歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

⑨野田市「茂木佐平治さんの家」はスゴイ!

2007年08月11日 | 建物の話し
昨日の続きです。

庭を一通り見回し、右奥に茶室があるのを確認したのですが、暑さのせいで面倒になり、遠くから観察しただけで、母屋に向かいました。

庭先からの侵入です。一部のガラス戸は開け放たれているのですが、踏み石の置いてある所のガラス戸は閉まっていました。

踏み石でスニカーを脱ぎ、ガラス戸を開けようとしたら、動きが悪く開かないのです。建て付けが悪い?

金に糸目を付けないで、全国から選りすぐった材料を集め、腕のいい大工と、建具職人を使い建てた家も、80有余年の年月には勝てないようです。

仕方なく、踏み石の端から大股で、かなり無理な姿勢で縁側に這い上がりました。この縁側?廊下?がスゴイです。半分が畳み敷きです。



ガラス戸越しに見るに庭も良いものです。カラス戸の桟がイイです。


青い畳にはオドロキました。サスガに現役の市民会館として、管理も行き届いているようです。

しかし、市民会館としてどんな用途で使われているのでしょうか? 建物に相応しい内容に限定されるのでしょう。

お茶や、お花や、俳句の会とか、手芸とか、そんなところでしょうか? 畳の一カ所に切り込みがあるので、茶の湯の釜が置けるようです。


天井が高く、そして欄間がイイです。ゴチャゴチャとした木の「透かし彫り」より、シンプルな「竹の細工」に、数寄屋造りの良さを感じます。


中庭がまたイイのです。大正の匂いがイッパイしてくるのです。


中庭を囲んで三方が廊下になっています。しかし、広い屋敷です迷子になりそう。


ここが正面玄関です。 ホントはここから入ってくるのが正しいのです。この時、一旦入った所に靴を取りに戻りました。

石畳、踏み石、式台、二間続きの「玄関部屋?接客の間?」。


この玄関、数寄屋造りにしては、立派過ぎて威圧感のある構えです。正面玄関と云うことで「力が入り過ぎ」たのか、厳つい武家屋敷の佇まいです。


庭先から上がり込み、玄関に到達しました。

この後、まだ「茂木佐平治さん」のお屋敷には、面白いものが有りそうそうです。


それでは、また明日。 






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⑧野田市民会館も博物館もキッコーマン!

2007年08月10日 | 街の風景
昨日の続きです。

予想外だった野田駅から、一旦、愛宕駅方向に戻り、もう一つの「お醤油屋さん」の「キノエネ醤油」に向かうことにしました。

来た路を引き返すのは面白くないので、勘を頼りに愛宕方向と思われ方角に向かい歩き始めました。

路地を歩いていると、学校の校舎の様な建物が見えてきました。


ここも、やっぱりキッコーマンでした。それにしてもキッコーマンは「地味」です。意識して目立たないようにしているのでしょうか?



この雰囲気では、研究開発の発想が「地味」になりそうです。キッコーマンの企業体質は「地味・堅実・目立たない」そして、利益は「密かに・確実に」何て事何でしょうか?

それにしては本社の「ガラスビル」は目立ちます。もしかして、あのデザインは、現在の社長牛久 崇司さんの方針でしょうか? 

2004年に創業家以外から初めての社長就任となったことで、創業家の「これまでの経営」から、新社長の「これからの経営」への、シンボルなのでしょうか?

少し脇道に逸れてしまいました。

兎に角、そんなこんなで、地味な建物の脇道を抜けて行ったらところで、これまでとは異なる風景が現れました。


高価なベンガラ入りの漆喰壁が続いています。どなたか?お金持ちの邸宅のようです。

立派な瓦葺きの門、「野田市郷土博物館」とありました。こんな所に、こんな博物館があったのです。


中に入り、辺りをゆっくりと見回しました。正面には玄関があります。


右手には庭に続く門。


左手、この建物が博物館のようです。それでは正面の建物は何なの?


