昨日の晩も、今日も強風が吹き荒れて、しかも暑かった!暑いから窓を開けて風を入れたいんですが、こまかい砂が入ってくる~。ご飯の時に飯台を拭いたら、台ふきんに茶色い砂がついてげろげろでした。
明日は彼岸の入りだぜ!頼むよお天道様!!いいかげん秋になろうよ~~
○ 三浦 しをん 『お友達からお願いします』 (大和書房)
表紙裏で、しをんさんが「よそゆき仕様である!(あくまで自社比)」と書いてあるとおりに、あんまり毒毒しくもなく、飲んだくれてもおらず、奇想天外なご友人たちとの体験話はありません(爆)でも、いろんな雑誌に掲載された短いエッセイが多いので、なんだかとってもお得な感じがありました。
そんなお話のなかで、私と同じような印象を、しをんさんも感じておられてる!というお話があって、嬉しかったです。
だいぶ前ですが、脚本家の三谷 幸喜さんのエッセイ『ありふれた生活』のどれかに、元・奥様の東北在住のご親戚の家に行かれた時に驚いたことを書かれていました。ご家族が集まってお話をするときに、お互いに「相手の話を聞き終わるまで黙って聞いていること」に驚かれたんだそうです。三谷さんのご実家では、いっせいに他人のお話おかまいなしに、自分のしゃべりたいようにしゃべるそうで。それって相手の話をどうやって聞き分けるんでしょうね?テクニックがあるのかしら。
全部の東北人がそうではないと思いますが、確かに私は相手が話しているのをさえぎって自分が話すというのはしないです。相手の話を聞き終わってから話すという、自分は普通だと思っていることが、ほかの地域では驚きの行為だと言うのは面白いですよね~。
しをんさんは、青森を旅された時に「ツッコミがない」という事に気づいたというお話を、いかにもしをんさんらしい、相手に敬意を持って接する語り口で書かれています。
>P160 * 「キリストの墓とピラミッド」から引用
* しをんさんが、青森県三戸(さんのへ)にある「キリストの墓」を見に行くお話。
そうか、ここには「ツッコミ文化」がないんだ、と気づく。(タクシーの)運転手さんと私は、けっこう打ち解けて話すようになっていた。これが大阪だったら(東京であっても)、「なんやー、ヘタレやなあ」とツッコミのひとつも入る局面だ。しかし、穏やかで奥ゆかしい東北人気質ゆえなのだろうか。会話にツッコミが入ることが、旅のあいだ、ついに一回もなかった。
もちろん、もっと親しくなれば、東北人とてツッコミを入れるのかもしれない。だが、考えてみればツッコミとは、親愛と冗談でコーティングされているとはいえ、相手の発言や行動を一瞬否定することにつながる行為だ。私の感触では、どうも東北(というと範囲が広すぎるのであれば、五戸町と新郷村)のひとは、相手を極力否定しない傾向にあるようだった。
この、礼儀正しくつつましやかな態度こそが、キリストの墓とピラミッドの存在を、鷹揚に受け入れた原因ではないだろうか。いきなりやってきた古文書の研究家が、「ここがキリストの墓だ!」と言いだしたら、「んなわけあるか!」とふつうはツッコむ。しかし、ツッコむのは失礼だと考える土地柄なので、「むぐむぐ、へぇ、そうなんだ!」と人々はガッツで受け止め、七十年の年月を経るうちに、「キリストの墓だっていうんだから、まあそうなんだろう」と、おおらかに「事実」として認定するに至った。真相はどうもそのあたりにあるのではないかという気がする。
(中略)
正直なところ、私は最初うさんくさいものを見に行く心づもりだった。だが、タクシーの運転手さんをはじめ、何人かの村人と話すうち、本物か偽物かなんて、どうでもいいことだと思えてきた。みなさん、「ああ、あれ。昔、えらい先生が来て、キリストの墓だと認定したんでしょ」という反応なのだ。
地元のひとにゆるやかに受け入れられ、もう七十年もキリストの墓としてそこにある。それ以上に、いったいどんな証が必要だろう。
