汝自身を知れ。
か。
実はこの文章を書く前に、いろいろな文章を書いていました。
そしたら「あ、俺は俺のニーズを読み違え、取り扱いを間違えていた。」
そんなことに気がついたんです。
小さい頃からいじめられ、そしてひとりぼっち。
それは私が友達と遊ぶより、一人遊びが好きだから。
みんながGメン75をみているときに、私はNHKの通信高校講座をみていたし、みんながドッチボールをしていたときに、私は低学年お断りの図書室に忍び込んで、本を読んでいましたから。
ドリフの話より、小難しい理科の話。
ドッチボールより、雨の降り始めの匂いを楽しみ、水たまりに映る景色を楽しんでいた私は、彼らの集団の中の異物だったのでしょう。
有機体において、常に異物は排除されますから。
子供集団の中の異物として、常に迫害されて排除されれば、普通の感じ方なんてじゃまになります。
友達を求める人が、これ見よがしに仲間はずれに遭えば、その子はどんな感情を抱くでしょう?
特に繊細な子供は?
だから私には、普通の論理と感じ方はじゃまだったのです。
アリストテレス論理学の信奉者が私を異物として排除するなら、私はフォン・ドマルス論理学で、敵の匂いを嗅ぎ分け遠ざかります。
フォン・ドマルス論理学の信奉者が常にそうだとは言いませんが、私を拒絶し排除する連中は、その述語同一性において常に私の迫害者であり拒絶者だという主語において同一なのです。
仲間に拒絶されず、排除されなかった人たち。
すなわち集団の中で安全の保障があった人たちだからこそ、仲間の敵性なんか嗅ぎ分ける必要がなく、味方の中で「こいつならこういうリアクションをとる。」と、他者の個別化ができて、友情や恋愛が楽しめるようになるのです。
マズローの発達段階か。
まずは体が健康で、そして仲間に拒絶されないことが大事なんです。
一体自分を異物だとして排除される経験を、ずーっと繰り返し受けてきた私です。
社会貢献なんてちゃんちゃらおかしいです。
ただ、敵に囲まれ、たった一人、いや、家族という戦友と一緒に戦ってきた中で出会った優しい人たちは、かけがえのない味方なのです。
いつも昔で言うところのアカみたいな文章を書いている私ですが、本当の私は、雨の降り始めの匂いを楽しんだり、水たまりに映る景色を眺めて楽しむ男なんです。
それとかポリフォニーの旋律を聞き分けて楽しんだり。
小さい頃、友達はテロリストでした。
そういう私の繊細な楽しみをぶち壊しにして、ドッチボールやらままごとやら、そういう私にとって全然楽しくない遊びに巻き込み、拒否すると悪口を言い、たたくのですから。
私の人間嫌い?
いや、人の群れにいると感じる、あのいや~な感じは、人の群れに対する拒否反応なのでしょう。
そのいや~な感じから逃れるために、私は自分自身を人の群れから保護するために、メンタル疾患の症状を出して、人の群れから逃げているのかもしれません。
となると、私の昼夜逆転は、昼間の喧噪から、夜の繊細な世界を楽しみ、人の群れに出ると出てくる妄想気分や幻聴は、人の群れを拒否するアレルギー反応なのでしょう。
なんかそんな思いに至りました。
もし私のようにメンタル疾患に悩む人は、一度自分の感じ方や自分の取り扱い方について吟味してみるといいかもしれません。
芸術家の感性を持った人間に、生き馬の目を抜くような世界で生きていけというのは、一種の拷問ですからね。
そんなことを思ったИКМТでした。