《重要暗記ポイントー国学の四大人》
●享保期、契沖に学んだ荷田春満は『創学校啓』を吉宗に提出。その門人であった賀茂真淵は『国意考』『万葉考』などを著した。さらに真淵の門人である本居宣長は『古事記伝』を著し、国学を大成。宣長の死後の門人として平田篤胤が出て復古神道をおこし、尊王譲位運動に影響を与えた。「経過だ家紋 もとあった」と国学の祖と称された契沖の名と、国学の四大人の名前と活躍の順序を覚えよう。 契沖 荷田春満 賀茂真淵 本居宣長 平田篤胤
[ポイント]
1.国学は契沖→荷田春満→賀茂真淵→本居宣長→平田篤胤と発展。
[解説]
1.戸田茂睡(1629~1706)は、秘事口伝・制の詞(せいのことば)(和歌で使用を制限された歌語)などによる和歌の自由が束縛されることを否定。歌学の革新を提唱。
2.契沖(1640~1701)は、古典研究に合理的方法を開き、国学の基礎を築く。和歌に使えない言葉(制の詞)が定められてきたことの無意味さと、俗語を用いることの正当さを説いた。
3.荷田春満(1669~1736)は、日本固有の道(古道)を明らかにするために、「万葉集」「古事記」「日本書紀」の研究の基礎を開く。この荷田春満から平田篤胤までの4人が国学の四大人と呼ばれる。
4.賀茂真淵(1697~1769)は、古代の日本精神すなわち古道への復帰を説き、国学に思想的発展の契機を与える。
5.本居宣長(1730~1801)国学上の巨人、大成者。「大和心(やまとごころ)(日本古来の精神)」へもどるべきだと説き、文学の本質を「もののあはれ」にあるとした。
6.平田篤胤(1776~1843)は、国学に神道的色彩を加え、尊王思想・排仏・排儒の国粋主義にたつ復古神道を確立。尊王攘夷運動に影響。
〈2013慶大・文:「
次の文章を読んで、文中の空欄(K~O)に該当する適当な語句をそれぞれの語群の中から選び、l~9の数字を、また語群の申に適当な語句がない場合は0をに記入しなさい。
元禄期からの古典研究は、国学の興隆へとつながった。( K )の門人である賀茂真淵は『( L )』を著して儒仏を排した日本固有の道を論じ、その教えを受けた本居宣長は『( M )』を著して日本古来の精神への回帰を主張した。続いて平田篤胤は、( N )と呼ばれる神道説を大成した。一方、塙保己一は( 0 )を設立して『群書類従』の編纂に従事した。こうした国学の興隆は、幕末期の政治運動にも影響を与えることとなった。
l復古神道 2国意考 3荷田春満
4垂加神道 5契沖 6本朝通鑑
7蕃書調所 8古事記伝 9和学講談所
(答:K3,L2、M8、N1、O9)〉
〈2013早大・文化構想学部
近世は、多種多様の学問が成立し、展開した時代だった。まず、江戸時代になると、儒学が盛んになっていき、特に朱子学が幕府や諸藩に受け入れられた。また一方では、朱子学に批判的な儒学者も現れた。さらに、e.歴史・古典の研究や自然科学への関心も高まり多くの著作が出された。
問7 下線eに関連して述べた文のうち正しいものはどれか。1つ選べ。
ア 徳川光圀は、歴史書『本朝通鑑』の編纂を開始した。
イ 賀茂真淵は、門人の荷田春満に『古事記』研究を指導した。
ウ 戸田茂睡は従来の歌学を批判し、用語の自由を説いた。
エ 吉田光由は『発微算法』を著し、和算の普及に功があった。
オ 稲生若水は本草学を研究し、『大和本草』を著した。」
(答:ウ ※ア×本朝通鑑→大日本史、イ×荷田春満は賀茂真淵に、エ×発微算法→塵劫記)〉
〈2013慶大・文
( K )の門人である賀茂真淵は」
(答:荷田春満)〉
〈2013法大・法国際文化キャリアデザイン
本居宣長は30年以上の歳月をかけて[ D ]を著して、日本古来の心のありさまを説いた」
(答:古事記伝)〉
〈2013法大・法国際文化キャリアデザイン
本居宣長につづく[ 8 ]も、儒教や仏教という外来思想を排斥して古神道を主張し(復古神道)、幕末の尊王攘夷運動に多大な影響をあたえることになった」
(答:平田篤胤)
万葉大好き傾注し。
『万葉代匠記』 契沖 注釈書
(契沖)(万葉代匠記(まんようだいしょうき))
[ポイント]
1.契沖の主著は、『万葉代匠記』。
[解説]
1.契沖(1640~1701)は、祖父、父は武士。若くして出家し、高野山で学問に志して頭角を現し、高僧(阿闍梨(あじやり)の地位)に達す。のち下河辺長流(しもこうべちようりゆう)(?~1686)に学び、古典研究を行い国学の基礎を築く。『万葉集』を研究し、多くの実例によって戸田茂睡の説の正しさを明らかにした。
