何としても不評で千円札の肖像画になった時も韓国から異議を申し立てられました(今は夏目漱石に変更)。また昭和61年(1986年)、高校用歴史教科書『新編日本史』(原書房刊)が安重根を「壮士」と記述したら韓国側は壮士には「ごろつき」という意味があると抗議、結局、文部省(現在は文部科学省)の指導で「指導者」に書き替えさせられたという苦い思い出があります。安重根と伊藤博文は、日韓関係を考える最も象徴的な教材ではないでしょうか。次回から詳細に少しずつ紹介していきます。
さて2月10日の夜、韓国ソウルにある国宝第1号、崇礼門(南大門)が放火によって焼け崩れてしまった。放火した犯人は「また作り直せばいい」と言っている。
筆者は奈良という渡来文化の宝庫を庭にして住んでいる奈良県人である。古代の百済、高句麗、新羅など古代朝鮮の宝物の中で生活をしている。史跡など文化財の保存と保護は緻密な計算の中でされている。学芸員たちは周りが驚くような報酬を得て保存研究をしているわけではない。普通の会社員のサラリーマンと同様の報酬で保存研究を積み重ねている。なかには研究段階の高松塚古墳の壁画の保存はカビなどが生えて問題があったもののまたそれを取り除いた保存の研究に余念がない。古代史の歴史を奈良県の遺産として元の形に近いようにして保存されている。しかし韓国は度重なる侵略と植民地そして動乱を潜り抜けてきたので古い物をそのまま保存するということはきわめて困難だっただろう。しかし南大門は戦乱ね潜り抜けて600年の歴史を経てもソウルの町に鎮座していた。韓国の歴史、朝鮮王朝を物語っている崇高な歴史遺産だった。あのまま古い形で残っていることが韓国の自負心を養うものだった。復元されると今度は色鮮やかな建物がお目見えするだろう。しかしそれですむ問題ではない。新しく作り直せばいいということではない。先人たちが造営した技術に国の自尊心を養うものがあった。焼けた建物に朽ちていないものはなるべく復元される建物の一部に入れて復元をしてもらいたい。それも韓国の歴史であり現代人は何が足りなくてこうしたことが起こったのか検証していく材料になり文化財の大切さを市民たちに指導していく必要があるだろう。筆者は古代史という先人の歴史の詳細は勉強不足でわからないが神話の時代からある春日原始林を森にした奈良公園、その中に鎮座する東大寺、興福寺、元興寺などなど高句麗、百済、新羅文化などが伝えた古の文化財がある町で暮らしている。歩いて15分から20分というところに住居を構えて宝物の中で暮らしている。その裏ではたゆまない努力をされている。文化遺産を保存する関係者は日夜、研究と保存を修練しておられる。こうした中で暮らしていると韓国も研究と保存に余念がないと思っていた。筆者が知る慶州の宝物は大事に保存されている。そんなものだと思っていたが南大門の放火を通して文化財保存に懸念をもった。このことが筆者にもっと衝撃を与えた。復元することは古の先人たちの生き様を伝えていくことである。これが国家を守っていく1つの目安にもなる。
分断国家の中でイデオロギーとの戦いもあるだろうが経済が豊かになった韓国、儒教文化の繋がりを教える歴史教材の保存に尽力しなければ歳時記が崩れていく。歳時記が崩れると生活も乱れていく。日本の一般家庭は歳時記が崩壊してけじめのない暮らしがはびこっている。電車の中の化粧に飲食、住居がキッチンとリビングがワンルームになってけじめのない生活、家族構成のあり方も変わりけじめがない。正月にコンビニが開いている。これも歳時記が崩れているからである。正月と言う歳時記をきちんとすれば人間の暮らしにけじめがついていく。そんな中を日本の学芸員たちは先人の暮らしを伝えようと文化財保護に余念がない。こうした文化財保護はいつか歳時記のある暮らしになると信じている。学校教育の中にも1950年代から1960年代に教わった季節の行事もきちんと取り入れて学習することで暮らしにけじめのある生活に戻ることができるだろうと考えている。
韓国は歳時記を重要にしている。この中で先人の造った文化財にももっと目を向けてもらいたい。筆者は南大門がいつまでもソウルに鎮座していると思っていた。それが土台は残ったが楼閣がない。なんとも物悲しく寂しく驚いている。
【写真説明】1995年4月11日撮影。日韓の報道関係者に10数人が9日から12日まで韓国を取材旅行。この場所は韓国霊岩郡にある「王仁廊」に入る入口のところである。
おもしろくて初めから読みふけっちゃいました。
オレもブログ始めようと思うので参考にしたいです。
内容は、最近感動したことなんですけど、
この前のバレンタインデーに
うまれてはじめてチョコもらいました!!(27年目にして初)
感動して、うまく気持ち表現できずに
「ありがとう」
ってぶっきらぼうな感じで言ってしまって…
でもその後、一つ食べた瞬間に言葉あふれてきて、
「おいしい」「ありがとう」を連呼しちゃってて。
最後にそのとき言うつもりじゃなかったのに
「つきあってほしい」
って言葉がもれて
その時の女の子が、今僕の彼女としてとなりにいます。
ブログを読ませていただきながらラブラブです。
すみません、初コメでこんな自分勝手な事かいてて
また一緒に遊びに来ます★
ちなみにオレ達のちょっと変わったキューピットは▼でした。
始まりが人と違うから合わない人に無理かもだけど、僕たちには最高の場所です♪http://exeair.net/doll/857