いつの間にか、もう10月。
長く思えた猛暑の夏はとっくに過ぎ去り、季節は既に秋。
空は高く澄み、樹々は落葉・紅葉がすすみ、風は涼しさを増している。
春秋は、本当に身体に優しい季節。
春暖 秋涼・・・それを感じられるだけででも気持ちが和む。
特に、4月・10月は、“暑からず 寒からず”で一年の中でもっとも過ごし易い時期ではないだろうか。
今は、その10月。
この短い秋涼を心身に沁み込ませて、新たな鋭気を養いたいところである。
とはいえ、恒例の?冬欝の季節はもうすぐそこ。
昨季はチビ犬の死がそれを吹き飛ばしたが、一昨季の秋~冬はかなり苦しい思いをした。
そんなのは懲り懲りなのだが、残念なことに、今現在、嫌な予兆がある。
何となく、心身が重くなってきている。
そして、思考がマイナスへの偏りをみせてきているのだ。
この時季、肉体的に現場作業が楽になる分、重度の肉体疲労は起こりにくい。
しかし、時間に余裕ができるせいか、余計な思い煩いが頭を占めてくる。
かつて、「心の闇」と称していたものだが、これが厄介。
死人や死体現場に遭遇してイキイキ(?)するのも大問題だけど、私にとってはこっちのほうも大問題。
せっかく、自分を労うことができる季節がやってきたというのに、精神がダウンしてしまうなんて、まったく皮肉なものだ。
悪化してくると食欲も落ち、好きな酒も飲みたくなくなる。
大したことはやっていないのに、倦怠感に襲われ身体が重くなる。
何も起こっていないのに、虚無感に襲われ精神が重くなる。
ここ一年近く標準体重の維持に努め、一日でも多くの休肝日を確保することに努めている私にとって食欲・酒欲の減退は、肉体にはいいことのように思えるけど、健康にいいわけはない。
ただ、私の場合は、客観的にこうしてブログに書けているわけで、何とか“一般的な人(仕事以外)”を維持することができている。
ということは、まだ軽症のはず。
重症になると、言動や行動がおかしくなり(既におかしい?)社会に適合できなくなるだろうし、深刻な場合、生きることから逃避しようとするだろうから。
とにもかくにも、若い頃に苦い経験を持つ私は、そうなる前に打てる策は打つつもり。
昨年考えついた対策が、精神疲労と肉体疲労のバランスをとること。
螺旋階段を下ってしまう頭は放っておいて、身体には螺旋階段を上らせる方法。
・・・難しく言っているけど、平たく言えば「身体を動かす」ということ。
仕事はもちろん、それ以外でも、とにかく身体を動かすことに努めたい。
昨季は、山登りやウォーキングで随分とリフレッシュできたから、今季もそれをやりたい。
ウォーキングなんてその辺を歩くわけだからお金もかからないし、山登りも並の旅行や娯楽施設に行くことに比べれば格段に安くすむ。
懐にも優しいので、倹約好き(“ケチ”とも言う)の私にはうってつけ。
夏場に比べれば休みもとりやすいので、ここは積極的に汗を流しに出かけたいところだ。
そんな秋には、違う視点もある。
寿命を80年とし、20年区切りで四季を重ねてみると、40代の私の季節は“秋”。
ちょうど、今と重なる。
どことなく寂しいような気もするが、何とも癒されるような時季でもある。
とかく、世では、若い“春”“夏”ばかりがもて囃(はや)されがちだけど、そうではない。
四季に上下はなく、その価値に差はない。
折々に、その季節にしかない味わい・情緒がある。
私の場合、学ぶべき“春”は遊んでばかり、成すべき“夏”は考えてばかりだったような気がして後悔しきりだけど、それでも、こうして“秋”を迎えることができている。
ただ、“人生の四季”はすべての人に与えられているわけではない。
“春”で亡くなる人もいる。
“夏”で亡くなる人もいる。
“秋”まで生きる人がいる。
“冬”まで生きられる人がいる。
・・・そう、皆が“冬”まで生きられるわけではない。
これまで、私の身近なところにも、色々な“季節”の終わりがあった。
10代で事故死した小学校の同級生。
20代で事故死した中学校の先輩。
30代で病死した友人。
40代で事故死した従兄弟。
50代で急死した元同僚。
承知のとおり、人生の終焉は老若男女・賢者愚者を問わず訪れるのだ。
