1986年7月、子どもの合唱団の随行で北京に行った。合唱の交流は私にはただ疲れる仕事だった。食事は何1つ食べることができなくて栄養失調になってかえってきた。
しかし1つ私のためになることがあった。
北京にあった故宮を交流事業の合間を見て合唱団一行は訪ねた。
建物に施された朱色を貴重にした色鮮やかな彩色、韓国にまだ行ったことがなかったがグラビア雑誌で見たことのある慶州の仏国寺(プルグッサ)の建物と似ている。仏国寺は緑の色調が多い彩色だが文化の流れを実感して確認した。
北京の建物を見ながら私は感無量になっていた。
心の中で考えていた。
どうして韓国に関心をもたなかったのだろう。これと同じものが韓国にある。どうして先に韓国に行って彩色の建物を見なかったのだろう。
韓国では彩色を丹青(タンチョン)という。
なぜ海外旅行の1番最初が中国になったのだろうと悔やんだ。
一緒にいた地方紙の記者は私に言った。
「こんなものに興味があるのか」と言った。
私は「うん。韓国人だからわかる」といって黙ってしまった。
日本に戻ってきて韓国と向き合うのにどうすればいいのか悩んだ。
息子の大学入試は刻々とせまっていた。
私なりの結論を出した。
息子が大学に合格したら韓国語を習いに行こうとひそかに心の中できめていた。
自分と民族と真正面から向き合うきっかけになったのは北京でみた故宮の建物にも1つの要因があった。
息子は大学に合格して沖縄に旅立った。
そして4月の半ば、民団奈良県本部の韓国語教室に行った。
ここで教えていたのは韓国政府派遣教師で2月に赴任したばかりだった。
この先生との出会いはまた私の人生をさらに180度変えた。
私の生活は以前といっぺんした。350度変わったといってもいいだろう。
日本語の不自由なこの先生を行政機関に案内することで私は韓国が少しずつ身近になっていった。
こんなことを思い出した1987年6月の韓国のデモの画面と重なった。
9月末まで奈良で雑誌記者をしていたが韓国政府派遣教師の世話で在日韓国人系の新聞記者になった。10月からこの会社に勤務した。
それでもまだまだ韓国の政治について何も知らなかった。
盧泰愚大統領が直接選挙で国民投票の1位になったニュースは桜井市栗殿にあった民団奈良桜井支部の支団長の家のテレビのニュースで知った。
この家の2階で韓国語教室をしておられた。
ちょうど12月、忘年会をかねた教室だった。当時私は43歳、若かった。夜の仕事でも好奇心旺盛でどこへでも飛んでいった。
私が盧泰愚という名前を知ったのはこのときだった。ようやく私のどこかで韓国が体の中にくっつき始めていた。
そんなころを思い出した昨日のドラマだった。
日本人のふりをして日本の記事を書きたくない。もんもんとした気持ちにけじめをつけたのは北京でみた故宮の最初のある建物だった。
長い道のりだった。
でもまたこれから自分とむきあうなかでさまざな出会いに「民族」が嫌いになることもあったがいつも「逃げてはいけない」と心のどこかでささやく声が聞こえていた。
この言葉は息子が小学校にいっていたころ、ある教師が大勢の保護者の前で言った言葉である。PTAの役員をしていても国籍差別によそ者差別などなど遭遇するなかで、この言葉を聴いたとき置かれた中から逃げてはいけない。
とにかくがんばろうと自分に激を飛ばす言葉の1つだった。
いろんなものが思い出すドラマ、私の人生の中で過度期だった。
第5共和国、多くの人たちの民主化運動の中で韓国は発展してきた。民族の底力を見せてくれた。
後は在日同胞も誰もが願うこと。分断国家が統一してさらに国力をあげて民主化された国づくりを願う。
そんなことが去来したドラマだった。
しかし1つ私のためになることがあった。
北京にあった故宮を交流事業の合間を見て合唱団一行は訪ねた。
建物に施された朱色を貴重にした色鮮やかな彩色、韓国にまだ行ったことがなかったがグラビア雑誌で見たことのある慶州の仏国寺(プルグッサ)の建物と似ている。仏国寺は緑の色調が多い彩色だが文化の流れを実感して確認した。
北京の建物を見ながら私は感無量になっていた。
心の中で考えていた。
どうして韓国に関心をもたなかったのだろう。これと同じものが韓国にある。どうして先に韓国に行って彩色の建物を見なかったのだろう。
韓国では彩色を丹青(タンチョン)という。
なぜ海外旅行の1番最初が中国になったのだろうと悔やんだ。
一緒にいた地方紙の記者は私に言った。
「こんなものに興味があるのか」と言った。
私は「うん。韓国人だからわかる」といって黙ってしまった。
日本に戻ってきて韓国と向き合うのにどうすればいいのか悩んだ。
息子の大学入試は刻々とせまっていた。
私なりの結論を出した。
息子が大学に合格したら韓国語を習いに行こうとひそかに心の中できめていた。
自分と民族と真正面から向き合うきっかけになったのは北京でみた故宮の建物にも1つの要因があった。
息子は大学に合格して沖縄に旅立った。
そして4月の半ば、民団奈良県本部の韓国語教室に行った。
ここで教えていたのは韓国政府派遣教師で2月に赴任したばかりだった。
この先生との出会いはまた私の人生をさらに180度変えた。
私の生活は以前といっぺんした。350度変わったといってもいいだろう。
日本語の不自由なこの先生を行政機関に案内することで私は韓国が少しずつ身近になっていった。
こんなことを思い出した1987年6月の韓国のデモの画面と重なった。
9月末まで奈良で雑誌記者をしていたが韓国政府派遣教師の世話で在日韓国人系の新聞記者になった。10月からこの会社に勤務した。
それでもまだまだ韓国の政治について何も知らなかった。
盧泰愚大統領が直接選挙で国民投票の1位になったニュースは桜井市栗殿にあった民団奈良桜井支部の支団長の家のテレビのニュースで知った。
この家の2階で韓国語教室をしておられた。
ちょうど12月、忘年会をかねた教室だった。当時私は43歳、若かった。夜の仕事でも好奇心旺盛でどこへでも飛んでいった。
私が盧泰愚という名前を知ったのはこのときだった。ようやく私のどこかで韓国が体の中にくっつき始めていた。
そんなころを思い出した昨日のドラマだった。
日本人のふりをして日本の記事を書きたくない。もんもんとした気持ちにけじめをつけたのは北京でみた故宮の最初のある建物だった。
長い道のりだった。
でもまたこれから自分とむきあうなかでさまざな出会いに「民族」が嫌いになることもあったがいつも「逃げてはいけない」と心のどこかでささやく声が聞こえていた。
この言葉は息子が小学校にいっていたころ、ある教師が大勢の保護者の前で言った言葉である。PTAの役員をしていても国籍差別によそ者差別などなど遭遇するなかで、この言葉を聴いたとき置かれた中から逃げてはいけない。
とにかくがんばろうと自分に激を飛ばす言葉の1つだった。
いろんなものが思い出すドラマ、私の人生の中で過度期だった。
第5共和国、多くの人たちの民主化運動の中で韓国は発展してきた。民族の底力を見せてくれた。
後は在日同胞も誰もが願うこと。分断国家が統一してさらに国力をあげて民主化された国づくりを願う。
そんなことが去来したドラマだった。
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