幻冬舎新書、2008年発行。
言わずと知れたお二人(作家の五木氏、精神科医の香山氏)による対談集です。
前項目と同じくこれも「うつ病」関係の本ですが、必ずしも鬱を否定的に捉えていない題名に惹かれて読んでみました。
五木氏の、
「鬱は力、無気力な人は鬱にならない」
「20世紀後半から21世紀初めにかけて、社会全体の流れが『躁』から『鬱』へ転じてきた」
「鬱の時代には、鬱で生きる」
というとらえ方は医者にはない発想で、斬新に聞こえました。
前半は知的好奇心をくすぐられ面白く読ませていただきましたが、後半は話が一般論化しすぎて焦点がぼけてしまったのが残念です。
<メモ>
自分自身のための備忘録。
■ 2007年の子どもの「うつ病」有病率
小学5年生から中学1年生の対面調査(何百人)で、7.4%が精神科医から見るとうつ病という診断に当てはまった。とりわけ中学1年生は10.7%と高率。
■ うつ病の生涯有病率
一生のうちに1回うつ病になる率が15%、女性は5人に1人、男性は10人に1人。
今の精神科医療の世界では、統合失調症の重症例が激減し、代わりに増えているのがうつ病である。特に10代から20代の若い人や子どもの間で、うつ病がものすごく増えている。
■ うつ病の診断は簡単?
今の診断基準だと、原因はともあれ2週間鬱状態が続いたら「うつ病」と言わざるを得ない。けれど私は、それをうつ病と言っちゃいけないと思う。「うつ病」と「うつ状態」は分けて考える方がいい。心の健康には、抗うつ剤に頼るよりも、自分の内面に向き合う方が有効な場合もある(香山)。
■ 「うつ」を広辞苑で調べると・・・
第一義には「草木の茂るさま。物事の盛んなさま」と書いてある。エネルギーと生命力にあふれているにもかかわらず、時代閉塞のなかでそのエネルギーと生命力が発揮できない。そのうちに中で何となくもやもやとしてくる「気のふさぐこと」というのは、あくまでも第二義。
「鬱蒼たる樹林」というときの鬱は、肯定的な表現であり、だから「無気力な人は鬱にならない」と僕(五木氏)は言っている。エネルギーと生命力がありながら、出口を塞がれていることで中で発酵するものが鬱である。
鬱の奥には「憂」という、外に向けられるホットな感情と、「愁」という、人間の実存を感じたときに起こる何とも言えないものという、二つの感情があり、要するに人間的だということ。この時代に鬱を感じるということは、その人がとても繊細で、人間的で、優しい人間であることの証拠である。
■ 米国精神医学会の「DSM-」の功罪
それまで診断基準が世界各国でバラバラだった状態であったが、1980年に発表されたDSM-がグローバリゼーションの役割を果たした。
DSM-では、鬱の背景を一切問わない。失業して鬱になった人も、脳に問題があって鬱になった人も、貧困などの社会的要因で鬱になった人も、その症状が2週間以上続いていればうつ病ということにするという、非常にシンプルな診断基準になった。
それまでは重視されてきた病因論的診断から症状だけによる診断へと、あまりにも急速に変わってしまい、精神科医の中でも大きな混乱が起きている。精神科医は今、自分で自分の首を絞めているような状態になっている。
■ SSRIはドラッグに近い?
新しい抗うつ剤であるSSRIはドラッグ(麻薬)に近い。それまで主要薬だった三環系抗うつ剤は、例えば今私が飲んでも眠くなったり口が渇くだけで、少しも効かない。ところがSSRIっていう、1990年代後半から世界中で圧倒的にシェアが大きくなった抗うつ剤は、これもアメリカのグローバリゼーション戦略の一つといわれているが、俗称「ハッピー・ドラッグ」といわれるくらいで、元気な人が飲んでもある程度効く。
この薬が登場したこともあって、精神科の診療現場では「うつ病」と「鬱な気分」を区別しなくてもよくなった。どちらにしても結局、治療法はある種の薬を出すだけでよくて、まったくもって便利になってしまった。
■ 「悲しいときには明るい歌ではなく悲しい歌を聴きたいもんなんだよ」
■ 神のいない日本では、どんなに自分が孤独になっても神だけは見捨てないという、最後のよすがもない。
欧米における神は「誰が見捨てても愛してくれるもの」という役割があり、ここが決定的に違う。日本には、一神教的な絶対神としての神がいないので、いわば神無き人生を送らなければならない。おそらくキリスト教文化圏の人たちの鬱と、神無き民族にとっての鬱というのは違うような気がする(五木)。
■ ヨーロッパのエコロジーは人間中心
キリスト教は根本的に、エコロジーには合わない。自然をどんなふうに開発しようと、草木を切ろうと魚を捕ろうと、生活を豊かにするためには何をしてもいい、というのが基本だから。
ヨーロッパのエコロジーの考え方は、これ以上木を切ったり、海や大気を汚したりすると、大事な人間の生活まで危うくなるから、もっと制限しようという発想で、あくまで人間が中心である。
■ 日本における鬱の文学の系譜
夏目漱石は完全に鬱、芥川龍之介も鬱、宮沢賢治だって多少躁の気もあるけど、基本的には鬱の人(五木)。
■ アメリカは「神の国」である。
明治以来の西欧理解はひどく偏っている。アメリカがいかに「神の国」で、合衆国憲法とか独立宣言に、どれくらい神という言葉が出てくるか日本人は知っているだろうか。司法・行政・立法の全部にわたって神が関係していて、経済も含め、あらゆる所へ神の影が落ちている国なのに、アメリカというのは物質文明の国だという受け取り方をしてきた経緯は正しい理解とは言えない。
言わずと知れたお二人(作家の五木氏、精神科医の香山氏)による対談集です。
前項目と同じくこれも「うつ病」関係の本ですが、必ずしも鬱を否定的に捉えていない題名に惹かれて読んでみました。
五木氏の、
「鬱は力、無気力な人は鬱にならない」
「20世紀後半から21世紀初めにかけて、社会全体の流れが『躁』から『鬱』へ転じてきた」
「鬱の時代には、鬱で生きる」
というとらえ方は医者にはない発想で、斬新に聞こえました。
前半は知的好奇心をくすぐられ面白く読ませていただきましたが、後半は話が一般論化しすぎて焦点がぼけてしまったのが残念です。
<メモ>
自分自身のための備忘録。
■ 2007年の子どもの「うつ病」有病率
小学5年生から中学1年生の対面調査(何百人)で、7.4%が精神科医から見るとうつ病という診断に当てはまった。とりわけ中学1年生は10.7%と高率。
■ うつ病の生涯有病率
一生のうちに1回うつ病になる率が15%、女性は5人に1人、男性は10人に1人。
今の精神科医療の世界では、統合失調症の重症例が激減し、代わりに増えているのがうつ病である。特に10代から20代の若い人や子どもの間で、うつ病がものすごく増えている。
■ うつ病の診断は簡単?