ここは先ず、庭先から攻めてみようと、庭に通ずる門に向かいました。


門の脇に説明書きあり、やっぱりここも「キッコーマン」だったのです。創業家のお屋敷の「一部」だったのです。

この建物は、歴史的建造物として見学するだけではなく、現役の「市民会館」として今でも使われているようです。



広大な庭に、大きく立派建物、大正13年に建てられたとあります。野田醤油株式会社が設立されてから7年後です。醤油屋さんは「確実」に儲かるようです。

税金対策とは云え、市に全て寄付したのですから「茂木家は太っ腹」と、思ったら、良く読むと、茂木家から野田醤油(株)に所有権を移転し、その後、野田市に寄付されていました。

茂木家はそれなりに「堅実」なようです。それにしても、野田は博物館もキッコーマンでした。

博物館の方も「無料」です。野田市も太っ腹です。キッコーマンから税金が沢山入ってくるのでしょう。

さあ。これから、お屋敷の内部を見て回ります。広いですし、お金持ちだったので内部にはいろいろと面白いものがありそうです。


その話しは次回までのお楽しみ!


それではまた明日。




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⑦野田駅はキッコーマンの貨物駅だった?

2007年08月09日 | 街の風景
昨日の続きです。

守衛所の前を通り、受付の「爽やかなお嬢さん」に軽く会釈をし、涼しかったキッコーマンを後にしました。

門を出て右手方向に歩き始めました。多分、この方角に野田駅がありそうだと思ったのです。

それにしても、暗い通りです。両側はキッコーマンの工場です。東京拘置所の塀を思い出しました。

多分、この辺は、普通の人が、普通に歩く、そんな場所ではないようです。工場の関係者や荷物を積んだトラックが通過する為だけの、産業用の道なのでしょう。


醤油の原料、大豆が入った「カントリーエレベーター?」のようです。


昔の「工場」のイメージを絵に描いたような、そんな風景です。
錆び、苔、カビ、モルタルの退色、全てが混ざり合って「完成」した「色合い」ですね。


5分も歩かないうちに駅が見えてきました。駅前には商店街もありません。人の賑わいもありません。

野田市の玄関口の野田駅は、愛宕駅よりも寂しい駅でした。ホントに予想外です。お煎餅屋さんがありません。野田煎餅は何処で売っているのですか?