“30代で病死した友人”ついては、2011年4月1日「一粒の麦」に記したとおり。
彼の勤務先があったビルは、私がよく使う高速道路脇の高層ビル群にある。
高層であると同時に高速道路のすぐ脇に建っているため、イヤでも(“イヤ”ということはないが)視界に入ってくる。
すると、私の視線は、おのずとそのビルに向く。
そして、晩年の出来事を昨日のことのように甦らせる。
病気が発覚してから、たった半年で逝ってしまった彼。
一時は復調したかのように見えたが、それは一時的なもの。
一流企業に勤務し、妻と幼い三人の子供がいて、まさに「これから」というときで、“秋”に夢も持っていた。
しかし、その願いはかなわず・・・
亡くなったのも晩夏なら、年齢も“晩夏”だった。
彼が亡くなってから7年余。
「もうそんなに時間が経ったのか・・・」
と、しみじみ思う。
そして、生きたくて、生きたくて仕方がなかった彼を思い出す。
死にたくなくて、死にたくなくて仕方がなかった彼を思い出す。
それでも、死から逃れることができなかった彼を思い出す。
“秋”を迎えることができなかった彼の苦悩を思い出す。
彼を思い出すのは、彼のためでも彼の家族のためでもない。
結局、自分のため。だから、思い出す。
自分本位の感傷であることはわかっている。
それでも、思い出す。自分のため。
そして、彼の死が私にもたらした実を反芻する。
欝々と始まる月曜の朝。
それでも、多くの人は、行きたくない学校へ行き やりたくない勉強をし、行きたくない会社へ行き やりたくない仕事をする。
際限なく涌いてくる憂鬱と戦いながら、目の前の役割をこなしていく。
私は曜日の関係ない仕事をしているけど、過酷な労働が予定されている日の朝は、億劫になることもしばしば。
とりわけ、これからの時季は、些細なことでも憂鬱に陥りやすい。
それでも・・・それでも、限りある人生にとって今日はかけがえのない一日。
生きていることだけで輝く一日。
「二度とない人生、時間をつまらなく浪費するのはもったいない」
「限りある人生、明るく楽しく過ごさなきゃいともったいない」
下手にそういう理屈を身につけてしまっている私は、それが実行できないがために、ただ悩むだけではなく、悩んでいることにも悩んで沈んでしまう。
ネガティブ思考が自分のためにはならないことは、理屈としてはわかっていても、どうしても、自分のためにならないことを考え、仕方がないことを思い煩ってしまう。
「心」というものは面白いもので、自分の思い通りには動かない。
落ち込みたくなくても落ち込み、沈みたくなくても沈んでしまう。
「頭」もまた然り。思い通りには働かない。
考えたくないことを考え、望まない答を返してくる。
心も頭も自分のモノであるはずなのに、なかなか自分の言うことをきいてくれない。
ならば、一歩譲るしかない。
苦楽、悲喜、泣笑は表裏一体。
悩んだって、苦しんだって、悲しんだって、泣いたって仕方がない。
良薬が口に苦いように、それらは人生に必要なものなのだろうから。
「今日一日、生きられているだけでラッキー!」
と、バカになって悩めばいい、苦しめばいい、悲しめばいい、泣けばいい。
悩んでいることに悩まないで、苦しんでいることに苦しまないで、悲しんでいることに悲しまないで、泣いていることに泣かないで。
私の“秋”はどこまで深まるのか、私に“冬”はくるのか・・・私は、自分の寿命を知らない。
漠然と、“限り”があることを知っているだけ。
そして、それは自分が思っているほど先のことではないだろうということを想像しているだけ。
自分の死期を知りたいと思うことはあるけど、どうしたって知ることはできない。
ただ、せっかくの“秋”。
この“秋”に、私は何をすべきなのか、何ができるのか・・・
ただ働き、ただ生活し、ただ老いていくだけなのか・・・
収穫の秋、行楽の秋。
燃える紅葉が現れるように、私も自分の“秋”を燃えるように生きてみたい。
・・・そう願いながら、秋と残された時間に思いを馳せてい
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長く思えた猛暑の夏はとっくに過ぎ去り、季節は既に秋。
