基本的な主訴は離人感だろう。
それは肉体的、または心理的に周りの人々に接していない感覚だろう。
その感じ方は極めて危険であり、彼らは血統的には自国人であるが、心理的には異邦人になる。
その離人感から逃れるために、彼らは自分を接地しようと試みる。
例えば肉体的な感覚を刺激して、自分の肉体的な存在を確認したり、心理的な孤独感に耐えきれず、時間を問わず、人と連絡を取り合ったりして、自分は孤独でないことを確認する。
なぜ孤独であるかは、私にはわからない。
肉体的に基礎疾患があるのかもしれないし、思考内容がそのときの時代精神では受け入れられないものだから、思想的少数派になり、その孤立無援感から、孤独を感じるのかもしれない。
今の時代一番ある筋は、自分の所属している集団からの排除感である。
この感じ方はつらい。
私もされた経験があるから、よくわかる。
それで同盟者を求める人漁りを始める。
そこで知り合った人が善良な人であればよいが、そんなところにいるのはオオカミだ。
それで彼らはさらに傷つく。
離人感。
自分の肉体が現実に接地していない感じ。
離人感。
自分が心理的に孤立している感じ。
これは孤立感という書き方が一番フィットするが、人間関係という現実に接地していないという意味では広い意味での離人感であろう。
だから彼らは恋を求める。
肉体的にも精神的にも人に密着するのが、恋だからだ。
それを知ってか知らずか、オオカミ? ハイエナが罠を張る。
実に恐ろしい限りだ。
実は私も、二十八歳の時にこの病気を発病し、薬を飲まないで生の病気の言い分を聞くと、結局は心理的には絶対孤独、言い換えれば孤立感に行き着き、肉体的には離人感に行き着く。
それが向精神薬を飲むと、心理的な孤立感は麻痺し、肉体的な離人感は消失するのだ。
そういった意味では、向精神薬は役に立つ。
さて、話は変わるが、ものほんの統合失調症は、その回復過程初期において、家族にベタベタ甘える。
まるで嬰児が親の愛を求めるように。
このことは経験のある患者様や医療スタッフにはよくわかるかもしれない。
実は統合失調症とは、掛け違えたボタンを全部外して、一から掛け直していく作業にも似ているのかもしれない。
それは患者の発達段階に従って、掛け直していくものだから、そこら辺の見立てを間違うと、偉いことになるのだ。
そこら辺のところは、素人である患者や家族にはわからない。
経験を積んだプロの心理の先生か、精神科の先生でないとわからないことだ。
統合失調症の発症は、胎生期にまで退行してしまったから起こることだ。
人が境界ゼロになるときは、胎児の時以外ない。
だから自我障害が発症するのだ。
恋愛も自分と相手が融合してしまうところまで退行するから、ある意味そこから掛け違えたボタンをかけ直す作業には向いているが、まあ、骨の折れる作業であることは間違いない。
相手は幼児でなく、思春期か青年期の肉体を持った相手なのであるから。
もちろんここに書いたことは切り取ったばかりの石である。
それを磨いて建物にするのは読者様の作業である。
そんなわけで今日はここまでにしておく。
以上、ИКМТ。