駅から少し離れて、「ごはんやさん」が一軒ありました。昼が近いのでメニューのチェックです。


「ランチサービス?」が「冷麺セット・・・タレご飯、小鉢、お新香付き 950円」。これは高いです! タレご飯より白いご飯がいいです。 


「半チャンラーメン」、懐かしい響きです。


「半ちゃん」と表記してありますが、「半分チャーハン」の短縮形ですから、「半チャン」が正しいのです。

「半ちゃん」では、「半ちゃん」が作ったラーメンになってしまいます
何でもやっているお店です。いまいち魅力なし。眺めるだけで駅に向かいました。

ホントに何もありません。駅の周囲はキッコーマンの工場だけです。

後で考えたら、そもそもが、キッコーマンが醤油の輸送用に造ったのが、東武野田線の始まりです。

工場の敷地の中を通る貨物線なのです。まさに、工場構内の空き地の一画に建つ、貨物駅の佇まいは、発祥の理由からして当然なのでした。

キッコーマンの社員は車通勤がほとんどでしょうし、醤油造りには「人の手」はかからないのですし、付近に住宅街はありませんし、乗降客も少ない様子です。

結果として、駅前には何もない「貨物?業務用?駅」の風景が今でも続いているのでしょう。駅前には、路地があり赤提灯が並んでいなければいけません。

そんな風景を眺めていたら、茶髪に超ミニ、右手にタバコを挟み、連れの男に荷物をもたせて、ピンヒールで颯爽と歩く「かなり水ぽい」女性が、前を横切っていきました。


野田駅、思い描いていた風景とはまったくことなり、寂しく、殺風景な駅でした。

水ぽい女性の登場で、人間的?動物的?な匂いが漂い、辺りの風景が少しだけ変化しました。


おじさんは、「ほっとして」明るい気持ちで駅を後にする事ができました。


それではまた明日。


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⑥野田キッコーマンの工場見学は「長い通路」でした。

2007年08月08日 | 街の風景
昨日の続きです。

受付で、住所、氏名、電話番号を正直に書き、「赤い屋根のところからお入り下さい」との指示に従い、工場内部に足を踏み入れました。



久しぶりの製造工場です。何だか仕事で打ち合わせに来たような、そんな錯覚を一瞬感じました。

工場敷地内は人影もなく、守衛所脇の建物の「時代」を感じる外観と云い、灰色の世界です。


食品工場と云うイメージとは異なり、化学工場のような雰囲気です。大豆を煮た匂いが微かに漂い、醤油工場であることを気付かせます。

見学コースの入り口は、それなりに「明るい演出」がされていました。


自動ドアが開くと、明るい色彩の「長い通路」です。


案内に従い、右に曲がると「通路」の両側はガラス貼りで、緑の植え込みが見えます。突き当たりに「おみやげコーナー?」があり、その一画にビデオ上映の部屋がありました。



私は、時間外での「自由見学」です、ビデオ上映はありません。係の女性からパンフレットを手渡され、これから工場見学の開始です。

おみやげコーナーの脇を抜け「通路」を通り、また突き当たりを曲がり、その先も、また「長い通路」です。通路の所々に説明プレートが貼られ、各工程でのサンプルの半製品が置かれています。



「長い通路」を抜け階段を上がると、窓から「製造工程」が覗けるようになっています。ここに来るまで2カ所ほど「窓」があったのですが、何故かブラインドが降りていました。


圧搾機で醤油を搾り出す工程なのですが、工場内には人影は無く、機械も稼働している様には見えません。

何なんだ? どうして何だ? と、思いつつ、階段を降りると、ガイド付きのグループを見つけました。

先ほどより、無人の「長い通路」を、曲がったり、昇ったり、降りたりしていたので、人の姿を見て何故かホットしました。

小学生と親達のグループです。少し離れて後ろに立ち、一緒に説明を聞きました。これで、やっと正しい工場見学モードに入れました。



見学コースの終点、製品紹介のコーナーです。質問も無く淡々と説明が進行します。



この見学コース、工場の機械が実際に稼働している場面を、生で間近に見る事は出来ないのです。

事前にビデオを見て、少しだけ「それらしい場面」を覗けるだけのコースのようです。

今回、私の様に「時間外・自由見学」の場合は、ビデオ上映なし、ガイドなしでは、ほとんど何が? 何だか? 判らりません。

長い通路を右に曲がり、左に曲がり、階段を登ったり、降りたりするだけの「徒歩運動」に終わります。

工場の造りが、元々、見学を前提に造られていなこと、又、醤油の製造工程は「地味」で、見栄えがしないこと、そんな、こんなを考慮して、まぁ・・・・・・こんなものなのでしょう。

現代の醤油造りは「装置産業」なのでした。

最後に「グットデザイン賞」に輝く「瓶」に入った、特選丸大豆醤油を「おみやげ」に頂きました。



兎に角、見学コースは涼しく避暑休憩になり、そして、お土産まで頂き、なかなか結構でした。


まだまだ、野田の街を歩きます。


それではまた明日。


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⑤野田のキッコーマンは「町外れ」だった!

2007年08月07日 | 街の風景
昨日の続きです。

「興風会」設立の背景は、調べるほどに面白く、野田の街が違って見えてきました。歩く前に調べて行けばよかったかも? 

それと、興風会館の講堂内部を見学しなかった事が、今になって、とても悔やまれます。

残念なので、興風会のホームページから写真を借りてきました。

これが「ロビー」です。


こちらが「講堂」です。


まぁ。兎に角、興風会は「勉強」になりました。キッコーマンも「いろいろ」あったようです。


それでは、続きをはじめます。

興風会館を後に、流山街道を真っ直ぐに進んだのです。この日、出かける前に地図を見て、「だいたい」は、街のイメージを頭に入れてきたのですが、かなりの「だいたい」です。

