いやしのつえより引用
■『<狐>が選んだ入門書』(山村修著・ちくま新書)より。
一個の作品として光る本を読むことの幸福。そのことを考えるとき、私がいつも思い出す一篇の詩があります。フランスの作家ヴァレリー・ラルボーの書いた『罰せられざる悪徳・読書』(岩崎力訳、みすず書房)に引かれた「慰め」という散文詩です。作者はローガン・ピーアソール・スミスというアメリカ生まれの詩人、文法学者です。
<だが突然、私は読書のことを考えた。読書がもたらしてくれるあの微妙・繊細な幸福のことを。それで充分だった、歳月を経ても鈍ることのない喜び、あの洗練された、罰せられざる悪徳、エゴイストで清澄な、しかも永続するあの陶酔があれば、それで充分だった>
この一節は私の身にしみました。私も三十年間、勤め人生活をおくっていますが、生活者には、本などとまったくかかわりのないところで、さまざまな困難に打ちあたることがあります。それこそ、この詩の「私」のように、うなだれて地下鉄に乗りこむことなど、めずらしくもないでしょう。生きているかぎり、当然のことです。
しかし、本がある。どんなときにも読書というものがある。本好きはそれを救いをすることができます。
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名言だと思います。
■『<狐>が選んだ入門書』(山村修著・ちくま新書)より。
一個の作品として光る本を読むことの幸福。そのことを考えるとき、私がいつも思い出す一篇の詩があります。フランスの作家ヴァレリー・ラルボーの書いた『罰せられざる悪徳・読書』(岩崎力訳、みすず書房)に引かれた「慰め」という散文詩です。作者はローガン・ピーアソール・スミスというアメリカ生まれの詩人、文法学者です。
<だが突然、私は読書のことを考えた。読書がもたらしてくれるあの微妙・繊細な幸福のことを。それで充分だった、歳月を経ても鈍ることのない喜び、あの洗練された、罰せられざる悪徳、エゴイストで清澄な、しかも永続するあの陶酔があれば、それで充分だった>
この一節は私の身にしみました。私も三十年間、勤め人生活をおくっていますが、生活者には、本などとまったくかかわりのないところで、さまざまな困難に打ちあたることがあります。それこそ、この詩の「私」のように、うなだれて地下鉄に乗りこむことなど、めずらしくもないでしょう。生きているかぎり、当然のことです。
しかし、本がある。どんなときにも読書というものがある。本好きはそれを救いをすることができます。
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名言だと思います。