SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

覚えておいてほしいこと。

2024-06-22 22:58:00 | Essay-コラム

いつもこの初夏の季節に呼んでいただいている、ノルマンディーのルーアンという街にある高等音楽教育機関にて、今年はフランス国家器楽教育免許に向けた「ポートフォリオ」(これまでの実績を作品集に見立ててプレゼンテーションする、写真、動画、簡単な演劇や物品などを使った演出も可能なスピーチ)の審査員を初めてさせていただいた。


ここのヤニック校長先生以下スタッフの方達はどうやら珍しく()私と根っから気が合うらしく(先生の目、先生の音 参照)、相当舌足らずなフランス語でしかも直球な私の話し方にも関わらず大いに意気投合して、それ以来何度も招待していただいて、貴重な体験をさせていただいている。


審査員は私が専科教授として、他には音楽院学長、市庁舎の役人さん、大学教授、海外県の文化関係者など。


それぞれがそれぞれの立場、それぞれの視点で質問するから、自然に全く違った質問が出てくるし、この辺がさすがフランス、生徒さん達も同じ音楽とはいえ国籍から専門から全く違った人たちの全く違ったアプローチ、面白い表現や演出だらけで、ディープなディスカッションあり、また笑いありの、本当に楽しい2日間を過ごさせて頂きました。


そこで、ここの生徒さん達にぜひ伝えたいことがあります。


次回9月最終回にはフランス語で言わなきゃいけないだろうだから、一応日本語でまずは覚え書きしておこうと思います。


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10人いれば10人のコンセプトがある。

コンセプトを広げ色んなパレットを持つことは大事、それを今あなたたちは仲間とシェアしつつ勉強している。


でもそれを「どのように」実現するか、本当はそこが一番大事だってことを覚えておいて欲しい。


「コンセプト」に関する流行は時代によって変わってくる。しかし時代が変わっても変わらないもの、それはどのようなコンセプトであれ実現する上で一番大切な「クオリティー」。ではクオリティーとは何か。クオリティーとは「ディティール」に宿る。


最初漠然とした概念の音だったものが、音の限りない様々な次元でのディティールを発見し続け、楽器を通してそれを正確に実現できるようになることを、私たちは一生学んでいくのだと思う。


「ディテール」を出来る限り緻密に改善して生徒たちに音楽の「クオリティー」とは、それを実現する原動力となる、音楽に対する「exigence(希求)とは何かを伝えてほしい。


音楽教育では視点をそれぞれの生徒のレベルに合わせ目線を下げることが必須だ。でもそれは「クオリティーを下げる」ことと同意ではない。逆にそれは長い視点で各自の「クオリティーを上げる」ことに不可欠だからである。


それはアマチュア教育であろうとプロ教育であろうと、ハンディーキャップのある人への教育であろうと、合同授業であろうと個人レッスンであろうと、どのようなジャンルの音楽であろうと、インプロヴィゼーションであろうと書かれた音楽であろうと、区別せずあなたに出来る最大限の音楽のクオリティーに対するあくなき希求を見せられる先生になってほしい。


それには先生の「人間そのもの」を見せること。間違ったって、うろたえたって、全然構わないから、とにかく希求している自分そのものを偽りなく見せるのを怖がらないで欲しい。


「リスクを怖がらない」それこそが芸術への姿勢だと思うから。


それをどのように理解し、どこに活かすのかは生徒それぞれの自由で、それぞれのレベル、個々の感性で選ぶことである。生徒たちひとりひとりにぜひとも感受性の「自由」を与えて欲しいと思う。


モロッコのオアシス

2024-06-17 16:09:00 | Essay-コラム

やっと学年末のコンサートやら試験やら録音やらが一息着いた今日この頃。毎朝の練習時間に、大好きな曲「My song / Keith Jarrett」に挑戦中である。



キース・ジャレットの表現を改めて聴いていると、全てはディティールに宿っている。しかも、そのディティールにこもった彼のタッチ、フレージング、音、ハーモニゼーション、リズム、タイム感覚、即興のしかた、どれひとつをとっても全て非常に「個人的である」っていうこと。



何一つとして皆んながそうやっているから、と無意識に巻き込まれているというところがない。これが彼のいうところの「覚醒」なんだろうか。


最近のフルートの国際コンクールなんか聴いていると、今流行の最大限の音量を出そうとしたり、大振りな表現をしようとするあまり、細やかな音楽で一番旨味があるところを無視して吹いているんじゃないのかと。


