発達障がい・こころのやまい

専門外ながら相談を受けることがあり、その際に読んだ本や集めた情報を書き留めました(本棚9)。

「僕のこころを病名で呼ばないで」(青木省三著)

2015-01-26 13:16:34 | 
ちくま文庫、2012年(単行本は2005年)発行
副題:思春期外来から見えるもの

近年、私の周囲では発達障害を早期に診断しようという流れがあります。
早期診断が療育につながるので本人のため、という理屈なのですが、療育サポートが不十分のため果たして本人のためになっているのか、いやむしろ周囲の安心のためになっているだけではないのか、という声も聞こえてきてなかなか単純ではありません。

そんな中、この本に出会い題名に引かれて読んでみました。

上記のことも含め、示唆に富む文言がたくさんありました。
診断は本人のためにされるものであり、周囲のためだけになってはいけない、と著者もコメントしています。
とくに学校では「その子がどういう子か、というより診断名の方が重要なんです」と教師に言われてショックを受けたと記しています。

また、時代によりその時の社会情勢が病名診断に影響するという文言を興味深く読みました。
人間のこころは正常と異常の間に連続的に分布し、グレーゾーンが基本である、現在はグレーゾーンに病名をつけて仕分けする動きが強い印象があり、これは現代社会に個性を認める寛容性が欠けていることに起因する、という下りに頷きました。

精神科外来の現場は、人間の内なるものを病的かどうか判断して治療対象にするという難しい分野なんだな、と改めて気づかされました。

<メモ>
 自分自身のための備忘録。

■ 居眠りをしない子どもたち
Q. 少しでも気持ちよく生きて健康を維持しようとするには何に注意したらよいか?
A. 気持ちよく眠れることと、おいしく食事を食べられること。
 気持ちよく眠れて、美味しくご飯が食べられるときに、突然、こころの病になることはない。それは、晴れた空から突然大雨が降り出すようなものである。
 なかなか寝付けない、気持ちよく眠れない、食べても美味しいと感じられない、食欲が落ちるなど、両方あるいはどちらかに何かあると、それはこころの危険信号であることが多い。また、睡眠・食欲の回復は、こころの病気などがどのくらいよくなったかを判断する大切な材料である。よくなってくる患者さんのお話を伺うと、昼寝や居眠りが気持ちよくできるようになっている人が多い。
 そして思春期外来で出会う子どもたちは、授業中に居眠りしたことがないと云うことが少なくない。そう言う子どもたちの多くが、みんなの中にいると緊張する子どもたちであることがわかった。居眠りというものは、その場にいる友人や学校の教師などの中で安心できて初めてできるものだと思う。
 
■ 休み上手になる~スイッチ・バックで行こう
 人間が健康であるためには精神の活動にリズムがあることが大切である。集中したり、緩んだり、緊張したりというリズムがあるので健康でいられるし、いろいろな状況に耐えられるのだと思う。リズムはしなやかさと粘り強さを作る。
 不登校や引きこもりの一部の青年には、休むことが下手な人たちがいる。とにかくやり始めたらやり続けてしまい、緩急のリズムがない。ずっと集中し続け緊張していて、ある時ポキンと折れるように疲れが出てしまう。
 何もかも完全にやらないといけないと思い、ずっとやっていくというのは大きな負担を強いるもので、緩急・強弱のリズムを作るとか、物事の優先順位、大事なものと置いておけるものとの区別と順番を自分でつけられるようになると随分楽になってくる。

■ 時代が求める「子ども像」
 時代が落ち着いた子どもを求めるとき、活発な子どもは「問題児」として現れてくる可能性があるし、時代が活動的な子どもを求めていれば、落ち着いた子どもは「落伍者」になる可能性がある。例えば戦国時代であれば、「乱暴な子ども」な「勇敢な武士」となったかもしれないのである。