この日は、愛宕駅から野田駅に向かって歩いたのですが、事前のイメージとかなり異なるのです。

愛宕から野田に近づくにつれ、商店街は賑やかになって行くと思っていたのですが、逆に、段々と寂しくなってくるのです。沢山あると思っていた、野田名物の「お煎餅屋さん」が見あたらないのです。

興風会館を出て5分もすると、街の様子が「どことなく」町外れの風景になってきました。

信号の有る交差点に差し掛かり、交差する道路の先に「キッコーマンのマーク」が描かれたタンクが見えました。

しかし、もう少し直進して見ようと、歩き始めたのですが「石屋さん」の先は、まったく正真正銘の「町外れ」になっていました。


この石屋さん何ですが、店先の一画が商品展示場になっていて、その中で、石の柱に木の屋根を取り付け、滑車がぶら下がっているのが眼に留まりました。

「街道筋の釣瓶井戸」です。なかなか、それなりの風景です。脇に置かれた「エアコン室外機」が、それなりに遮蔽してあり、「杉崎石材店」さんの配慮を感じました。

兎に角、ここでUターンです。遠くに見えた「キッコーマンのタンク」を目指しました。


野田の街は何処にあるのでしょうか? この辺は、まったくの工場街です。


キッコーマンが近づいてきました。


工場の塀に「工場見学」の案内があり、いつでも、誰でも、一人でも、見学できるとあったので、それではと思い、入り口の守衛所に行きました。

外観は「工場入り口」に、よくあるタイプの「守衛所」ですが、中にいたのは「若い女性」でした。守衛所と云うよりも「受付」です。

「すいません。工場見学をしたいのですが? 大丈夫ですか?」

「ハィ。只、この時間ですと、ガイド無しの自由見学になりますが、それでもよろしいですか?」と、カラスの小窓を開けて笑顔で答えてくれました。

小窓を開けた瞬間、内部の冷たい風が外に吹き出し、女性の受け答えが「より一層」爽やかに感じました。この日はホントに暑かったです。

汗を拭きながら、
「ハィ。かまわないですよ、涼しそうですねェ」

小さな声で、
「ハィ。冷房していますから・・・」と、涼しそうに笑いました。

キッコーマンの受付は「とても素敵な嬢さん」でした。でも、この人、キッコーマンの社員なのでしょうか? もしかして、今よくある「派遣」か「請負」では?
何て、つまらない心配を、おじさんはしてしまいました。

以前、働いている頃に、大手の電機会社をよく仕事で訪問していたのですが、どこの企業も「守衛や受付業務」は、専門の請負業者が入っていました。

あの笑顔が爽やかな「お嬢さん」も、このご時世です、派遣か請負の可能性が高いです。

工場見学まで辿り着きませんでした。見学の話しは明日になります。


それではまた明日。 


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④野田の町は「騒然」そして「興風会」設立!歴史的争議の「野田醤油労働争議」で天皇直訴!で落着しました!

2007年08月06日 | 街の風景

昨日の続きです。

キッコーマン、そして、興風会が触れなかった秘密とは、1928年と云う設立された時期に関係しているのです。

1917年(大正6年)野田市の茂木・高梨の醤油醸造家が、事業発展のため大正6年(1917年)に合同して「野田醤油株式会社」を設立。

そして、5年後の1922年から連続的に発生した「労働争議」が解決した年が、1928年だったのです。

この労働争議は、「野田醤油労働争議」として、歴史に残る争議だったのです。こんなスゴイ事件が「醤油の街」で起きていたとは、まったく知りませんでした。

1922年に始まった争議の発端は、製品封入に使用する樽の加工に従事する樽工170人が「樽棟梁」による、「ピンハネ」の撤廃を要求してストライキを起こしたそうです。

会社形態で、社内に「棟梁」が居て、「ピンハネ」できる賃金形態は現在からは想像できませんね。

その後、「樽工ピンハネ」が、他の工員にも飛び火して、賃金体系、福利設備、待遇改善を巡って経営陣と組合のトラブルが続き、ついに1923年3月、全工員1,400名が参加する大ストライキにまで発展したそうです。