細かなアーティキュレーションや、リズム感覚、微妙な音色や音程の変化とか。


大仰に人の目を惹こうとすることは、個性とは違う。


だから皆んなよく似ているし、こんなのどうやって評価したら良いんだろう、誰だって上手に吹いているし、誰が一位になろうともうどうでも良いじゃん、って思う。


こないだ、ジュネーヴ国際コンクールのチェアマンを務めたばかりの親愛なる同級生、シルヴィア・カレッドゥとご飯食べた時も、彼女も全く同じ意見で、最近は皆んな楽器のレベルこそ上がっているけれど、なんのパーソナリティーもない、と嘆いていた。




情報過剰なくせに一方向に流れやすい世の中で(多様性とか叫んでる割にいっつも同じ大統領候補しか出てこないじゃん笑。他にいないのかよ、って感じ)、それでもパーソナリティーという根っこに繋がるには、キース・ジャレット的に覚醒する勇気が必要なのではないか。


最近親しいモロッコ人家庭によくお茶に招待していただくのだが、現代の子供が何故混乱して集中力を失っているのか、という話題になった。


それはきっと、SNSを始めとするインターネットに入り浸り、もっとこうしなきゃ、こうすべきなのに自分はこうじゃないからダメだ、という他人との比較に時間を費やすためだろう。


その時間こそ、本来は自分と向き合いパーソナリティーを培うべき時なのに。


長年私は教えて来て、近年の子供の集中力とやる気の異常なまでの低下に愕然としている。この重い枷を乗り越えて、なんとかなんとか、子供たちに音楽の喜びを取り戻してもらうよう奮闘しているのだけれど。 



自己への深い探求のないところには本当の喜びなんてない。


「根が張っている」ということ、モロッコ人のお父さんによると、それこそがパーソナリティーの基本であり、自分と向き合うべきまだ根の張ってないない時期に、今は両親が忙しいからという理由でインターネットを解禁してしまうために、根無草になってしまうのではないかと。


さすが大自然の中で生きてきたモロッコお父さん。パリに奥さんと3人の子供達と住む今も、集合住宅の共同の庭を一人で切り盛りし、独自のミミズコンポストで野菜や花を育て、小さなモロッコオアシスを19区のど真ん中に実現しているだけある。


彼こそ真の「エコロジスト」だ。

知人に近日突然「緑の党」に入党してせっせと選挙活動をして、SNSで「署名せよ投票せよ」などと緑のバッジを付けた自撮り写真を送り付けうるさく言ってくる人がいるけど、こういう付け焼き刃は本物のエコロジストとは程遠いわ。



モロッコ家族の話に戻るけど、彼らは食べるものは全て手作り。遊びに行ったらテーブルから溢れかえるほど色んな種類の自家製アラブ菓子でもてなしてくれる。

これが、もうめちゃ美味しい。





パリのいわゆる「忙しい家庭」は複数の子供にそれぞれ複数の習い事をさせ、週末のごとに違う何処かに出掛けるお金があっても時間は全然ないのに、この家庭は貧しくても時間だけは目の前に幾らでも開けているみたいだ。


3人の子供たちは全員私の小学校アトリエでの生徒なのだけど、一曲一人に教えたら次の子も、次の子も、という具合に次の週には全員が覚えて来てくれる。

自然に、お姉ちゃんが妹に教え、妹が弟に教えるのだ。


どんなに練習して来いと言っても「でも私時間がないの」と突っぱねる、分単位で習い事をハシゴさせられる「忙しい家庭」の子供に対し、音楽的成長にとてつもない開きが出る。


どうやら親の時間の観念は子供に伝染するみたいである。


そして時間の観念って、もしかして一番大切な人生のディティールのひとつかも知れない。


Paint the futur! -未来を描け!

