今回は、前回の関連。
前回は遺族に焦点をあてたものだったが、今回は階下の住人に焦点をあてる。
アパート二階の故人宅が極めて悲惨な状態であったことは前回記した通り。
悪臭は下の部屋にまで漏洩し、ウジもまた発生していた。
普通なら、そんな状態の部屋にいられるはずはない。
多くのケースでは大騒ぎしたうえ即座に部屋を出、ホテル・親戚宅・友人知人宅などに避難する。
しかし、この部屋の住人は違っていた。
住人は高齢の女性で、故人同様、もう長くこのアパートに暮していた。
女性は、悪臭やウジが発生して難儀していることを大家に伝えただけで、無用に騒ぐこともせず、どこかに避難するようなこともなかった。
そうして、遺体発見から特掃に着手するまで数日もの間が空いていたにもかかわらず、自室にとどまり続けていた。
大家は、この地域に何軒もアパートを持つちょっとした資産家。
そうはいっても、偉そうな態度をとることもなく、目下の私にも礼儀正しく接してくれた。
そんな大家は、下階の住人に、
「別のアパートに空室があるから、一時的にでもそこへ越したら?」
「かかる費用は私が負担するから」
と、一時避難をすすめた。
それでも住人は、
「しばらく我慢すれば悪臭もウジ・ハエもいなくなるわけだし・・・」
「老いて弱った身体で住処を変えるのは大変だから・・・」
と、その厚意を受けず、自宅にとどまることを望んだ。
故人宅の一次処理を終えた私は、大家の要請により下の住人宅を訪問。
私の身体はかなりクサくなっており、そのまま訪問するのは少々気が引けるところがあったが、再び故人宅に入らなければならなくなる可能性も大きかったため、作業着を着替えないまま部屋の呼鈴を鳴らした。
すると、すぐに
「はい、はい・・・ちょっと待って下さいね・・・脚が悪いもんですから・・・」
と、開けっぱなしなっていた玄関脇の窓の奥から返事がきた。
そして、少しするとドアが開き、中から一人の女性がでてきた。
女性は、見たところ80代。
老齢が故に足腰を弱めているらしく、玄関を開けると、腰を屈めたまま傍の下駄箱によりかかった。
私は、大家に頼まれてきた消臭消毒業者であることを名乗り、怪しいニオイを放ちながらも、決して怪しい者ではないことを説明した。
女性も、事前に大家から話を聞いていたらしく、何を警戒することもなくクサい私を中に入れてくれた。
部屋がクサいのか自分がクサいのかよくわからなかったが、とにかく悪臭を強く感じたことは間違いなかった。
それよりも、部屋のあちらこちらに点々とウジが徘徊しており、私にとっては、そっちのほうがインパクトあった。
「こりゃ・・・ちょっと・・・ヒドいですね・・・」
私は、そう言いながら、また、
「こんな状態で何日も、よく我慢できてるなぁ・・・」
そう思いながら、室内をくまなく観察。
そして、故人宅の特掃の手を抜いたつもりはなかったけど、下階のウジ発生を甘くみていたのも事実で、私は、そんな自分とウジに心の中で舌打ちした。
そんな気持ちをよそに、女性はあっけらかん。
「昔は、こんなのトイレにたくさんいたんですから、今の人は神経質過ぎるんですよ」
と、たくましいことを言いながら、自分で捕獲してレジ袋に集めたウジを自慢げに(?)みせてくれ、和んでいる場合じゃない場を和ませてくれた。
発生源(汚腐団・汚妖服・汚畳など)は既に始末したため、個体数が増えることはない。
が、残念ながら、膨大な数の連中が床下・壁裏などに逃げ隠れたはずで、これを駆除するのは極めて困難。
また、もともとウジって生き物はすこぶるたくましい。
その辺の殺虫剤なんかどこ吹く風。
策としては、ドライアイス等で凍死させるか、熱湯等で熱死させるか、踏んだりして圧死させるか、掃除機で吸ったりして物理的に除去するくらいしかない。
ただ、現場で実行できる方法は限られている。
人が生活している部屋では特に。
結局、私は掃除機を持ち出して、物理的に除去する方法をとることに。
私は、刀を持った侍のように勇ましく?掃除機のノズルを振り回し、目につく彼らを一気に吸引。
しかし、元来、これは持久戦。
捕っても捕っても、ポツリ・ポツリと、どこからともなく新しいウジが這い出てくる。
まとめて出てきてくれれば楽なのだが、一匹を駆除して、しばらく待っていると、どこからともなく新たな一匹が姿を現すといった感じ。
