りゅういちの心象風景現像所

これでもきままな日記のつもり

「小栗判官論の計画」

2011-02-03 06:55:46 | 照手姫・小栗判官
「折口信夫」と言うと、濃密さがありながら、ところどころに遠さと冷たさを感じる独特な文章を思い出します。ですが、これは単純な僕の感想なので世間でどう評されているかは知りません。僕にとっては「死者の書」「身毒丸」のイメージが強すぎるからではないか?と思っています。
活字だからということもあると思うけど、よくよく考え抜かれているくせに、ササッと読ませてしまうところがある。詩人歌人としての文才か、書くことに逡巡を感じていないのでは?と思わせるほどにリズム良く豊かなイメージが重ねられていくので、濃密さにもそれほど息がつまることはなく、なかなか薄気味悪いような話でも、いつの間にか読まされている。。。不思議な文の人だなぁってずっと思っていました。

妙によいタイミングで、こないだくるくるブックフェアで手に入れた「折口信夫全集」もあることだし、小栗判官のことも書いているだろうと探していたら「小栗判官論の計画」というストレートでど真ん中の文書があって、これをおもしろく読みました。内容はタイトルに違わず、論考執筆のためのノートのようなものなのですが、初出は雑誌だったとのこと。昭和四年の話なのですけど、その当時に創作ノートが活字を組まれて雑誌に掲載されたとなると、どうにも興味がわいてきてしまいます。「小栗判官」という名前で語られるはずだった折口氏の考察は日の目を見ることはなかったそうですが、このノートを読むと驚きます。恐ろしいほどの深度と収拾つかないほどの範囲を持った論考が想像されるからです。
「餓鬼阿弥蘇生譚」「小栗外伝 餓鬼阿弥蘇生譚2」につづく一編として「小栗判官論の計画 餓鬼阿弥蘇生譚3」は書かれています。「餓鬼阿弥」の「蘇生」の物語なのだ!という視点を貫き通しているところを「折口」らしいとわけ知り顔で言いたくなるのですが、見渡すところ、「小栗判官」に関する文書はこれですべてのようです。
本格的な論考が完成されなかったのがつくづく残念です。
他に関わっていた仕事のためか?はたまた、折口氏をもってしても手に負えない難問であったか?
あるいは、折口氏の想像力に適う確かな資料が手に入らなかったか?それとも時宜を逸したか?
完成されなかったことで、別のナゾも深まってしまった。
それでも、「計画」に書かれていることから、他の論考へ飛んでみることはできる。簡単にこの「計画」を捨てたはずはないのです。
あるいはここで展開されるべき論は別の方向性を獲得して、例えば死者の書へと連なっていった。読んでみるとそう感じられることもある。

「小栗判官論の計画」では、乱暴に(でも的確な)ピースがバラバラっと投げ出されています。
部分的に引用すると、こんな感じです。


  禊ぎと、黄泉と。
   いざなぎと、甲賀三郎と。
  伊吹山と、地獄谷伝説と。
  甲賀人の宗教。
  湖水を中心とした宗教。
  禊ぎと、ゆかはと。
  出雲国造の湯と、大汝と。
  いざなぎ・いざなみと、近江の国と。
   多賀・日ノ稚宮
   なぎ・なみは、大汝のすせり救脱と同じか。
  甲賀形身解脱の水を仏徳に帰する。
  熊野念仏譚は、出雲出自のものもある。浴湯蘇生は、是だ。
  甲賀――蛇身。
   あぢすき・ほむち・允恭――不具(游魂)。
   小栗――肉身変替。
  幼神・不具身の為の湯。
  湯の水を汲む女。
   男(山路サンロ・百合若等)。
  当麻の地名。
  東海道の順送りは、当時の風習をとり込んだので、古くは、熊野まで送つたのか。
  小栗と、躄勝五郎と。
   照天と、初花と。
  熊野と、箱根と。
  姫の私通(他国の男と)と、追放と。
  魂があると、出来るからだ。からだがあると、這入る魂。
  大嘗殿の御倉。
  瘉合させる斎水湯の力。
   その前提としての他界廻り。
  大汝のよみの話は、国造禊ぎの物語だ。
  きさがひ。
  「きさげ集」は、骨・寸法の木その他の分子を集めて、組み立てるのか。
  きさり持ち・滝の上・象山・小川・きさの地名。
  小栗は、湖・海の禊ぎを、山の斎水に移した物語だ。
  熊野川から来た、不具神の旅路。
  念仏聖の旅路に応じて、その出処が、遠く信者の多い東の果にうつされたのだ。
  中心地も、相摸川の中流地となる。
  神の国から来た不具神を育てた巫女、中将姫の物語が、てるて姫を作つた。
  中将姫・うつぼなどの伝説型の錯綜。
   幼い神と、貴女と(継母と、神育て人)。
  てるて――てるひ、巫女の名。
   読み違へ。
  紀州雲雀山。
  熊野神明の巫女。
  中将姫物語を伝へた比丘尼。
  朝日の本尊。
  比丘尼の色づとめの本縁談など。
  歌念仏の中将姫と、布を織る棚機つ女と。
  神明巫女としての狂ひ姿。
  淑女放逐談。
  夫父らの遇逢。
  父兄の折檻。すさのを以来。
  美濃の照日の巫女。
  巫女の語りと、聖・盲法師の語りとの融合した物が、小栗・照天を一つにしたか。
  人買ひ話。転買。
  やきがね責め。
  水汲み――立ち使ひ。
  長者。千軒村。
  日限りの略と。聖役と。
  近江八景の問題。
  玉屋が門。
  宿のあるじ。
  東海道と、王子順路と。
   俊徳海道と、神幸順路の特定と。
  馬の家としての常陸小栗氏。
  馬の神としての神明(観音)。その巫女。
  小栗の称。小栗家の先祖の物語を語る宣命。
  鬼鹿毛談。
  人喰ひ馬。
  あいぬの小栗談。
  あいぬへの進入――えぞ浄るりの性質。
   嫁とり。
  馬乗りこなしの後は、別。
   嫁とりと、よみの国と。
   よみの国と、禊ぎの斎水。
  巫女の物語の添加。
  横山は、馬主。小栗は、英雄。照天は、馬主の娘。
  念仏修者の不思議な蘇生。
   死に方を語る物語の、当麻において離合。
  上野原の地。
  東のはて――常陸――馬術の家の名に、小栗のつく理由。
  嫁とりの話に結んだ、当麻物語。
  逐はれた姫の話。
  ・・・・・・・・