2024-06-12 20:53:00 | Essay-コラム

結果とは自分自身の思考が作り出した必然である。


なーんて最近考えるのは、もう歳を重ねてきて、失敗しても、もう成功する前には失敗するのが当たり前になってるし、何かを試している時に周りから「〇〇はやっぱり〇〇優先らしいぜ」とか情報入っても、そっかー、なるほど厳しいな、でもまあ例外の奇跡が時々来るだろうからまいっかーいつかは成功出来るだろ、がんばろ。というふうに考えられるほど成長したようである。若い頃だったら失敗する度「私ってなんてダメなんだろう」って絶対落ち込んでたと思うから。


そして、落ち込むことで時間を無駄にしてしまうことが、もう残り時間が短くなってくると、省略して前進するよりほか方法も無くなってしまうんである。


嗚呼心から落ち込む時間のあった若き日々よ。それはそれでとても美しい日々だったに違いない()


やっぱり、自分が掴みたいフィールドに自分がまだ立てないということは、やはりそれに見合った思考レベルがまだ足りてない、ということだからな、やはり自分が今いる場所が自分にまだ見合ってるんだよな、そこに自分が見合うようになれば、自然にそこに行くことになる、と今は確信できる。


人は自分が居るべき場所にしか居ないのだ。


今いる場所が過去の自分が作り出してきたものなら、今、未来を創れば良いじゃない!


面白いことに、自分がそう確信していると、周りの人もどんどんそう確信するエネルギーが強まってスパイラル状に伝染していくみたいなんである。


Paint the world という大好きなチックコリア・エレクトリックバンドのアルバムがあるんだけれど、未来の世界を自分でペイント出来るなんて考えると楽しいね、Paint the futur!


ということで、来学年度よりついに音楽院教授公務員資格に向けた6ヶ月間のテスト期間に入ることで、それをステップとして実は気持ちはPaint the futur、もはや他の視野に移っているのです。良い結果が出てここでいつかお知らせ出来ると素晴らしいのですが。


ところで、オーケストラプロジェクト、カリブのアンティーユ諸島の伝統フルーティスト、マックス・シラ、並びにドラマーのエッジ・タフィアルと組んだ「フランス-アンティーユ-日本」のアンコールと題した即興オーケストラ(もう大規模になってきたので即興アトリエは即興オーケストラに名前を変えたらしいです笑)の最終コンサート、終了しました。




私の愛するプロミュージシャンたちと生徒たち。楽器を始めて2年目という子からプロを目指す子たちまで、本当に色んなレベルを超えて、しかも「口伝伝承音楽」、「記譜音楽」という垣根を超えて、本当の音楽をモットーに(本当の音楽って、本当に自分が感じてる事を音にすることだと思う)、全てのエネルギーを一手にまとめたコンサート、凄まじい熱狂の渦にまかれたこのオーケストラプロジェクト、ひとまず終了です。(絶対次に繋げたいところ!)



ウチのあの気難しい相方アタが「ほんと凄かった、、、ちょっと体調悪かったのが、これ聴いて一気に元気になったぜ!どうやって色んなレベルをミックスしてあんなこと出来るんだ?ミラクルだぜ!」って言って舌を巻いたこと。


とにかく色んなレベル、色んな職業、色んな年齢。(今回なんと最大年齢差71歳!)全部混ぜてプロだけのコンサートより凄くなっちゃうのがスパイラル・スピリットなのです。



そしてコンサートの次の週の授業に、練習は足りなくヘタクソだわ、集中力途切れまくるわで、年がら年中怒られまくっていたチェロの生徒が、授業の30分も前に現れて、「あのコンサート、すっっっごい良かった!!」って清々しい笑顔を見せたこと!その子のその日の即興は、その子なりに、例えメチャクチャやっていたとしても、自信やイマジネーションに音が裏付けられ、一段階次元が上がってました。そう、それまでもごもごしていた音がちゃんとその子の音としてクリアーに聴こえるようになるんですね。音ってやっぱりエネルギーだわ。


こういうはっとする瞬間って、本当にスパイラルを達成した瞬間、と思います。


音楽って、深い体験に培われる本当の自信からしか生まれないのですね。


それは先生に言われた通り弾くとか、世間のニーズ通りに綺麗に弾く、ということではないんです。


先日は恒例のパリ国立高等音楽院の修了試験のプリを聴いたけど、如何に表面的に上手にフルートを操っていようと、エネルギーのない無味乾燥な音には私は興味を持てなかった。