事態を憂慮した内務省は千葉県に緊急訓令を発し、知事、県内務部長らの調停によって「蛸部屋制度」の廃止などで和解させ、その年の4月12日、野田町「笑遊劇場」で労使共同円満手打式が行われて争議はここで、「一旦」落着したそうです。

しかし、つづく1927年に、野田醤油社と専属契約をしていた運送業者と従業員が全員、総同盟野田支部組合員であった為、野田醤油はそれを嫌い、労使関係上つながりのない同町の別の運送業者と契約し、その事が発端となり、大争議に発展したそうです。

会社側は全工員の解雇。右翼や、暴力団を使って組み合いを弾圧し、組合と右翼、暴力団との衝突が「町中」でも展開され、町も騒然としたそうです。

組合側は、国会への請願、他の業種でも同情ストを決行したり、野田醤油の不買運動が起こったりしたそうです。

この間、警察記録に残るものだけで暴行、傷害、脅迫事件が300件以上、一説に殺人もあったと伝えられています。

1928年3月20日の午後1時頃、東京駅頭丸の内ビル脇で野田争議団副団長堀越梅男による天皇直訴事件が発生しました。

これがきっかけとなって労使双方が歩み寄り、1928年4月20日「野田醤油問題解決協定」が成立したのです。


そうだったのです!!!

キッコーマンの経営者が、

『これまでの発展も地域社会の援助のおかげであり、会社はこれに報いるような努力をすべきである・・・・・・野田の土地柄を大切にしながら、今後の街の発展のために新風を興そう』

と考え、興風会が設立されたのは、単なる偶然ではなく、このような「野田の町」を巻き込んだ「大争議」の背景があったのです。

「興風会」が設立された昭和3年11月は、大争議の集結から半年後と云う時期だったのです。

当時の企業はキッコーマンを含め、かなりの低賃金、長時間労働で、高い利益を上げていたのでしょう。

それにしても、醤油屋さんは「儲かり」そうです。


それでは、今日の社会科の授業を終わります。


明日は、いよいよ「キッコーマン」の工場見学です。


それではまた明日。 


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③野田「興風会」知られたくない?「歴史的で壮絶的な事件」の秘密!?

