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新阪堺(阪堺電鉄) (屋根裏)
2015-11-27 11:25:56
大阪市電「新阪堺線」は昭和19年まで「阪堺電鉄」という会社でした。少し長いですが、新阪堺の歴史を。「新阪堺」は、大正8年に芦原橋~三宝間の軌道特許(鉄道で言う事業免許)を「港南電車軌道」と言う名称で出願した事に始まります。大正11年に軌道特許を取得、翌年の大正12年に会社設立、同時に社名を「阪堺電鐵」と変更します。大正14年、市道に軌道を敷設する許可を市会から得て、敷設工事に着手、昭和2年10月に芦原橋から三宝車庫前間が開業します。昭和3年には、浜寺延長の特許を取得して、昭和4年3月に北公園、10月には龍神通、阪堺大浜支線を平面交差で超え、昭和9年に湊ノ浜と小刻みに延長して行き、昭和10年6月1日、念願の浜寺へ到達します。しかし、夏場は大浜や浜寺への海水浴客で賑わうものの当時の新阪堺沿線は田畑と湿地帯が広がり、乗客はまばらで、「昼間でも寝転んでいける」や「カエルを運んでる」等と言われる有様。会社も乗客増を目指し、阪急を手本とした土地事業を始めます。
昭和9年、大阪を「室戸台風」が襲います、海に一番近い所を走っていた新阪堺は、車両や車庫などに高潮や強風による甚大な被害を受けました。
その“傷”がまだ癒えない昭和12年には、日中戦争が勃発、沿線に造船所の多い新阪堺の乗客は増え始めます。昭和16年、太平洋戦争が始まると利用者は爆発的に増加、歴史も浅く、車両数も少ない新阪堺は輸送に必死となり、これが無理な運転を増やし、ただでさえ不足気味の可動車両数をさらに減らす結果を産み、朝の通勤時間帯には殺人的混雑となり、積み残しも続発、ついには警察から改善通牒を受ける有様。
戦時中の事なので車両の新製もままならず、慢性的な車両不足を何とかしようと、大阪市電から車両を借り受けるも、やって来たのは小型電車で、両数もたっの5両では焼け石に水、昭和19年3月に“国家要請”で大阪市へ全事業を譲渡し阪堺電鐵の短くも波乱万丈の歴史は幕を閉じました。
阪堺電鐵線は、翌4月1日から大阪市電の「新阪堺線」となり、譲渡と同時に乗客のほとんど無かった浜寺~湊ノ浜間を休止、戦後の復興時に、昭和19年から休止中の浜寺~湊ノ浜間と「堺空襲」で壊滅的被害を受けた湊ノ浜~出島間を廃止して、最終的な路線存続区間は芦原橋~出島間となり、運転系統も29・30・31の3系統に再編されて昭和43年9月30日の路線廃止時まで活躍しました。
あと、大浜に向かっている路線は「阪堺電軌」の「大浜支線」と言います。宿院~大浜海岸間を結んでいましたが、こちらも戦時中に休止、昭和50年代に正式廃止となっています。
 
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