2.契沖は徳川光圀の命で注釈・研究書『万葉代匠記』を著し、和歌を道徳的に解釈しようとする従来の説を批判した。
〈2012立大・文学部
下線部1元禄文化に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。
a.尾形光琳は京都の町衆の画風を学び、『洛中洛外図巻』を描いた。
b.熊沢蕃山は孔子・孟子の古典に直接たちかえろうとする古学派を創始した。
c.契沖は『万葉集』を研究し、『万葉代匠記』を著した。
d.関孝和は和算を発達させ、『塵劫記』を著した。」
(答:a×光琳作に『洛中洛外図』は知られていない、b×蕃山は中江藤樹門下の陽明学者。古学派は山鹿素行、伊藤仁斎・東涯父子ら、d×吉田光由の著作)
非難に発想学校か。
1728年 創学校啓荷田春満
[ポイント]
1.荷田春満(1669~1736)は、『古事記』や『日本書紀』を研究し、日本固有の道(古道)を明らかにするために、古語・古典(国学)の振興を説く。
2.儒学中心の学問のあり方を批判、国学中心の学校設立を唱え、古典研究(国学)の学校創設を『創学校啓』で8代吉宗に建言(1728年)した。書名は和学校を創造することを啓蒙するの意。
〈2013慶大・文
次の文章を読んで、文中の空欄(K~O)に該当する適当な語句をそれぞれの語群の中から選び、l~9の数字を、また語群の申に適当な語句がない場合は0をに記入しなさい。
元禄期からの古典研究は、国学の興隆へとつながった。( K )の門人である賀茂真淵は『( L )』を著して儒仏を排した日本固有の道を論じ、その教えを受けた本居宣長は『( M )』を著して日本古来の精神への回帰を主張した。続いて平田篤胤は、( N )と呼ばれる神道説を大成した。一方、塙保己一は( 0 )を設立して『群書類従』の編纂に従事した。こうした国学の興隆は、幕末期の政治運動にも影響を与えることとなった。
l復古神道 2国意考 3荷田春満
4垂加神道 5契沖 6本朝通鑑
7蕃書調所 8古事記伝 9和学講談所」
(答:K3,L2、M8、N1、O9)
国学・賀茂真淵
[ポイント]
1.賀茂真淵の主著は、『万葉考』と『国意考』。
[解説]
1.賀茂真淵(1697~1769)は遠江国の神職の子に生まれる。荷田春満に学び、御三卿田安宗武に国学をもって仕える。
2.『万葉集』を研究し独自の注釈を加えた『万葉考』を著し、『国意考』では儒仏を批判し、古道復帰を説き、国学に思想的発展の契機を与える。また本居宣長ら多くの門人を育てた。
〈2016明大・農:「
問4 下線部(イ)従来の国学者の研究に関連して、国学者とその著作物の組み合わせとしてもっとも適切なものを一つ選べ。
A荷田春満-『玉勝間』
B賀茂真淵-『国意考』
C本居宣長-『群書類従』
D塙保己一-『古事記伝』
E平田篤胤-『農政本論』」
(答:B)〉
〈2016上智大・神外(英)総人(教・心):「
遠江国浜松の神職の子で、a荷田春満に学び.1746年b和学御用としてc徳川吉宗に仕え、『万葉集』や『古事記』の研究からd古道説を説き.『国意考』を著し、儒仏の影響を受けない純粋な日本固有の道を主張した。
〔語群〕
1習合 2契沖 3本居宣長 4松平定信
5徳川家治 6漢心 7田安宗武 8塙保己一」
(答:c7田安宗武 ※Fは賀茂真淵)〉
〈2015立命館大・全学部2/2:「
問 下線部gの「かれ」の氏名を答えよ。かつqの問に答えよ。
gかれは、伊勢松坂の出身で、京都で医学の修学中に日本の古典研究にめざめ、『源氏物語』などの研究に没頭した。やがて、7師事した学者の勧めもあって『古事記』研究に専心し、主著『古事記伝』で儒教を厳しく批判し、「やまとことば」「やまとごころ」を古代日本の事績に見い出している。
q 下線部7に関連して、この学者は、『万葉考』「国意考」などの著書で知られる学者である。その氏名を答えよ。」
(答:g本居宣長、q賀茂真淵)
〈2013愛知教育大・前期
問3 下線部2契沖や賀茂真淵のように、和歌や日本の古典に関心を抱く人々が登場してきたについて、本居宣長に影響を与えた。和歌や日本の古典にたいする契沖や賀茂真淵の学問方法とは、どのようなものであったか、述べよ。」
(解答例:契沖は『古事記』や『日本書紀』などを実証的に研究し、古典研究を学問のレベルまで高めた。また賀茂真淵はその成果を体系化し学問として完成させた。)〉
〈2013慶大・文
賀茂真淵は『( L )』を著して儒仏を排した日本固有の道を論じ……」
(答:L国意考)〉
〈2012同志社大・神商心理:「
問d.真淵の著作であり、1765年に成立し、1806年になって刊行された、儒仏の影響を受けない日本固有の道を主張した著書名を記せ。」
(答:国意考)〉
人なくば元古事記伝。
(漢心(からごころ)を排す)(本居宣長(もとおりのりなが))(古事記伝)
[句意]心から言います、モトつまりオートバイを降りる、つまりやめる好時期です、とオートバイ乗りのお爺さんを諫(いさ)めている句。
[ポイント]
1.本居宣長は、漢心を排し、『古事記伝』を著した。
[解説]
1.本居宣長(1730~1801)国学上の巨人。賀茂真淵に学ぶ。伊勢松坂の医者。自宅を塾とした鈴屋(すずのや)で多くの門人を育てる。
2.『古事記伝』44巻で「古事記」を文献学的、実証主義的研究態度で注釈。その巻1(全44巻)は総論「直毘霊(なおびのみたま)」で、「漢意(からごころ)」を排し、「大和心(やまとごころ)(日本古来の精神)」へもどるべきだと説く。
3.『源氏物語玉小櫛(たまのおぐし)』では「源氏物語」を注釈し、文学の本質を「もののあはれ」にあるとした。紀州藩主徳川治貞への政治意見書『秘本玉くしげ』では、国を治める心構えを、宣長の古道説によって論じている。また、円熟した宣長が古典研究を通じて悟った境地を述べた手記に『玉勝間(たまかつま)』がある。
〈2016明大・農
問4 下線部(イ)従来の国学者の研究に関連して、国学者とその著作物の組み合わせとしてもっとも適切なものを一つ選べ。
A荷田春満-『玉勝間』
B賀茂真淵-『国意考』
C本居宣長-『群書類従』
D塙保己一-『古事記伝』
E平田篤胤-『農政本論』」
(答:B ※塙保己一『群書類従』、佐藤信淵『農政本論』「う」、「の」、「ろ」に着目!)
〈2014明大・国際日本(国際日本)
次の史料Ⅰは近世の社会について述べたものである。これを読んで、以下の設問に対するもっとも適切な答えを選べ。
【史料Ⅰ】
百姓町人大勢徒党して、強訴濫放することは、昔は治平の世には、をさをさうけ給はり及ばぬこと也。近世になりても、先年はいと稀なる事なりしに、近年は年々所々にこれ有て、めづらしからぬ事になれり。(中略)いづれも困窮にせまりて、せん方なきよりおこるとはいへども、詮ずる所上を恐れざるより起れり、(中略)抑此事の起るを考ふるに、いづれも下の非はなくして、皆上の非なるより起れり。今の世百姓町人の心も、あしくなりとはいへ共、よくよく堪がたきに至らざれば、此事はおこる物にあらず。(中略)然るに近年此事の所々に多きは、他国の例を聞て、いよいよ百姓の心も動き、又役人の取はからひもいよいよ非なること多く、困窮も甚だしきが故に、一致しやすきなるべし。(中略)近年たやすく一致し固まりて、此事の起りやすきは、畢竟これ人為にはあらず。上たる人深く遠慮をめぐらさるべきこと也。然りとていかほど起らぬやうのかねての防ぎ工夫をなす共、末を防ぐばかりにては、止めがたかるべし。とかくその因て起る本を直さずばあるべからず。その本を直すといふは、非理のはからひをやめて、民をいたはる是なり。たとひいかほど困窮はしても、上のはからひだによろしければ、此事は起る物にあらず。(中略)さて又近来此騒動多きにつきて、其時の上よりのあしらひも、やゝきびしく成て、もし手ごはければ、飛道具などをも用ふる事になれり。これによりて下よりのかまへも、又先年とは事長じて、或は竹槍などをもち、飛道具などをも持出て、惣体のふるまひ次第に増長する様子也。
問1.この史料Ⅰについて、その概要と著者名の正しい組み合わせを、下記の1~4の中から選びなさい。
[概要]
A:紀伊藩主徳川治貞に奏上されたもの。社会状況に対して為政者がとるべき方策を、古道の精神に即して説いている政治論である。百姓一揆など、現実の社会問題に触れているため、著者の生前には公表されなかった。
B:薩摩藩の重臣猪飼氏に奉上されたもの。「百姓は国家の根本、農業は政事の基源」という理念のもと、農政の沿革、農民の心得、商人による田産収奪の禁止などを内容とする。
[著者名]