■ 「個性」と「人格障害」はどのように違うのだろうか?
 明瞭な基準はないと思うが、強いて云えば、本人が自分の行動によって悩んでいるか、周囲の人がその人の行動によって悩んでいるかどうか・・・かもしれない。そう仮定した場合、拡大してみると時代と文化、絞って見るとその人の周りの環境が、個性か人格障害かを決めていくのではないだろうか。
 人格障害を声高に云う時代は、変わった人や人から人への迷惑への許容量が小さい、いろいろな人を社会の中に抱えておくことのできない懐の狭い時代であるという一面を表している。人格障害が協調される時代とは、多様な生き方が認められにくい時代ではないかと思う。
 人格障害と呼ばれると、それは精神医療の対象となる。これは本当によい方向への変化なのだろうか。一時期荒れていたが、いろいろな人や出来事に揉まれ、角が取れて丸くなると云うような、成長や成熟による穏やかな変化の可能性を閉ざしてしまうように思う。それだけでなく、若者が自身を病人と捉え、周囲の大人も若者を病人と捉えていくことによって、若者が病人というアイデンティティを獲得していき、自らが脱皮し成熟しにくくなるのではないか、と私は危惧している。
 最近、人格障害(Personality Disorder)を原語に準じてパーソナリティ障害と言い換えようという動きがある。パーソナリティは、人格と比べてよりその人全体という雰囲気がなく、人格よりも変わるという可能性を感じさせる。

■ 思春期という危機~「みんな悩んで大きくなった」では済まなくなった?
・クレッチマー(1949年)身体的成熟と精神的成熟のズレから生じるもので、「けっして疾病でも神経症でもなく、むしろ限局された体質的な時間経過である」
・エリク・エリクソン(1959年)同一性の危機(青年期の自我同一性の獲得が困難・・・自分らしさが作り出せない危機?)
 思春期危機という用語には「思春期とは誰にとっても大なり小なり危機的である」という健康との連続性、「思春期に悩むことは精神的な成長に不可欠である」という肯定的位置づけ、「嵐のように過ぎ去る」という一過性のイメージが内包され、「みんな悩んで大きくなった」という共通の感覚が臨床家にあった。
 しかし、1980年に改定された米国精神医学会による精神障害の分類・第三版(DSM-Ⅲ)は我が国の臨床にも強い影響を与え、「思春期危機」という診断は使われなくなり、適応障害や人格障害などに分類されるようになった。
 「適応障害」という用語には、どこか社会適応に失敗した適応力の低い青年というイメージが、人格障害という用語にも否定的なイメージがあり、また障害という用語は一過性でなく持続的なものを感じさせてしまう。一方の「思春期危機」は、しんどいけれど病気ではない、大人になるのを援助しようとした概念である。危機とは云っても、明瞭な生存の危機のようなものではなく、人生の不確かさの中で生きる意味を探すという哲学的とも云えるものであった。

■ 時代が生んだ「境界性人格障害」
 青年を不安定にさせ、境界性人格障害的な特徴を表出させやすくしているものとして、自分の将来が見えない、ということがあるのではないかと考えている。親の仕事を継ぐのが当たり前であった時代では、青年はそれほど不安定にはならなかったと思う。自分の将来を自分で選択する可能性が出てきて、将来の選択肢が増え、さらにたとえ選ばなくても当面の生活には困らない時代へと移りゆく中で、青年は選択の自由を手に入れると共に、選択することの責任の重みに耐えなければならなくなってきている。

■ ADHDは学校というシステムがあぶり出した病気
 学校がなかった時代、ADHDは病気と考えられることはなく、問題とすら考えられることもなかったのではないだろうか。しかし学校というシステムに自分を合わせていかねばならなくなり、その時初めて「元気で活発な子」がADHDという病名で呼ばれるようになったとは考えられないだろうか。
 気分障害(躁うつ病)の躁状態、軽躁状態は創造性や活動性を発揮し時代を切り開いていく一翼を担ってきたし、また統合失調症の繊細な感受性は時代の動きを先取りしたり、美しい音楽や芸術を作り出してきたりしたが、多くの場合、病気とは呼ばれなかった。
 こころの病気は時代と文化によって浮き上がってきたり、背景に退いたりするものであることにこころを留めておきたい。