空は高く澄み、樹々は落葉・紅葉がすすみ、風は涼しさを増している。
春秋は、本当に身体に優しい季節。
春暖 秋涼・・・それを感じられるだけででも気持ちが和む。
特に、4月・10月は、“暑からず 寒からず”で一年の中でもっとも過ごし易い時期ではないだろうか。
今は、その10月。
この短い秋涼を心身に沁み込ませて、新たな鋭気を養いたいところである。
とはいえ、恒例の?冬欝の季節はもうすぐそこ。
昨季はチビ犬の死がそれを吹き飛ばしたが、一昨季の秋~冬はかなり苦しい思いをした。
そんなのは懲り懲りなのだが、残念なことに、今現在、嫌な予兆がある。
何となく、心身が重くなってきている。
そして、思考がマイナスへの偏りをみせてきているのだ。
この時季、肉体的に現場作業が楽になる分、重度の肉体疲労は起こりにくい。
しかし、時間に余裕ができるせいか、余計な思い煩いが頭を占めてくる。
かつて、「心の闇」と称していたものだが、これが厄介。
死人や死体現場に遭遇してイキイキ(?)するのも大問題だけど、私にとってはこっちのほうも大問題。
せっかく、自分を労うことができる季節がやってきたというのに、精神がダウンしてしまうなんて、まったく皮肉なものだ。
悪化してくると食欲も落ち、好きな酒も飲みたくなくなる。
大したことはやっていないのに、倦怠感に襲われ身体が重くなる。
何も起こっていないのに、虚無感に襲われ精神が重くなる。
ここ一年近く標準体重の維持に努め、一日でも多くの休肝日を確保することに努めている私にとって食欲・酒欲の減退は、肉体にはいいことのように思えるけど、健康にいいわけはない。
ただ、私の場合は、客観的にこうしてブログに書けているわけで、何とか“一般的な人(仕事以外)”を維持することができている。
ということは、まだ軽症のはず。
重症になると、言動や行動がおかしくなり(既におかしい?)社会に適合できなくなるだろうし、深刻な場合、生きることから逃避しようとするだろうから。
とにもかくにも、若い頃に苦い経験を持つ私は、そうなる前に打てる策は打つつもり。
昨年考えついた対策が、精神疲労と肉体疲労のバランスをとること。
螺旋階段を下ってしまう頭は放っておいて、身体には螺旋階段を上らせる方法。
・・・難しく言っているけど、平たく言えば「身体を動かす」ということ。
仕事はもちろん、それ以外でも、とにかく身体を動かすことに努めたい。
昨季は、山登りやウォーキングで随分とリフレッシュできたから、今季もそれをやりたい。
ウォーキングなんてその辺を歩くわけだからお金もかからないし、山登りも並の旅行や娯楽施設に行くことに比べれば格段に安くすむ。
懐にも優しいので、倹約好き(“ケチ”とも言う)の私にはうってつけ。
夏場に比べれば休みもとりやすいので、ここは積極的に汗を流しに出かけたいところだ。
そんな秋には、違う視点もある。
寿命を80年とし、20年区切りで四季を重ねてみると、40代の私の季節は“秋”。
ちょうど、今と重なる。
どことなく寂しいような気もするが、何とも癒されるような時季でもある。
とかく、世では、若い“春”“夏”ばかりがもて囃(はや)されがちだけど、そうではない。
四季に上下はなく、その価値に差はない。
折々に、その季節にしかない味わい・情緒がある。
私の場合、学ぶべき“春”は遊んでばかり、成すべき“夏”は考えてばかりだったような気がして後悔しきりだけど、それでも、こうして“秋”を迎えることができている。
ただ、“人生の四季”はすべての人に与えられているわけではない。
“春”で亡くなる人もいる。
“夏”で亡くなる人もいる。
“秋”まで生きる人がいる。
“冬”まで生きられる人がいる。
・・・そう、皆が“冬”まで生きられるわけではない。
これまで、私の身近なところにも、色々な“季節”の終わりがあった。
10代で事故死した小学校の同級生。
20代で事故死した中学校の先輩。
30代で病死した友人。
40代で事故死した従兄弟。
50代で急死した元同僚。
承知のとおり、人生の終焉は老若男女・賢者愚者を問わず訪れるのだ。
