な~んにもない

もう、わけわからんわ。

いつだって、そりゃそうだ。

2021-04-20 07:33:33 | 日記

余りにも無力で、ありのままに、ないがまま途方に暮れることがよくある。

あさひの向こう側にいた頃があった事を教えてくれる風が吹く。

挫ける私というが、挫けているのは自意識コントロールしている私の一部。

本当の私なんて、捉えたくとも条件なしに捉えることなんてできない。

自分を見失うなんて言うけれど、とてもニュートラルな状態なのかもしれない。




本当のこと?

それを知ったり手に入れたりすることで生活が安定するのなら、それを目指すのはありだろう。

補助金でもつけてくれるのなら、追及もするさ。

補助金なんてなくとも自然とそちらへ向かっていくのが本当の姿だとしても、

補助金を貰えるほうがお得で現実的なんだ。

そもそも本当のことは学者か宗教者に任せればいいじゃないか、それが仕事なんだから。

一銭の儲けにもならないどころか、七面倒くさいことで手に入るであろう儲けも消えて、

関係もぎくしゃくすることの方がリスクと考える俺の邪魔をしないでくれ。

友達?金のない奴のところにさへ集まるのが真の友達かもしれないけれど、

儲けの期待できるところに集まる、お前らの言う仮の友達が俺の現実なんだ。




行ったり来たり、今日も揺れている。

気が付けばいつも肩に力が入っていて、届きそうで届かない望む結果に振り回されて今日もここで立ち尽くしている。

解放されたいようでいて、実はそこに居心地の良さを感じ始めているのかもしれない。

迷いなんて微塵も感じさせないまっしぐらな人達の現実だって、きっと多面的に違いない。

本当も現実も分けずに、ひらけたり照らされたりできないもんかなぁ。

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「所詮、世の中ゼニとコネ」の名言が浮かぶ。

2021-04-15 07:40:20 | 日記


晴れ渡った空。マスクなしに朝の新鮮な空気を味わう。

ソーシャルディスタンス十分な距離から、かつての国民服よろしく、いつだってマスクをしているであろう御仁からも冷ややかな風が流れてくる。

あれから一年以上が経つけれど、公な検証もなく場当たり的な対応と説明が続いている。




かつて致死率80%・90%と言う結果を残した病気と同じ扱いをする不自然さを、一年たってもメディアは総務省への配慮からか報じない。

「勝った勝ったぞまた勝った」とかつて報じられたように、「増えた増えたぞまた増えた」気の緩みは許されないとやっている。

民主主義なのだから、多数派に任せてマイノリティーは黙って従っていればいいのかもしれないと澄み渡った空に深呼吸。




外食産業を生贄に、政(まつりごと)は今日も祈りをささげ続けている。

日本の農業を守りたまえ、食料自給率を上げ給えとか祝詞を上げているけれど、迫真の演技は天に通じるであろうか。

家庭内感染が感染経路の50%以上を占めているとわかっているから、自粛ファーストな街の空気にそれでも美しいものを探して歩く。




一日一万件の検査実施が保健所の努力目標としてあり、他の感染症リスクの高い時期が過ぎ、新コロ追跡調査に熱が入ってきたとも聞く。

確かに保健所の追跡実施が多くなれば、若者からの検出割合が増え、減ると高齢者の占める割合が増える傾向にあると感じている。

それに第何波というのを幾つか経験したことを考えると、一旦拡大したんなら、また一旦終息に向かうのだろう。




楽観しすぎているのかもしれないけれど、朝の空気に触れているとそんなもんだろうという気がしてくる。

本当に危なければ、医師会の人だって警笛ばかり鳴らしていないで、病床数を増やしているだろう。

もっと言えば、火葬場や葬儀場から悲しみの煙がモクモクと早朝からも上がっていることだろう。

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へこたれていても

2021-04-14 08:45:39 | 日記


通勤路途中に植えられたつつじが咲き始めた。

まだ早いだの、温暖化だの、異常気象だのと、私たちによく吹く風はそこへは届かない。

ただ勝手な感情を添えて眺めている。




季節を告げる風物詩として、よりふさわしい時期により良く咲いてくれと期待する。

そんなひと様の心を変えることはできない。

そして屋外のつつじ達が獲得した春の形も。




ままならない世の中にあるからだろうか。

期待を自分以外の存在へ、つい託してしまう。

咲く花はお構いなしに、ひとつまたひとつと開花していく。

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怯える私なんて蹴飛ばし笑え

2021-04-05 19:17:09 | 日記


昨日まで揺れていた桜の花びらが、アスファルトの上を流れていく。

バタバタと慌ただしい日々にも一旦の区切りがつきそうな気配が漂い始めた。

こうなってくるとまた、仕事が再び流れ出すまでの苦痛と苦悩が始まる。



なるようにしかならない。

どれだけ唸ってみたところで、努力と結果に確かな因果関係はない。

分かってはいるけれど、気晴らしに遊んだとしても、やはり肩の力は抜けちゃいない。

いつも結果だけで裁かれることへの恐怖と罪悪がデンと居座って私を押さえつけている。



失敗は枚挙にいとまがなく、コツコツ積み上げた利益も一瞬にして吹き飛ぶ。

そんなこと、これまで何度経験してきたことだろうか。

狂気と危険、無謀と勇気のせめぎ合いの中を、これからも素足で歩き続ける





経験という過去の価値観に染まった私からの解放を行っていかないと、新たな私は生まれてこない。

かと言って、その新たな私とやらが、存在に耐えうる代物かどうかはわからない。

イバラの道も一歩から、終わりの見えていないのは私だからかもしれないのに、それでも進み続ける奇行。




結果が出てから論を立てる評論家に聞いてみても、その真っ当でまともな回答を、役に立てる術を私は知らないようだ。

本当にそんな事でいいのかと、私にプレッシャーをかける何かが、心のどこかに今日もある。

絶望していると、摩耗の苦しみでしかなく、悪戯にすり減っている痛みでしかなくなってくる。

だから、生みの苦しみか磨かれている痛みであってくれと、出鱈目でも本当でも、にっこり微笑んで今日も祈る。

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断捨離じゃ駄目かなぁ

2021-04-03 08:26:31 | 日記
通勤途中、スマホであれこれと飛ばし読みしていた。

「放下著」と言う言葉に再び出会った。

引っ掛かりを覚えたので頭脳検索をかけてみたが、
そういう禅語がある、と言う認識しか記憶には残されていなかった。



AI検索してみて、「ほうげじゃく」と読むことを知った。

そうだっけ?と曖昧な記憶に軸足を置きながら意味を調べた。

「何物にも執着を持たず、一切さっぱりと捨て去る。

捨て去った時に本当の自分がみえる。」




そんな意味やったなぁ、と
ここは記憶と一致した。

そして具体的にイメージして行き、
さらに多くの人が実践したならと想像してみた。

ん~。
そこまでして、あるかどうかもわからない本当の自分と出会ってみたいかなぁ。




きっと、
こんな通りいっぺんな文字解釈では入り口にすら立ててはいないようだ。

究極の喜怒哀楽は、
言葉にすればありふれた表現を越えることができない事に似ているんだろうか。

そういえば、
自然の音に包まれて、その空気を地産地消する。
そんな空間も減って来てるよなぁ。


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