■ 挫折しそれを乗り越える実体験が大切
 外来で出会う子どもたちの一部には、ある程度の年齢になって初めて負けを経験したという人がいる。勉強でも運動でも小学生/中学生の時に優秀であったことが、競争をして負けるという体験を持てなくしてしまう。それが、中学生や高校生になったときの負けるという体験を耐え難いものにするのである。
 思春期や青年期に挫折を体験したとき、よし、もう一度がんばってみよう、もう一度やり直そうという気持ちになるには、小学生や中学生の時、遊びの中で勝ち負けを体験し負けるという悔しさを味わうことによって、打たれ強さや粘り強さを獲得しておかなければならない。
 最近の学校の運動会では、順番をつけ競争する競技が減り、マス・ゲームなどが増えてきている。また文化祭の劇では、主役や脇役がハッキリせず、何となくみんなが主役のようになって、子どもに差をつけないよう配慮していると聞く。確かにその時点では差はつかないけれども、長い目でみて、これは子どもにとって本当によいことなのだろうかと改めて疑問に思う。

■ テレビゲームの弊害
 ファミコンの格闘技では、直接の人間関係においてどこでブレーキをかけたらよいかが学べない。ゲームのキャラクターは絶えずパワーアップできるようになっているし、戦いに敗れてもリセットで復活する。これでは、これ以上やっては危ないというような現実のケンカの限度を覚えることはできない。
 痛みという感覚を伴った体験、直接的な体験から、子どもたちはこれくらいで止めておこうという限度を知る。体を通したやり取りの中で限度という感覚は育まれる。

■ 精神疾患の診断は誰のため?
 診断をあまりに早く伝えることによって、混乱だけを生じさせることもあるように思う。病気の診断を早期に説明することがよい医療という雰囲気があるが、診断を伝えることが本人と家族にどのような影響を与えるかについての予測なしに、診断を伝えることには慎重でありたい。
 「学校の先生から病院に行ってみなさいと言われてやってきました」という子どもと親に出会ったとき、ふと教師の仕事を免除するために、診断が求められているのではないかと感じることがある。生徒の「問題」であるならば学校の責任、「病気」であれば医療の責任とでもいうような雰囲気を感じる場合がある。

■ “完璧な親”という幻想
 「完全」ではなく「不完全」を認められるようになることが、親子ともに大切。
 子どもたちは、親に「完璧な親」という「無いものねだり」をする。それに完璧に応えようとするのではなく、かといって、あっさり投げてしまうのでもなく、自分のできることをするということで、ある種の不完全さと限界を粘り強く伝えていくことが大切なのである。

■ “受容”とは“子どもが求めることを何でも受け入れる”ことではない
 “受容”は要求や乱暴な行動を受け入れるということではなく、子どもの気持ちや考えと自分の気持ちや考えとは異なってはいるが、子どもの気持ちや考えを理解しようとし、子どもという存在そのものをそのままで認め受け入れていく、というものではないだろうか。それは、子どもを自分とは異なった個人として認め、子どもの側に立ってものを見るということであって、どちらが正しいかという問題ではない。まして子どもの要求や行動を無条件に認めるということではない。

■ 青年の居場所3つ
 青年は以下の3つの場を、行き来しながら成長していく;
1.家族を感じる場:青年が家族とともに過ごす時と場
2.自分を感じる場:青年が安心して一人になれる時と場
3.仲間を感じる場:同年配の人が安心して集える時と場

■ 「かくれんぼ」の意義
 「身を隠す」ことは、影響力の強い人(特に親)に対して心理的距離を持つことであり、人に対してこころを隠し、自分を持つことにつながるのではないか。
 本来、子どもの発達や成長というものは、幼児期における「かくれんぼ」に始まり、思春期で秘密や隠し事が持てるようになるまで、こころの中に当の本人にさえ見えない領域が広がってゆく過程ということができる。
 それは、大人の側から見れば“子どものこころが見えなくなる、子どもがわからなくなる”過程でもある。ただ、わからなくても、大人になりつつある子どもを対等な存在として認め、その意見を聞くことはできるし、子どもの考えを尊重することはできる。

■ ひきこもりは“のんびり”していない
 数年間ひきこもっていても、のんびりとした時間が少しも持てていない人が少なくない。「毎日毎日が、攻められるように、これじゃあいけない、明日こそ何かしなくちゃいけないと思いながら過ぎていき、気持ちだけ焦って時間が経ってしまった」という人が多い。
 周りから見るとひきこもりの期間は長く、何もしないでのんびりしているように見えるが、本人からすると、ハラハラ、ドキドキしたなんとなく落ち着かない日の連続であることが多い。