“30代で病死した友人”ついては、2011年4月1日「一粒の麦」に記したとおり。
彼の勤務先があったビルは、私がよく使う高速道路脇の高層ビル群にある。
高層であると同時に高速道路のすぐ脇に建っているため、イヤでも(“イヤ”ということはないが)視界に入ってくる。
すると、私の視線は、おのずとそのビルに向く。
そして、晩年の出来事を昨日のことのように甦らせる。
病気が発覚してから、たった半年で逝ってしまった彼。
一時は復調したかのように見えたが、それは一時的なもの。
一流企業に勤務し、妻と幼い三人の子供がいて、まさに「これから」というときで、“秋”に夢も持っていた。
しかし、その願いはかなわず・・・
亡くなったのも晩夏なら、年齢も“晩夏”だった。
彼が亡くなってから7年余。
「もうそんなに時間が経ったのか・・・」
と、しみじみ思う。
そして、生きたくて、生きたくて仕方がなかった彼を思い出す。
死にたくなくて、死にたくなくて仕方がなかった彼を思い出す。
それでも、死から逃れることができなかった彼を思い出す。
“秋”を迎えることができなかった彼の苦悩を思い出す。
彼を思い出すのは、彼のためでも彼の家族のためでもない。
結局、自分のため。だから、思い出す。
自分本位の感傷であることはわかっている。
それでも、思い出す。自分のため。
そして、彼の死が私にもたらした実を反芻する。
欝々と始まる月曜の朝。
それでも、多くの人は、行きたくない学校へ行き やりたくない勉強をし、行きたくない会社へ行き やりたくない仕事をする。
際限なく涌いてくる憂鬱と戦いながら、目の前の役割をこなしていく。
私は曜日の関係ない仕事をしているけど、過酷な労働が予定されている日の朝は、億劫になることもしばしば。
とりわけ、これからの時季は、些細なことでも憂鬱に陥りやすい。
それでも・・・それでも、限りある人生にとって今日はかけがえのない一日。
生きていることだけで輝く一日。
「二度とない人生、時間をつまらなく浪費するのはもったいない」
「限りある人生、明るく楽しく過ごさなきゃいともったいない」
下手にそういう理屈を身につけてしまっている私は、それが実行できないがために、ただ悩むだけではなく、悩んでいることにも悩んで沈んでしまう。
ネガティブ思考が自分のためにはならないことは、理屈としてはわかっていても、どうしても、自分のためにならないことを考え、仕方がないことを思い煩ってしまう。
「心」というものは面白いもので、自分の思い通りには動かない。
落ち込みたくなくても落ち込み、沈みたくなくても沈んでしまう。
「頭」もまた然り。思い通りには働かない。
考えたくないことを考え、望まない答を返してくる。
心も頭も自分のモノであるはずなのに、なかなか自分の言うことをきいてくれない。
ならば、一歩譲るしかない。
苦楽、悲喜、泣笑は表裏一体。
悩んだって、苦しんだって、悲しんだって、泣いたって仕方がない。
良薬が口に苦いように、それらは人生に必要なものなのだろうから。
「今日一日、生きられているだけでラッキー!」
と、バカになって悩めばいい、苦しめばいい、悲しめばいい、泣けばいい。
悩んでいることに悩まないで、苦しんでいることに苦しまないで、悲しんでいることに悲しまないで、泣いていることに泣かないで。
私の“秋”はどこまで深まるのか、私に“冬”はくるのか・・・私は、自分の寿命を知らない。
漠然と、“限り”があることを知っているだけ。
そして、それは自分が思っているほど先のことではないだろうということを想像しているだけ。
自分の死期を知りたいと思うことはあるけど、どうしたって知ることはできない。
ただ、せっかくの“秋”。
この“秋”に、私は何をすべきなのか、何ができるのか・・・
ただ働き、ただ生活し、ただ老いていくだけなのか・・・
収穫の秋、行楽の秋。
燃える紅葉が現れるように、私も自分の“秋”を燃えるように生きてみたい。
・・・そう願いながら、秋と残された時間に思いを馳せてい
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