クリスティーヌがロベール・ラ・シェネイ侯爵と結婚して3年になる。大西洋横断飛行を成し遂げた英雄アンドレがどれほど彼女に愛を打ち明けても、彼女は夫のロベールだけしか眼中になかった。しかしクリスティーヌは夫に結婚前から交際している愛人・ジュヌヴィエーヴがいることを知らなかった。ロベールのジュヌヴィエーヴへの愛はすでに冷めていたが、彼女は別れに応じようとはしない。
ロベールの領地で狩猟の集いが催された。ジュヌヴィエーヴはようやくロベールとの別れを決意するが、3年前に戻って最後のキスをしたいと言う。望遠鏡で狩りの獲物を探していたクリスティーヌは、偶然ジュヌヴィエーヴとロベールの抱擁を見てしまう。ここからすべての歯車が狂ってしまった。その夜、クリスティーヌはジュヌヴィエーヴに「二人の恋の邪魔はしたくない。夫との恋愛を認める」と言う。夫の恋愛を妨害することは貴族の妻として、上流階級の人間として、野暮で稚拙で社交界のルールを守らない行為だという思いがあるのであろう。それがやがて大きな混乱を招くことになる・・・
ジャン・ルノワールの『ゲームの規則』(39)は第二次世界大戦勃発の直前に製作されたが、興行的に失敗し、映画の内容が不道徳かつ反フランス的であるという理由で公開から1ヵ月で上映禁止になった。戦後、アンドレ・バザンが主宰するカイエ・デュ・シネマが本作を高く評価して、ようやく1965年に再び一般公開されることになった。ルノワールの代表作であるばかりではなく、映画史に残る名作と言われているが、この作品を正当に評価することは意外とむずかしい。なぜなら一見すると色恋沙汰のドタバタ喜劇にしか見えないからだ。ルノワールがこの作品に込めた意味を探ってみたい。
ロベールの別荘地で盛大なパーティが始まると、自暴自棄になったクリスティーヌは人が変わったように男性たちと恋愛遊戯をするようになる。彼女を慕うアンドレたちの間で殴り合いの喧嘩が始まった。森番のシュマシェールは妻が使用人と浮気しているのを見て激怒し、浮気相手に向けて銃を発砲。銃声を聞いたジュヌヴィエーヴは半狂乱になり、パーティは大混乱となって収拾がつかなくなる。
クリスティーヌは自分を強く愛してくれるアンドレに、このまま自分を連れて逃げてくれと懇願する。その時、アンドレは「(社交界には)規則があるので、夫であるロベールの承諾を取りたい」と言う。ロベールは妻とアンドレの逢瀬を見て最初は感情的になるが、思い返して二人が一緒になることを認める。「妻を愛しているから、妻が幸せであるなら、アンドレと一緒になることを認める」と。
クリスティーヌとロベールは互いに相手の自由恋愛を認めているが、実は本当に好きなのはお互い同士なのだ。相思相愛であるにもかかわらず、相思相愛であるがゆえに、夫婦別れをしてしまうという皮肉。表題の「ゲームの規則」が何を意味するのか、この映画の中では明確に述べられていないが、登場人物たちはみんな「暗黙のルール」に振り回されている感がある。なんとも人間の本性や自然な感情とは相容れない規則だ。
それに対して森番は妻の浮気相手を追いかけ回し、挙句の果ては間違えてアンドレを射殺してしまう。粗野で自分の気持ちに正直な庶民が、社交界の欺瞞と虚栄をぶち壊してしまったかのようだ。ここに大いなるアイロニーと諷刺がある。結局、ロベールとクリスティーヌは元の鞘に収まるが、ハッピーエンドなのかバッドエンドなのか、どうにも判断がつきかねるシニカルな悲喜劇だ。
この作品は撮影技術の面でも際立った特徴がある。「市民ケーン」(41)より2年も前にパンフォーカスを使って撮影されており、前景と後景の間で人物や動物を動かし、右往左往のドタバタ喜劇や狩猟のシーンを縦の構図で巧みに切り取っている。ジャン・ルノワールはセットで撮影することが当たり前であった時代に、屋外ロケを多用し、美しい川や森、パリの街並みを瑞々しい映像の中におさめた。汽車にカメラを据えて臨場感溢れる映像を撮ったり、海に入水するシーンを詩情豊かに撮影したり、映像の快感や面白さ、美しさを追い求めた監督である。
アルフレッド・ヒッチコックやハワード・ホークスが娯楽映画に徹することにより映画表現を進化させたように、ルノワールの試みは映画表現の可能性を拡大した。彼らのユニークな作家性と探求心はやがてヌーベルヴァーグに受け継がれていくことになる。(KOICHI)
原題:La regle du jeu
監督:ジャン・ルノワール
脚本:ジャン・ルノワール カール・コッホ