そんな、終わりの見えない作業に、女性は申し訳なさそうに付き合ってくれた。
女性と故人は、特に親しい間柄ではなかった。
ともに長くこのアパートに暮らしていたため、顔見知りではあったが、顔を合わせた際に挨拶を交わす程度。
ただ、お互いにトラブルもなく、暮しは平和だった。
だから、女性に故人に対して特に悪い印象は持っておらず。
それどころか、老齢にさしかかっても尚、老朽アパートに一人暮している身の上に自分を重ね、親しい仲間や同志に持つような感情を抱いていた。
そこに起こった今回の件。
「いつからか急に見かけなくなったし、物音もしなくなったんで、変には思ってたんですけどね・・・」
「そのうち、変なニオイがしはじめて虫が出てくるようになってね・・・」
上の部屋を大家に知らせたのは女性。
そして、状況から事を察した大家が警察に通報し、故人の死は公になったのだった。
腐乱死体現場を好む人はいないだろうけど、周囲の反応は現場によって様々である。
極端に嫌う人がいる。
極端に怖れる人がいる。
近隣住民の中には、直接的な被害はなくても「気持ち悪いから」というだけで引っ越していく人も少なくない。
・・・でも、これが一般的な反応・・・冷たい反応だとは思わない。
しかし、この女性のような人もいる。
冷静に構え、事が収拾されるのを待つ人もいる。
「若いつもりでいたのに、いつの間にかこんなばあさんになっちゃって・・・」
「私にも、何時お迎えがきてもおかしくないんですから、ジタバタしたってみっともないだけでしょ?」
「貧乏暮しをしてたって、歳をとったらとったなりに心構えを持たないとね・・・」
と、故人の死で何かの力を得たのか、私のような若輩ではマネできないくらい落ち着き払っていた。
そして、その様は、女性が歳月を生きることを通して得た人の器の大きさを表しているようにも見えた。
往々にして、世間は孤独死を悪事のように取り扱う。
また、故人を可哀想な人のように取り扱う。
しかし、はたしてそうだろうか。
ブログでも何度か書いたことがあるが、法律論は別として、私は、そうは思わない。
孤独死を本意としない人がいることも、それによって迷惑を被る人がいることも事実だけど、そればかりに焦点を当てて悲観するのはいかがなものか。
生き物(人)は、どうしたって死を避けることはできない。
悪意をもって意図的に孤独死(≠自殺)する人はいないはず。
腐りたくて腐る人もいないはず。
悪臭やウジ・ハエだって、身から出るものではあっても“身からでた錆”ではない。
世の風潮は自然なものであるとわかりつつも、死の現場にいる人間として、私は、それに違和感を覚える。
だから、たまに、この女性のような人と会うとホッとする。
仕事のプレッシャーも和らぐし、何より、その人間味に癒される。
同時に、風貌・財力・地位・経歴だけで人の器を量りがちな私の頭に、新たな秤が与えられる。
そして、その結果として、何か良いモノが我が身に入るような気がして、自分の器が一回り大きくなるような期待感が持てるのである。
私は、人から“器の大きな人間”に見られたいという欲は人一倍強いが、どうみたって、そんな人間ではない。
大きいのは駄欲と不平不満くらいのもの。
他人の幸せを羨み、他人の成功に嫉妬することもしばしば。
他人の不幸を蜜の味のように感じてしまうこともある。
「他人の不幸を喜ぶ」とまではいかないまでも、他人の不幸に対する同情心に癒しみたいなものを覚えることがある。
他人が苦労している姿に優越感に似た励ましみたいなものを覚えることがある。
二十数年前、この仕事に就こうとする動機にもそれがあった。
しかし、そんな狭量者でも、これまでに気づいたこと、学んだことがたくさんある。
それは、識者も教えてくれない、教室でも教わらない、本にも書いてない、インターネットにもでてこないことで、死の現場が澄み表していること。
そこで与えられた思いは・・・
孤独死を悪事としないこと。
故人を一方的に哀れまないこと。
死人を嫌悪しないこと。
死を嫌悪し過ぎないこと。
たったこれだけのことだけど、私は、これが仕事の範疇にとどまらず、一人の人間として、人の器を広げてくれる材料になるような気がしているのである。
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前回は遺族に焦点をあてたものだったが、今回は階下の住人に焦点をあてる。
アパート二階の故人宅が極めて悲惨な状態であったことは前回記した通り。
悪臭は下の部屋にまで漏洩し、ウジもまた発生していた。
普通なら、そんな状態の部屋にいられるはずはない。
多くのケースでは大騒ぎしたうえ即座に部屋を出、ホテル・親戚宅・友人知人宅などに避難する。
しかし、この部屋の住人は違っていた。
住人は高齢の女性で、故人同様、もう長くこのアパートに暮していた。
女性は、悪臭やウジが発生して難儀していることを大家に伝えただけで、無用に騒ぐこともせず、どこかに避難するようなこともなかった。
そうして、遺体発見から特掃に着手するまで数日もの間が空いていたにもかかわらず、自室にとどまり続けていた。
大家は、この地域に何軒もアパートを持つちょっとした資産家。
そうはいっても、偉そうな態度をとることもなく、目下の私にも礼儀正しく接してくれた。
そんな大家は、下階の住人に、
「別のアパートに空室があるから、一時的にでもそこへ越したら?」
「かかる費用は私が負担するから」
と、一時避難をすすめた。
それでも住人は、
「しばらく我慢すれば悪臭もウジ・ハエもいなくなるわけだし・・・」
「老いて弱った身体で住処を変えるのは大変だから・・・」
と、その厚意を受けず、自宅にとどまることを望んだ。
故人宅の一次処理を終えた私は、大家の要請により下の住人宅を訪問。
私の身体はかなりクサくなっており、そのまま訪問するのは少々気が引けるところがあったが、再び故人宅に入らなければならなくなる可能性も大きかったため、作業着を着替えないまま部屋の呼鈴を鳴らした。
すると、すぐに
「はい、はい・・・ちょっと待って下さいね・・・脚が悪いもんですから・・・」
と、開けっぱなしなっていた玄関脇の窓の奥から返事がきた。
そして、少しするとドアが開き、中から一人の女性がでてきた。
女性は、見たところ80代。
老齢が故に足腰を弱めているらしく、玄関を開けると、腰を屈めたまま傍の下駄箱によりかかった。
私は、大家に頼まれてきた消臭消毒業者であることを名乗り、怪しいニオイを放ちながらも、決して怪しい者ではないことを説明した。
女性も、事前に大家から話を聞いていたらしく、何を警戒することもなくクサい私を中に入れてくれた。
部屋がクサいのか自分がクサいのかよくわからなかったが、とにかく悪臭を強く感じたことは間違いなかった。
それよりも、部屋のあちらこちらに点々とウジが徘徊しており、私にとっては、そっちのほうがインパクトあった。
「こりゃ・・・ちょっと・・・ヒドいですね・・・」
私は、そう言いながら、また、
「こんな状態で何日も、よく我慢できてるなぁ・・・」
そう思いながら、室内をくまなく観察。
そして、故人宅の特掃の手を抜いたつもりはなかったけど、下階のウジ発生を甘くみていたのも事実で、私は、そんな自分とウジに心の中で舌打ちした。
そんな気持ちをよそに、女性はあっけらかん。
「昔は、こんなのトイレにたくさんいたんですから、今の人は神経質過ぎるんですよ」
と、たくましいことを言いながら、自分で捕獲してレジ袋に集めたウジを自慢げに(?)みせてくれ、和んでいる場合じゃない場を和ませてくれた。
発生源(汚腐団・汚妖服・汚畳など)は既に始末したため、個体数が増えることはない。
が、残念ながら、膨大な数の連中が床下・壁裏などに逃げ隠れたはずで、これを駆除するのは極めて困難。
また、もともとウジって生き物はすこぶるたくましい。
その辺の殺虫剤なんかどこ吹く風。
策としては、ドライアイス等で凍死させるか、熱湯等で熱死させるか、踏んだりして圧死させるか、掃除機で吸ったりして物理的に除去するくらいしかない。
ただ、現場で実行できる方法は限られている。
人が生活している部屋では特に。
結局、私は掃除機を持ち出して、物理的に除去する方法をとることに。
私は、刀を持った侍のように勇ましく?掃除機のノズルを振り回し、目につく彼らを一気に吸引。
しかし、元来、これは持久戦。
捕っても捕っても、ポツリ・ポツリと、どこからともなく新しいウジが這い出てくる。
まとめて出てきてくれれば楽なのだが、一匹を駆除して、しばらく待っていると、どこからともなく新たな一匹が姿を現すといった感じ。
そんな、終わりの見えない作業に、女性は申し訳なさそうに付き合ってくれた。
女性と故人は、特に親しい間柄ではなかった。
ともに長くこのアパートに暮らしていたため、顔見知りではあったが、顔を合わせた際に挨拶を交わす程度。
ただ、お互いにトラブルもなく、暮しは平和だった。
だから、女性に故人に対して特に悪い印象は持っておらず。
それどころか、老齢にさしかかっても尚、老朽アパートに一人暮している身の上に自分を重ね、親しい仲間や同志に持つような感情を抱いていた。
そこに起こった今回の件。
「いつからか急に見かけなくなったし、物音もしなくなったんで、変には思ってたんですけどね・・・」
「そのうち、変なニオイがしはじめて虫が出てくるようになってね・・・」
上の部屋を大家に知らせたのは女性。
そして、状況から事を察した大家が警察に通報し、故人の死は公になったのだった。
腐乱死体現場を好む人はいないだろうけど、周囲の反応は現場によって様々である。
極端に嫌う人がいる。
極端に怖れる人がいる。
近隣住民の中には、直接的な被害はなくても「気持ち悪いから」というだけで引っ越していく人も少なくない。
・・・でも、これが一般的な反応・・・冷たい反応だとは思わない。
しかし、この女性のような人もいる。
冷静に構え、事が収拾されるのを待つ人もいる。
「若いつもりでいたのに、いつの間にかこんなばあさんになっちゃって・・・」
「私にも、何時お迎えがきてもおかしくないんですから、ジタバタしたってみっともないだけでしょ?」
「貧乏暮しをしてたって、歳をとったらとったなりに心構えを持たないとね・・・」
と、故人の死で何かの力を得たのか、私のような若輩ではマネできないくらい落ち着き払っていた。
そして、その様は、女性が歳月を生きることを通して得た人の器の大きさを表しているようにも見えた。
往々にして、世間は孤独死を悪事のように取り扱う。
また、故人を可哀想な人のように取り扱う。
しかし、はたしてそうだろうか。
ブログでも何度か書いたことがあるが、法律論は別として、私は、そうは思わない。
孤独死を本意としない人がいることも、それによって迷惑を被る人がいることも事実だけど、そればかりに焦点を当てて悲観するのはいかがなものか。
生き物(人)は、どうしたって死を避けることはできない。
悪意をもって意図的に孤独死(≠自殺)する人はいないはず。
腐りたくて腐る人もいないはず。
悪臭やウジ・ハエだって、身から出るものではあっても“身からでた錆”ではない。
世の風潮は自然なものであるとわかりつつも、死の現場にいる人間として、私は、それに違和感を覚える。
だから、たまに、この女性のような人と会うとホッとする。
仕事のプレッシャーも和らぐし、何より、その人間味に癒される。
同時に、風貌・財力・地位・経歴だけで人の器を量りがちな私の頭に、新たな秤が与えられる。
そして、その結果として、何か良いモノが我が身に入るような気がして、自分の器が一回り大きくなるような期待感が持てるのである。
私は、人から“器の大きな人間”に見られたいという欲は人一倍強いが、どうみたって、そんな人間ではない。
大きいのは駄欲と不平不満くらいのもの。
他人の幸せを羨み、他人の成功に嫉妬することもしばしば。
他人の不幸を蜜の味のように感じてしまうこともある。
「他人の不幸を喜ぶ」とまではいかないまでも、他人の不幸に対する同情心に癒しみたいなものを覚えることがある。
他人が苦労している姿に優越感に似た励ましみたいなものを覚えることがある。
二十数年前、この仕事に就こうとする動機にもそれがあった。
しかし、そんな狭量者でも、これまでに気づいたこと、学んだことがたくさんある。
それは、識者も教えてくれない、教室でも教わらない、本にも書いてない、インターネットにもでてこないことで、死の現場が澄み表していること。
そこで与えられた思いは・・・
孤独死を悪事としないこと。
故人を一方的に哀れまないこと。
死人を嫌悪しないこと。
死を嫌悪し過ぎないこと。
たったこれだけのことだけど、私は、これが仕事の範疇にとどまらず、一人の人間として、人の器を広げてくれる材料になるような気がしているのである。
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