■ 引きこもっている子どもの親へのアドバイス
 子どもを心配することはあくまでも家庭生活の一部であって、決して家庭生活の全部にならないように。家庭の風通しをよくして、ご両親もほどほどに自分の好きなことをしてください。
 ご両親が子どものために自分や生活を犠牲にすることは、子どもにあまりプラスでないことが多い。子どもは自分のためにお父さんお母さんが何かを犠牲にしていると思うと、親に二重の迷惑や負担をかけているという気持ちになる。ご両親が比較的自由に振る舞うことの方が、子どもは気持ちが和らぎ、迷惑をかけているという気持ちにならずに済むことが多い。
 子どもが引きこもっているところに土足でずかずかと入っていくのは避けなければならない。しかし、いくらか控えめに、定期的に、息長く「心配しているよ」というサインを送り続ける事は大切である。子どもは、あるとき、ふとそのサインに気づき、自分は決して一人ではないということを知る。誰も心配してくれていない状況の中で、子どもだけが元気になることは難しい。押しつけがましくないサインこそが、実は子どもがふと考えや気持ちを変える契機となるのではないかと思う。
 大人は即効性のある援助を考えやすいが、数年先に向けて種を蒔くような援助が、実は大切なのではないだろうか。

■ “見られている恐怖”を感じる人は“見る立場”に替わってみてください
 外に出ると人に見られているような気がするという青年には、「デパートかスーパーに行って、自分が人から見られにくいベンチでも探し、そこから買い物をしている人をよく見てごらん」と話す。「見られている」と気にしているが、それはあくまで、漠然とした「感じ」であり、自分の方からしっかり見てみると、意外に人はそれぞれが別々の方向を見ているのに気づくことがある。
 自分の方から見ようとすることは、見られているという受動的な姿勢から、少し積極的な能動的な姿勢に変わることであり、しんどい状況から抜け出すきっかけになり得る。

■ 人間関係が難しいのは社会より学校かもしれない
 家から学校に行きそして社会に出る。家より学校が、学校より社会がより人間関係が難しいと一般的に考えられているが、果たしてそうだろうか。学校は、実は人生で一番に人間関係が難しいところかもしれない。だって、40人の人が朝から夕方まで一緒にいる職場なんてあまりないでしょう。だから、人間関係で一番苦しむところは、実は学校かもしれない。
 教室でよい対人関係をもてず、その上に授業も十分に理解できないとしたら、教室は子どもにとって苦痛な時間をただ絶えるだけの場所になってしまう。
 そのような学校を変えてきたのが、実は不登校やADHDなどと呼ばれる子どもたちではないだろうか。
 単位制の学校やスクールカウンセラー制度などをはじめとして、学校は従来の画一的なものから、より多様なものへ、子どものニーズに合わせたものへと形を少しずつ変えてきているように思う。既成の学校には子どもたちが納まりきらないことを身をもって示したのではないだろうか。

■ 精神疾患はその時代を反映する
 フロイトのヒステリー論は、経済的に裕福な市民層ができ近代個人主義が発達する中で、集団中心的な生き方と個人主義的な生き方の矛盾に苦しむ人たちが出現してきたのを背景としているように思うし、境界性人格障害や摂食障害には、第二次世界大戦後にアメリカを中心とした西欧諸国が豊かになった結果、青年が生きる道筋や目標が見えなくなったことが背景にあるように思われる。
 その時代・社会で注目されている病気は、実はその社会がある必然性をもって浮かび上がらせた産物であり、治療や援助は、その時代の、その社会に足りなくなったものを補完するという側面があるようにも思うのである。

■ 診断すると子どもを“病名”で見てしまいがち
 学校の教師からある子どもにアスペルガー症候群の可能性はないかという相談を受け、面談・診察した後「その可能性はあると思うが、病名がどうかというよりもこの子どもの得意なものと苦手なものをよく見て対応することが大切だと思う」と話すと、教師に「学校では病気であるかどうかが大事なのです。それにより学校の子どもへの対応が違ってくるのです」といわれて驚いたことがある。
 正確に診断することは大切だが、多くの子どもの問題が病気とみなされると、医師の診断や治療の対象としてみられ、周囲の大人の目に子どもそのものが入らなくなることを私は危惧する。

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