撮影:ジャン・バシュレ ジャン・ポール・アルファン
出演:ノラ・グレゴール ポーレット・デュボスト マルセル・ダリオ ジャン・ルノワール ミラ・パレリ ジュリアン・カレット
ロベールの領地で狩猟の集いが催された。ジュヌヴィエーヴはようやくロベールとの別れを決意するが、3年前に戻って最後のキスをしたいと言う。望遠鏡で狩りの獲物を探していたクリスティーヌは、偶然ジュヌヴィエーヴとロベールの抱擁を見てしまう。ここからすべての歯車が狂ってしまった。その夜、クリスティーヌはジュヌヴィエーヴに「二人の恋の邪魔はしたくない。夫との恋愛を認める」と言う。夫の恋愛を妨害することは貴族の妻として、上流階級の人間として、野暮で稚拙で社交界のルールを守らない行為だという思いがあるのであろう。それがやがて大きな混乱を招くことになる・・・
ジャン・ルノワールの『ゲームの規則』(39)は第二次世界大戦勃発の直前に製作されたが、興行的に失敗し、映画の内容が不道徳かつ反フランス的であるという理由で公開から1ヵ月で上映禁止になった。戦後、アンドレ・バザンが主宰するカイエ・デュ・シネマが本作を高く評価して、ようやく1965年に再び一般公開されることになった。ルノワールの代表作であるばかりではなく、映画史に残る名作と言われているが、この作品を正当に評価することは意外とむずかしい。なぜなら一見すると色恋沙汰のドタバタ喜劇にしか見えないからだ。ルノワールがこの作品に込めた意味を探ってみたい。
ロベールの別荘地で盛大なパーティが始まると、自暴自棄になったクリスティーヌは人が変わったように男性たちと恋愛遊戯をするようになる。彼女を慕うアンドレたちの間で殴り合いの喧嘩が始まった。森番のシュマシェールは妻が使用人と浮気しているのを見て激怒し、浮気相手に向けて銃を発砲。銃声を聞いたジュヌヴィエーヴは半狂乱になり、パーティは大混乱となって収拾がつかなくなる。
クリスティーヌは自分を強く愛してくれるアンドレに、このまま自分を連れて逃げてくれと懇願する。その時、アンドレは「(社交界には)規則があるので、夫であるロベールの承諾を取りたい」と言う。ロベールは妻とアンドレの逢瀬を見て最初は感情的になるが、思い返して二人が一緒になることを認める。「妻を愛しているから、妻が幸せであるなら、アンドレと一緒になることを認める」と。
クリスティーヌとロベールは互いに相手の自由恋愛を認めているが、実は本当に好きなのはお互い同士なのだ。相思相愛であるにもかかわらず、相思相愛であるがゆえに、夫婦別れをしてしまうという皮肉。表題の「ゲームの規則」が何を意味するのか、この映画の中では明確に述べられていないが、登場人物たちはみんな「暗黙のルール」に振り回されている感がある。なんとも人間の本性や自然な感情とは相容れない規則だ。
それに対して森番は妻の浮気相手を追いかけ回し、挙句の果ては間違えてアンドレを射殺してしまう。粗野で自分の気持ちに正直な庶民が、社交界の欺瞞と虚栄をぶち壊してしまったかのようだ。ここに大いなるアイロニーと諷刺がある。結局、ロベールとクリスティーヌは元の鞘に収まるが、ハッピーエンドなのかバッドエンドなのか、どうにも判断がつきかねるシニカルな悲喜劇だ。
この作品は撮影技術の面でも際立った特徴がある。「市民ケーン」(41)より2年も前にパンフォーカスを使って撮影されており、前景と後景の間で人物や動物を動かし、右往左往のドタバタ喜劇や狩猟のシーンを縦の構図で巧みに切り取っている。ジャン・ルノワールはセットで撮影することが当たり前であった時代に、屋外ロケを多用し、美しい川や森、パリの街並みを瑞々しい映像の中におさめた。汽車にカメラを据えて臨場感溢れる映像を撮ったり、海に入水するシーンを詩情豊かに撮影したり、映像の快感や面白さ、美しさを追い求めた監督である。
アルフレッド・ヒッチコックやハワード・ホークスが娯楽映画に徹することにより映画表現を進化させたように、ルノワールの試みは映画表現の可能性を拡大した。彼らのユニークな作家性と探求心はやがてヌーベルヴァーグに受け継がれていくことになる。(KOICHI)
原題:La regle du jeu
監督:ジャン・ルノワール
脚本:ジャン・ルノワール カール・コッホ
撮影:ジャン・バシュレ ジャン・ポール・アルファン
出演:ノラ・グレゴール ポーレット・デュボスト マルセル・ダリオ ジャン・ルノワール ミラ・パレリ ジュリアン・カレット