そんな音は時が過ぎれば記憶から忘れ去られ、そのヘタなチェロの女の子の覚醒したその日その時の音の方が、ずっと心に残っていくことでしょう。


今日見つけたソニー・ロリンズの言葉


「私はインプロヴィゼーションをする時、自分の深部に入っていき、そこで音楽自体に勝手に演奏させます。自分が考えて演奏しているのではなく。自分は曲や、演奏に必要なマテリアルを練習しますが、ステージで演奏する時はそれを忘れ、自分の深部にある覚醒意識のみで演奏します。それは二度と同じ演奏になることがない。それこそがインプロヴィゼーションの美しさです。」






欠点こそ人生のスパイスだ!vol l

2024-05-19 21:02:00 | Essay-コラム
以下2月号「香川フルート友の会会報連載エッセイ」より、許可を得て転載致します。 (注・関係ない画像はパリ19区でいつもお買い物するトルコ食料品店のネコちゃん。アーモンドの上で寝てる!)

パリに住んでいるいる私は、基本フランス語で生活しているわけだが、ブログに日本語で文章を書いたり、日本語の本を読んだりすることが何よりの気分転換になっている。


そのブログを読んでくださっていた佐柄晴代先生が、「香川フルート友の会会報にぜひエッセイを書いて欲しい」というので、喜んで今回より引き受けさせて頂いた。


「初回は、自己紹介的なものを書いてくださいね〜。」と言われたのだけれど、何から書いて良いのやら分からない。


実は去年のこの時期に、パリ市のフルート科教授の国家公務員資格3席のためのコンクールがあって、面接の10分間で自己紹介を首尾よく澱みなく言い切る、というのを散々練習した。(結果、3席目にギリギリ滑り込むことが出来たのでした。セーフ!)それは自分がやってきたことがいかにこの資格に相応しいか、ということを審査員にアピールする、という営業用スピーチなのあって、自由なエッセイ的文脈では、それとは全然違った真実が見えてくるのだろう。


なーんて漠然と他人事みたいに思っていたら、「職業としての小説家」という、大好きな村上春樹さんの本に出会った。


冒頭、「小説」について語ります、というと最初から間口が広くなりすぎてしまうので、まずとりあえず小説家というものについて具体的に語りますとある。


ふむふむ、さすが村上さん!オッケー、「音楽」について語ります、では間口が広すぎるから、「フルート奏者」という職業に、一体自分がどのような経緯を経てなったのか?っていうことを、具体的に、かつ率直にフィクションなく書いてみようと思う。


私がフルートに出会ったのは、7歳の時。3歳の時からピアノと作曲を習っていた多度津町の内藤先生のところで、私のレッスンのすぐ後に、塩江町という遠方から、いつもフルートを習いにくるお姉さんがいらっしゃった。


夕刻に決まって現れる綺麗なお姉さんの奏でる美しい音に心を鷲掴みにされた私は、「あの楽器がしたい!」と親に頼み込んだのだった。


憧れの高松第一高校音楽科に入学が決まった時、フルートを専科にすることにした。理由は今思い起こしても、大変に鮮明であった。


1、「ピアノでコンクールに出ても、妹たちより評価されなくて悲しかったので、もう競争はしたくない」


2、「一人で籠ってピアノを練習するより、ブラバンなどでみんなと一緒に演奏する方が断然楽しい」


2、は私の性格的な事情だけれど、1、は明らかに私が田舎者であることに起因していた。ピアノは競合者が多いけれどフルートは少ない、そんな平和なイメージは多度津だけの話であって、ちょっと都会に出るとそこには全ての楽器に熾烈なコンクールがあり、あちゃー、ブラバンでも数の少ないオーボエかパーカッションにしとけばよかった、と思ったが、後の祭り。


要するに、私は三度の飯より音楽が大好きなのに、それについて回る「競争」という側面が極端に苦手なタイプで、そこが私の最大の欠点なのである。陸上競技だと、スタートラインに立った時点で、精神的にもはや負けてるタイプ。


こんな私がパリ国立高等音楽院という、世界でも指折りの超難関校のフルート科を何故受験する羽目になったのかというと、高松一校の自由な校風が忘れられなくて、東京の大学での厳しい上下関係に馴染めなかった、そんなある日、大学のロビーでフランス国旗の色のパンフレットを見つける。私の中でフランスのワインの葡萄畑の匂いが一気に広がる。いや、葡萄畑を夢見ていた時に見つけたフランス国旗だったか。それはパリ音楽院教授であるピエール・イヴ・アルトーの広島での講習会の案内だった。とにかく私はそれを見つけたのだ。そのアルトーに、彼のクラスを受けるよう勧められたのであった。


