※よっちゃん兄が MLに寄せてくださった
聖書マラソンの文の一部を拝借します。
---------------------------------------------------
ドストエフスキーは、近代自由主義神学=リベラリズムが
ロシアに 台頭する時代を 生きました。
人間の思弁や知恵で聖書を理解し 理解できない部分を
観念的とらえて自分達は賢いと人々は思いました。
そこで、見つけ出された人に心地よい真理は、めっきの真理でした。
ドストエフスキーは、
「もし、真理と、イエスが違う(たがう)ことがあるなら、
わたしは、真理をとらずに、イエスをとる。」 と
言いました。 リベラリズムが薄っぺらな真理を提示しても、
そんな真理はいらない。
人の目に愚かに見えても、わたしは、十字架の福音、
イエス様の死と復活を信ずる。 そんな意味でしょうか。
きょうも、聖書の福音だけに希望を置く者でありますように。
----------------------------------------------------
これが 『信仰』なんですね。
聖書マラソンの文の一部を拝借します。
---------------------------------------------------
ドストエフスキーは、近代自由主義神学=リベラリズムが
ロシアに 台頭する時代を 生きました。
人間の思弁や知恵で聖書を理解し 理解できない部分を
観念的とらえて自分達は賢いと人々は思いました。
そこで、見つけ出された人に心地よい真理は、めっきの真理でした。
ドストエフスキーは、
「もし、真理と、イエスが違う(たがう)ことがあるなら、
わたしは、真理をとらずに、イエスをとる。」 と
言いました。 リベラリズムが薄っぺらな真理を提示しても、
そんな真理はいらない。
人の目に愚かに見えても、わたしは、十字架の福音、
イエス様の死と復活を信ずる。 そんな意味でしょうか。
きょうも、聖書の福音だけに希望を置く者でありますように。
----------------------------------------------------
これが 『信仰』なんですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます