今週の祝大マタイ20章「天国人の喜び」
【新改訳改訂第3版】
マタ
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
20:2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
20:3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
20:4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
20:5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
20:8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
20:10 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
20:11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
20:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
20:13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
20:15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
20:16 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」
私はこの箇所を読んで、病床洗礼を思い出していました。一人は天国に旅立ちましたが、いずれ天国で再会できることを思うと嬉しく思います。40年間、奥さんの信仰を迫害し続けてきましたが癌と成り寝たきりになって悔い改めて洗礼を受けました。この人はまさにゴルゴタの十字架の上で救われた人のようなものです。
また、西仙台教会の元ヤクザクリスチャンも知り合いの組長が末期がんで苦しんでいるときに、付き添い、悔い改めに導いて洗礼を授けて看取りました。まさに、十字架の上の救いではないでしょうか。これを死ぬ間際までヤクザして人様に迷惑をかけてきた人が天国に行くなんて!!と、理不尽な裁きに抗議する人が、
20:11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
20:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
・・・と、文句をいった人です。つまり救われていない人。救われていない人とは、たとえ善良に生きていたとしても、神は居ない!とか、自分には罪がないと言って悔い改めていない人です。つまり神との関係を否定した人、関係がない人のこと。
私たちは、どのような救いも神と共に喜べる。なんという幸いだろうか。神の喜びを共有できるとは。
もし、一番早く雇われた人が救われた人だとしたら神の喜びを知らないことになる。一番早く雇われた人には「自分は早くに雇われて安心」を忘れている。
苦しくとも神と共に居る幸いを忘れている。苦しくとも私はキリスト者の自由を持って神と共に居たい。働きたい。
13節で「友よ」と、語りかけておられる。なんと幸いなことよ。