2007年08月05日 | 街の風景
昨日の続きです。

ガラスの社屋が建つ敷地内の外れに、この建物が聳え立っています。多分、この建物もキッコーマンなのでしょう。

今回も、予備知識無しです。やはり、何と云っても「行き当たりバッタリ」が面白いのです。


近づき見上げると「興風会館」とあります。かなりの重量感です。



玄関の中央には、「キッコーマン美術部」の立て看板があり、やっぱり、キッコーマンのようです。

玄関脇には『登録有形文化財』を示す、青銅製のプレートが貼られていました。



玄関を入ると、石の廊下、石の階段、石の手摺りです。冷たい風がながれていました。

キッコーマン美術部の展覧会は地下のギャラリーで行われているようです。



階段を降り、ギャラリーを覗くと、受付が一人、観客も一人、とても静かです。


それらしく、そして、何となく展示作品を眺めて会場を一巡しました。展示されている絵も少なく、そして、一人が2~3点の作品を出品していました。

キッコーマン美術部の部員はかなり少ないようです。受付の男性に質問しました。

「この建物はキッコーマンの所有なのですか?」

「いいえ、違いますよ。昔はそうだったようですが・・・・・・・、土地はキッコーマンのものかも? 知れませんけど・・・・・・」

何だか良く判らない返事でした。

彼は、興風会ではなく美術部の方でしょうから、建物の事は知らないのでしょう。絵の質問ではなく、建物に対して質問をする客が変なのです。


帰宅後に調べてみました。

1928年にキッコーマンの前身「野田醤油株式会社」が、地域の文化向上を目指して、社会教育団体として「興風会」を設立したのです。

やっぱり、ここも、間違いなくキッコーマンでした。

設立の翌年、1929年(昭和4年)に「興風会館」が竣工しました。竣工当時は、千葉県庁に次ぐ大建築だったそうです。さすがキッコーマンです

設計者は当時、デザインの巧みな建築家として知られていた大森茂と云う建築家で、神田駿河台の明治大学旧校舎も設計した人です。

ギャラリーを後にして、暫くぶりの、恒例「トイレ」チェックです。

素晴らしい! 白いペンキが塗られた木製のドアです。真鍮のドアノブと調和しています。

懐かしいです。昔、小さい頃に、母に連れられて行った「お医者さん」のドアを思いだしました。興風会館は「トイレ」がイイです。

昔を想い「しみじみ」とした気持ちで、用を足す事ができました。


それで何ですが、この「興風会」ですが、設立の1928年(昭和3年)には、いろいろと「意味」があるようです。

「興風会」の設立の趣旨は、


-------興風会ホームページより引用--------


「これまでの発展も地域社会の援助のおかげであり、会社はこれに報いるような努力をすべきである」という考えが経営者陣に広まり、「野田の土地柄を大切にしながら、今後の街の発展のために新風を興そう」と、昭和3年11月、ご大典記念に千秋社からの寄付によって財団法人興風会を設立しました。

翌4年には会館が竣工し、以来、興風会は社会教化事業の推進を主たる目的として活動しています。

興風会の名称は、「民風作興」という言葉から生まれました。野田の街に、人々に、新しい風を興していこうという意図に基づいています。

そして、その意図の根底には、地域への熱い想いが流れています。


-------   引用終わり   -------


何故? 1928年に、・・・・・・『これまでの発展も地域社会の援助のおかげであり、会社はこれに報いるような努力をすべきである』という考えが・・・・・・、経営陣に何故、広まったのでしょうか?

これには、キッコーマン=興風会も触れたくない「歴史的な事件」があったのです。

長くなりました、続きは次回とします。


それではまた明日。 


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②野田は「キッコーマン」でした!

2007年08月04日 | 街の風景
昨日の続きです。

寂れ、取り残され、旧市街と云う表現がピッタリなメインストリートを歩いていると、洒落た石造りのビルが現れました。

間違いなく古い建物なのですが、外観の色彩が「妙に」明るくモダンなのです。



株式会社「千秋社」とあります。「千秋の思い」の「千秋」、長い年月です。この建物も長い年月が経っています。


デザインにも「お金」がかかっています。調べてみたら「1926年 大正15年野田商誘銀行として建設されたものした。

確かに「銀行」の佇まいです。名称の「商い」を「誘う」銀行ですが、「醤油」に引っ掛けたそうです。

銀行の設立者の殆どが、野田醤油醸造組合(キッコーマンの前身)の組合員であったため,「醤油」との語呂合わせで付けた「駄洒落銀行」です。当時は「笑遊劇場」という芝居小屋もあったそうです。



それと、「千秋社」ですが、キッコーマンの系列会社で、あの「清水公園」も、この会社が経営しているそうです。

あの広大(敷地約28万平方メートル)な公園は、当然、市立公園と思っていたのですが、私立公園だったのです。キッコーマンはスゴイのです。



2軒先にある、中村商店の倉庫にも、なかなか風情があります。



間の2軒が無いと、とてもイイ町並みなのですが・・・・・・。




千秋社の先に、突如出現した、最近よくある「流行り」の「ガラスと金属」の建物。

この手のデザインは「ハッキリ」云って嫌いです。

何なんですか? このデザインは? ガラスの多用は、明るくスッキリで、爽やかで、軽くて、周囲への圧迫感がない?