脈絡なくいろんな言葉がばらまかれているだけに見えなくもないけれど、それもいたしかたない。どれか「ひとこと」、あるいは響き合う「何組かの言葉」を選び出しただけで、どうも本の数冊は書けてしまいそうなキーワードばかりだからです。
本地垂迹の由縁とか、神道集のほのめかし、イザナギ・イザナミ、ヨモツヒラサカの解題から、蛇のイメージ、川、井戸、温泉などの水にまつわる話。。。不案内ながらも自分でもぼんやり思いついていた言葉を見つけたりするので「あ、やっぱりそうですよね」と喜んだりしていたのだけど、読んでいくうちにだんだん喜んでばかりもいられなくなりました。「小栗判官」というお話がこれほどまでに多彩で問題含みの話であったことにはじめて気付かされたのですが、まったく知らないことの方が圧倒的なのです。それが一体となって、とてつもなく大きなテーマに見えてきた。こうなると自筆ノートの中身などが無性に気になってきます。相関図や発想を結びつけていく手書きの線を追いかけたくなるというか。さすがにそんな資料を手にする機会はないのだけれど、「計画」に見られることを追いかけるだけでも、かの説経節の読み方が大きく変わってくるはずなのです。

自分たちが住んでいる相模原ってそういうことにつながりある土地だったのだ、と知ることにもなりました。考えてみれば、かつての時宗の総本山、無量光寺があるのは我が家からすぐそこなのです。物語が相模川を下っていくくだりは、無量光寺と遊行寺のラインがあるからだとは思っていたけれど、どうもそれだけではないみたい。原当麻という地名も大和当麻とのつながりを意識した命名だったのかも知れません。「当麻(たいま)」の意味はいまだによく分かっていないのですけど、読み方も気になる。念仏聖の果たしたもっとも大きな仕事が熊野信仰を一般に広めたことだと知れば、一遍上人ゆかりの地から熊野へ向かう物語の必然性は、むしろあからさまといっていいほど、はっきりしたものなのですね。そういう背景があったから、「照手姫」は相模原に見出されるべきだった、と考えた方が良さそうです。時宗のムーブメントが要求していたストーリーを象徴できる出来事が「照手姫」を巡って起こったのかも知れない。はっきりとした原作者がいたわけではない。史実にあったとされる出来事が、ほかの事実と混ざり合い、いくつもの着想と結びついて、数百年かけて育っていった。そのカタチが「小栗判官」という物語なのだとすれば、それは「神話」の発生とほとんど同じです。ひとりの作者がではなく、中世日本が生み出した「神話」「物語」。それがイメージ豊かに古代神話につながっていく。

*     *     *


これからいろいろ調べようと思っているので、「照手姫」や「小栗判官」のことが今後ちょくちょく出てくることになると思います。
概略程度でよいなら、サクッとひろえるところは結構あるのですけど、ひょっとしたら物語自体に興味のある方もいるかも知れないなぁって思って、テキストを探してみたら、「熊野」にありました。やっぱりというか、さすがというか。世界遺産を支えているプライドは努力のレベルも違いますねぇ。「説経節 小栗判官」についてなら、原典(と呼べるテキスト)がほぼそのまま記載されていますので、ここで把握できます。ホームページそのものも面白いので、ぜひご覧になってみてください。
見ていたら、なんだか僕も熊野にいかなきゃいけない気分になってきました。
熊野古道を歩こうか、と考えている方にはもちろんおすすめです。

でも、本来的には。。。というか、興味ある方には「説経節(せっきょうぶし)」の名作ですから、ぜひ本で読んでいただきたい。
日本人には基礎教養といっても過言でないのだけど、あらためて読み返してみると目から鱗の発見が山ほどあります。。。僕がそうでした。
わかっているつもりでいる、けど読んだことはないっていう方も、結構多いはず。たとえば「山椒大夫」なんかでも森鴎外で「ハイ、おわり」っていう方は多いのではないかと。。。「原典」と呼んでしまうとちょっとニュアンスが違うのだけれど、古くから衆生に鍛え上げられて育ってきた物語のつよさに触れてみると、近代的な視点による編集を凌駕する感情のうねりというか、現代の僕らには得体の知れない何かに触発されることがあるはずなのです。

  説経節―山椒太夫・小栗判官他 (東洋文庫 (243))
  説経集 新潮日本古典集成 第8回


  













コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 照手姫/横山丘陵緑地 | トップ | 風邪です。。。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。