徳川家康と彼の子孫たち。
彼らは人民の相互連帯を徹底的に破壊した。
なぜならそんなものを許せば、いとも簡単に人民革命が実施できるからである。
まずは五人組なる相互監視組織を作り、隣近所が連帯してお上に背こうという精神を徹底的に破壊した。
さらにお救い制度を幕府直轄地に敷き、幕府と町人の間に擬制的な親子関係を樹立して、これは借用概念であるが、お上の慈悲(ご恩)町人の忠誠(奉公)なる、鎌倉幕府以来の相互契約関係を樹立した。
徳川家康は、貞観政要を読んだそうだ。
これを読んだ有名どころの本朝人は、山本七平氏の帝王学によれば、源頼朝、北条政子、日蓮聖人、そして徳川家康だそうだ。
貞観政要。
読み手によって感想は変わるが、この本の通奏低音は、亜聖孟子流の徹底した易姓革命という恐るべき革命理論が根底にある善政主義である。
これはικμτの妄想であるが、日本の執権制度は、天照大神の神勅に由来する「豊葦原の瑞穂の国云々」という統治理念を保護するために統治者の失政責任を時の執権者に追わせるという、ずるい考えに由来するものだとικμτは思う。
閑話休題。
(さてなんと読む?)
前にも述べたように、幕府(執権者)は、善政の担い手であらねばならない。
善政の担い手であるからこそ、不人気な町人の監視は仲間内に任せて町人同士の連帯を破壊する。
そんな邪悪な考えを徳川幕府幕閣は抱いたのであろう。
そんなわけである。
三浦按針が日本に来たのは、十八世紀初頭である。
確か名誉革命の後である。
これはικμτの妄想であるが、大体人類の思想はリンクする。
だったら日本にも、名誉革命に似た革命理論はあったのではないだろうか?
そもそも種子島の鉄砲伝来の頃に日本にやってきたイエズス会のパードレーあたりから、大体の思想のネタは、織田信長以来の執権者ならば耳に入れていると思うが。
そんなわけで長崎の出島あたりから、ヨーロッパの思想について時の執権勢力にはその知見はあったと思う。
何やら酔っ払ったικμτの頭脳では、こんな妄説を述べることで限界である。
後進の優秀な学者の卵たちよ。
あなた方にこのテーマを譲る。
以上、館内荏原区でικμτ。