直線だけの組み合わせは、退屈で、工夫がなく、緊張感だけが誇張されます。それにしても、周囲の景観とはまったく異質です。

そうなんです。これが「キッコーマン」の本社社屋なのです。

野田醤油醸造組合が、1917年(大正6年)に野田醤油株式会社となり、1964年にキッコーマン醤油株式会社に、1980年に醤油が無くなり、現在の社名、キッコーマン株式会社になったそうです。

現在の東武野田線は、「キッコーマン」が醤油を運ぶ為に造った路線だったそうです。

清水公園もキッコーマン。昔は「銀行」もキッコーマン、鉄道もキッコーマン、現在市内には、「キッコーマン総合病院」もあります。


野田の街、まだ歩き始めたばかりですが、野田はキッコーマンでした。

野田は醤油の街、キッコーマンの街です。


キッコーマンの街、これから、まだまだ歩きます。


それではまた明日。
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①野田市 「取り残された旧市街?」

2007年08月03日 | 街の風景
一昨日の続きです。

愛宕神社前の交差点を「野田市街」に向けて出発です。この通りは「流山街道」と云うそうです。

ここから先、歩くのは始めての経験です。知らない街で、ウロウロ、キョロキョロするのは、何が起こる判らないので楽しみです。



それにしても、この街並は典型的な田舎の商店街です。取り残され感が漂います。

「下駄屋さん」と云うか、「履き物屋さん」と云うのか、これで商売が成り立つのかと、心配してしまいます。



今時、こういう店で買い物をする人は、昔からの馴染み客だけでしょうね。店も古いですが、お客も相当「古そう」です。

それにしても、何を商っているのか、何て云う店なのか、まったく表示していないのが「凄い」です。


こちらは、向かいの「御菓子屋さん」です。こちらにも「凄い物」がありました。



あの「粉飾決算」で解体した「カネボウ」の子会社、「カネボウ食品」の「自動販売機」です。

キャラクターの「ベルミー坊や」に、「ベルミー・コーヒー」とても懐かしいです。

近寄って様子を窺うと、この錆びの目立つ自販機、いまだ「現役」のようで、他社製品が売られていました。


ここにも、取り残された物がありました。



長短交互に積まれた「イギリス式」の煉瓦塀です。


これは「まさしく」取り残され、廃墟に成りつつある「元青果市場」です。メインストリートに面してこの風景です。


野田の街は東武線の線路を境にして、商店街の新旧の交代が起きているようです。想像していたよりも、「旧市街」は、かなり寂れています。

高い石の門柱、大きな板に「野田市立中央小学校」の文字、校舎に向かう石畳、懐かしい風景です。子供達の居る風景は「元気」があります。



和菓子屋さんの幟に、「醤油どら焼き」とあります。サスガ!醤油の街です。

醤油どら焼きとは? 餡に醤油? 皮に醤油? どちらかと云うと、やはり皮に醤油てしょうね。

しかし、「醤油どら焼き」には、今ひとつ「そそられる」ものが有りません。野田なので「一応作ってみました感」が窺えるのです。


こちらは店仕舞いしたようです。「仕舞屋」風ですな。


以前は、小間物、アクセサリーのお店だったようです。



「パピリオドオル化粧品」の「ロゴ」と、建物の趣とのアンバランスが面白いです。

二階の変形し壊れかけた手摺りと、ガラス戸の「桟の形状」に時代を感じます。ガラス板も表面が「波打った」古い製法のガラスが填められていました。


古い町並が「取り残され」ている市街はまだ続きます。


これから面白い建物が出てきます。


それではまた明日。 
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バケツで稲作臨時ニュース 「穂が出た!!」

2007年08月02日 | バケツで稲作
野田シリーズはもう一日お休みします。

とうとう! 遂に! やっとこ! 待ちに待った! 「穂が!」顔を出しました。
心配していたのです。

近所の何処の田圃でも、2週間ほど前より穂が出ていたので、家の稲どうしたのかと心配していたのです。

今日も朝食後、いつものように庭に出て、歯を磨きながら稲に近づき観察していたら、発見したのです! 可愛いです! 美しいです!


これは、まだ茎の中にある「幼穂」です。カワイイ! 


少し、茎から顔を出しました。


ぎっしり穂が詰まっています。


ガンバレ!


これも、実がぎっしりです。


綺麗に撮れています。美人の稲穂!


早く立派なお米に育って下さい。


穂が出てから、2~3日で「花」が咲くそうです。花が咲き「受精」して実がなります。

このまま行けば、10月には「稲刈り」です。

5回目の稲作報告でした。


明日は間違いなく「野田シリーズ」の再開です。


それではまた明日。

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