1995年。私にとってパリへの渡航は「自由」への一筋の光を意味したが、日本から来た一学生にとって、こんなにも馴染むのが難しい地も、また珍しい。(と今でも思っている。)


重圧と混乱の中、一次試験通過者のリストに自分の名前が載っていることを確認してほっとした矢先、当時パリ音楽院でアルトーと共に教授であったアラン・マリオンが丁度通りかかって、私の顔を見るなり叫んだ。


「お前!お前だ〜!お前はリストには残っているが、一番下なんだぞ!おい、ニ次試験では、絶対に動くな!分かったか?!ちょっとでも動いたらお終いだ!動くんじゃ無いぞ!!」


志望教授でもないし、知り合いでもないマリオンが、いきなりすごい剣幕で何故私にアドバイスしたのか、謎である。しかし崖っぷちに追い込まれた私は、ピストルでマリオンに狙われた小獣のように、とにかく動かず吹き切った。するとどうだろう?最終合格者リストの中の上あたりに、自分の名前があるではないか!


多分「動かない」ことに集中しているうちに、それが「競争」である、という概念を忘れてしまったのだろう。競争のないところにこそ、音楽が生まれる。それからも、マリオンは私の演奏が本当に良いと思った時は、自分の生徒たちと全く区別せず、抱きしめて褒めてくれた。そんな彼も亡くなってしまったが、ほんとうの「利他」とは、自分の利益から離れた、もっと深い直感から発するものなんだと、感謝の気持ちと共に、自分も彼のように直感で生きていくべきだと、今改めて思う。


さて、20歳。最悪の受験を乗り越えたはいい けれど、これから過酷な運命が、私を待ち伏せていたのでした。このパリの地で、果たして「自由」は手に入れられるのか?「欠点こそ人生のスパイスであるll」、次回に続く!


次回最新号のエッセイはもうすぐ「香川フルート友の会会報」に掲載予定!


これからブログ転載するか不明ですので、続きが読みたい方友の会会員にご登録くださいね😆



この度、愛器のフルートと頭部管をついに売ります!

2024-04-12 11:42:00 | Essay-コラム

これこれしかじかの理由によりこの度、愛器のフルートと頭部管をついに売ります。


今はもう廃業してしまったため、現在では大変貴重なハンドメイドの総銀マテキ、偉大な職人、故渡辺社長さんが自ら製作された通常より密度の高い銀の板を丹念に巻いて作られた名器で、独特の非常に親密で温かい音色、また最高に繊細な手に馴染むメカニスムです。これが長年このフルートを手放せなかった理由です。


マテキフルートは30年前の購入、8年前にオーバーホール済みで、大切に大切に扱って常に調整してきたので、30年??と信じられない!と言われるほどの最高の状態です。


-マテキ 総銀Ag943 ソルダード 巻き管 ハーフオフセット Eメカ付き H足部管 60万円





-フォリジ18K頭部管90万円(オバール、人魚の彫刻入り





(双方少し値下げしました!私的な販売なので、一般のお店販売の中古標準価格よりだいぶ安くしてあります。交渉も受け付けます)


これはなんとパリ・オペラ座主席奏者のカトリーヌ・カンタン使用のあと、私が買わせて頂いたもの。表現力が数あるフォリジの中でもずば抜けていて、8年前に一目惚れしたものです。購入当時円で換算して130万円ぐらいでした。


(フォリジは今のところこのマテキに合うように擦り合わせてあるので、合わせて購入の方には割引致します。)


この組み合わせはフォリジの豊潤さをマテキの繊細さに足した響きとなりますが、どのようなフルートに付けてもフォリジ独特のヨーロピアンな色彩の豊かさが上手く印加されます。また18Kという素材は、柔らかさの中に強い芯があり、遠鳴りします。


日本の方で興味のある方、5月に日本に行く、とっても親切なパリの私の専属フルート職人さんが5月20日から10日間東京にお持ちします。


ぜひその時にお試しください。


興味ある方は私のメールまでお気軽にお問い合わせください。予約受け付けは今より5月末までです。


wawa8awaw@gmail.com



宜しくお願い致します。