今の診断基準だと、原因はともあれ2週間鬱状態が続いたら「うつ病」と言わざるを得ない。けれど私は、それをうつ病と言っちゃいけないと思う。「うつ病」と「うつ状態」は分けて考える方がいい。心の健康には、抗うつ剤に頼るよりも、自分の内面に向き合う方が有効な場合もある(香山)。
■ 「うつ」を広辞苑で調べると・・・
第一義には「草木の茂るさま。物事の盛んなさま」と書いてある。エネルギーと生命力にあふれているにもかかわらず、時代閉塞のなかでそのエネルギーと生命力が発揮できない。そのうちに中で何となくもやもやとしてくる「気のふさぐこと」というのは、あくまでも第二義。
「鬱蒼たる樹林」というときの鬱は、肯定的な表現であり、だから「無気力な人は鬱にならない」と僕(五木氏)は言っている。エネルギーと生命力がありながら、出口を塞がれていることで中で発酵するものが鬱である。
鬱の奥には「憂」という、外に向けられるホットな感情と、「愁」という、人間の実存を感じたときに起こる何とも言えないものという、二つの感情があり、要するに人間的だということ。この時代に鬱を感じるということは、その人がとても繊細で、人間的で、優しい人間であることの証拠である。
■ 米国精神医学会の「DSM-」の功罪
それまで診断基準が世界各国でバラバラだった状態であったが、1980年に発表されたDSM-がグローバリゼーションの役割を果たした。
DSM-では、鬱の背景を一切問わない。失業して鬱になった人も、脳に問題があって鬱になった人も、貧困などの社会的要因で鬱になった人も、その症状が2週間以上続いていればうつ病ということにするという、非常にシンプルな診断基準になった。
それまでは重視されてきた病因論的診断から症状だけによる診断へと、あまりにも急速に変わってしまい、精神科医の中でも大きな混乱が起きている。精神科医は今、自分で自分の首を絞めているような状態になっている。
■ SSRIはドラッグに近い?
新しい抗うつ剤であるSSRIはドラッグ(麻薬)に近い。それまで主要薬だった三環系抗うつ剤は、例えば今私が飲んでも眠くなったり口が渇くだけで、少しも効かない。ところがSSRIっていう、1990年代後半から世界中で圧倒的にシェアが大きくなった抗うつ剤は、これもアメリカのグローバリゼーション戦略の一つといわれているが、俗称「ハッピー・ドラッグ」といわれるくらいで、元気な人が飲んでもある程度効く。
この薬が登場したこともあって、精神科の診療現場では「うつ病」と「鬱な気分」を区別しなくてもよくなった。どちらにしても結局、治療法はある種の薬を出すだけでよくて、まったくもって便利になってしまった。
■ 「悲しいときには明るい歌ではなく悲しい歌を聴きたいもんなんだよ」
■ 神のいない日本では、どんなに自分が孤独になっても神だけは見捨てないという、最後のよすがもない。
欧米における神は「誰が見捨てても愛してくれるもの」という役割があり、ここが決定的に違う。日本には、一神教的な絶対神としての神がいないので、いわば神無き人生を送らなければならない。おそらくキリスト教文化圏の人たちの鬱と、神無き民族にとっての鬱というのは違うような気がする(五木)。
■ ヨーロッパのエコロジーは人間中心
キリスト教は根本的に、エコロジーには合わない。自然をどんなふうに開発しようと、草木を切ろうと魚を捕ろうと、生活を豊かにするためには何をしてもいい、というのが基本だから。
ヨーロッパのエコロジーの考え方は、これ以上木を切ったり、海や大気を汚したりすると、大事な人間の生活まで危うくなるから、もっと制限しようという発想で、あくまで人間が中心である。
■ 日本における鬱の文学の系譜
夏目漱石は完全に鬱、芥川龍之介も鬱、宮沢賢治だって多少躁の気もあるけど、基本的には鬱の人(五木)。
■ アメリカは「神の国」である。
明治以来の西欧理解はひどく偏っている。アメリカがいかに「神の国」で、合衆国憲法とか独立宣言に、どれくらい神という言葉が出てくるか日本人は知っているだろうか。司法・行政・立法の全部にわたって神が関係していて、経済も含め、あらゆる所へ神の影が落ちている国なのに、アメリカというのは物質文明の国だという受け取り方をしてきた経緯は正しい理解とは言えない。