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明日は彼岸の入りだぜ!頼むよお天道様!!いいかげん秋になろうよ~~
○ 三浦 しをん 『お友達からお願いします』 (大和書房)
表紙裏で、しをんさんが「よそゆき仕様である!(あくまで自社比)」と書いてあるとおりに、あんまり毒毒しくもなく、飲んだくれてもおらず、奇想天外なご友人たちとの体験話はありません(爆)でも、いろんな雑誌に掲載された短いエッセイが多いので、なんだかとってもお得な感じがありました。
そんなお話のなかで、私と同じような印象を、しをんさんも感じておられてる!というお話があって、嬉しかったです。
だいぶ前ですが、脚本家の三谷 幸喜さんのエッセイ『ありふれた生活』のどれかに、元・奥様の東北在住のご親戚の家に行かれた時に驚いたことを書かれていました。ご家族が集まってお話をするときに、お互いに「相手の話を聞き終わるまで黙って聞いていること」に驚かれたんだそうです。三谷さんのご実家では、いっせいに他人のお話おかまいなしに、自分のしゃべりたいようにしゃべるそうで。それって相手の話をどうやって聞き分けるんでしょうね?テクニックがあるのかしら。
全部の東北人がそうではないと思いますが、確かに私は相手が話しているのをさえぎって自分が話すというのはしないです。相手の話を聞き終わってから話すという、自分は普通だと思っていることが、ほかの地域では驚きの行為だと言うのは面白いですよね~。
しをんさんは、青森を旅された時に「ツッコミがない」という事に気づいたというお話を、いかにもしをんさんらしい、相手に敬意を持って接する語り口で書かれています。
>P160 * 「キリストの墓とピラミッド」から引用
* しをんさんが、青森県三戸(さんのへ)にある「キリストの墓」を見に行くお話。
そうか、ここには「ツッコミ文化」がないんだ、と気づく。(タクシーの)運転手さんと私は、けっこう打ち解けて話すようになっていた。これが大阪だったら(東京であっても)、「なんやー、ヘタレやなあ」とツッコミのひとつも入る局面だ。しかし、穏やかで奥ゆかしい東北人気質ゆえなのだろうか。会話にツッコミが入ることが、旅のあいだ、ついに一回もなかった。
もちろん、もっと親しくなれば、東北人とてツッコミを入れるのかもしれない。だが、考えてみればツッコミとは、親愛と冗談でコーティングされているとはいえ、相手の発言や行動を一瞬否定することにつながる行為だ。私の感触では、どうも東北(というと範囲が広すぎるのであれば、五戸町と新郷村)のひとは、相手を極力否定しない傾向にあるようだった。
この、礼儀正しくつつましやかな態度こそが、キリストの墓とピラミッドの存在を、鷹揚に受け入れた原因ではないだろうか。いきなりやってきた古文書の研究家が、「ここがキリストの墓だ!」と言いだしたら、「んなわけあるか!」とふつうはツッコむ。しかし、ツッコむのは失礼だと考える土地柄なので、「むぐむぐ、へぇ、そうなんだ!」と人々はガッツで受け止め、七十年の年月を経るうちに、「キリストの墓だっていうんだから、まあそうなんだろう」と、おおらかに「事実」として認定するに至った。真相はどうもそのあたりにあるのではないかという気がする。
(中略)
正直なところ、私は最初うさんくさいものを見に行く心づもりだった。だが、タクシーの運転手さんをはじめ、何人かの村人と話すうち、本物か偽物かなんて、どうでもいいことだと思えてきた。みなさん、「ああ、あれ。昔、えらい先生が来て、キリストの墓だと認定したんでしょ」という反応なのだ。
地元のひとにゆるやかに受け入れられ、もう七十年もキリストの墓としてそこにある。それ以上に、いったいどんな証が必要だろう。
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