ア:佐藤信淵 イ:本居宣長
1.A-ア 2.A-イ
3.B-ア 4.B-イ
(答:2 ※史料Ⅰは本居宣長の『秘本玉くしげ』)〉
〈2013慶大・文
その(賀茂真淵)教えを受けた本居宣長は『( M )』を著して日本古来の精神への回帰を主張した」
(答:M古事記伝)〉。
〈2013北海道大・前期
問3 18世紀には、下線部c漢字で書き表すことが困難な日本の古語を、音・訓を巧みに交えて記したの特徴を持つ『古事記』こそが日本古来の精神を伝える重要な書物だと主張する国学者によって、『古事記』の詳細な注釈書が著された。
1 1798(寛政10)年に完成した、その注釈書の書名を答えなさい。」
2 1の注釈書を著した国学者の氏名を答えなさい。
(答:1古事記伝、2本居宣長)〉
〈2012同志社・神商心理
彼は、享保15年(1730)に伊勢国松坂の木綿商の家に生まれた。11歳の時に父親が没し、義兄が家業を継いだ。 19歳で紙商の家に養子に出されたが、生来読書を好む学者肌であったことも要因となって離縁となり、21歳で実家に戻った。資質が商人に向いていないことを知った母の勧めで医者として身を立てることを決意して、23歳の宝暦2年(1752)にエ医学修行のため京都に上った。
京都遊学中に医学と漢学を学んだが、なかでもc『万葉代匠記』を著した人物の斬新な古典研突にふれた影響は大きく、彼を国学に向かわせるきっかけとなった。宝暦7年28歳で松坂に帰り医師を開業するとともに、国学にも本格的に取り組むようになり、研究と門人への教育を始めた。門人への講義では、オ『源氏物語』『万葉集』『伊勢物語』『古今和歌集』『日本書紀』などを採りあげた。
34歳となった宝暦13年に、かねてからその著書を読んで敬慕していたd賀茂真淵が大和旅行の帰途、松坂に立ち寄った際に訪ね、生涯ただ一度の対面を果たし、翌年正式に門人となった。以後、真淵からは書簡のやりとりを通じて教えを受けた。
真淵に入門後は、『古事記』を中心とした上代研究に関心を向けるようになった。大著『古事記伝』は、執筆開始後ほぼ35年を費やして69歳の寛政10年(1798)に完成した。上代研究と並行して言語に関する研究、評論執筆にも精力的な活動を続け、天明7年(1787)には領主である徳川治貞に為政者の心構えを説いた『秘本玉くしげ』を献上した。
彼が終生の課題としたことは、漢意の影響を排して、真に日本文化に根差した学問を築くことにあったのであり、それは「物のあはれを知る」「やまとだましい」という言葉に表出している。国学者としての名声は次第に揚がり、カ門人は500人を超えた。没年は享和元年(1801)、72歳であった。
【設問】
問エ.1759年に刊行された日本最初の解剖図録『蔵志』の著者名を選べ。
1.青木昆陽 2.杉田玄白
3.山脇東洋 4.稲村三伯
問c.この『万葉代匠記』を著した人物名を記せ。
問オ.『源氏物語』を借り、時代を異にして江戸草府大奥の実情を描写したともいわれる『偐紫田舎源氏』の著者名を選べ。
1.柳亭種彦 2.上田秋成
3.為永春水 4.恋川春町
問d.真淵の著作であり、1765年に成立し、1806年になって刊行された、儒仏の影響を受けない日本固有の道を主張した著書名を記せ。
問カ.没後の門人を自称し、「かんながらの道」を説いて復古神道を大成した人物名を選べ。
1.荷田春満 2.平田篤胤
3.吉田松陰 4.藤田東湖」
(答:エ3山脇東洋、c契沖、オ1柳亭種彦、d『国意考』※否無効かも国意考。、カ.2 平田篤胤)〉
復興しんど ひらったね。
(古道大意(こどうたいい)・古史伝)(復古神道(ふっこしんとう))(平田篤胤(ひらたあつたね))
[ポイント]
1.平田篤胤は、復古神道をひらき、主著は『古道大意』『古史伝』。
[解説]
1.平田篤胤(1776~1843)は、国学者・医者。出羽久保田藩の武士の家(現秋田市)に生まれるが、20歳の時江戸へ出奔(家出)し、江戸で生活苦のなかでさまざまな職業に就いた末、25歳のとき、備中松山藩藩士平田氏の養子となる。宣長の影響をつよく受け(宣長の弟子と自称したが、会ったことも教えを受けたこともない)、儒教・仏教と習合した神道を批判することからスタートするが、次第に宣長的な実証主義から逸脱して神秘的な方向に傾斜していった。
2.『古道大意』『古史伝』で日本古来の純粋な信仰、すなわち尊王思想・排仏・排儒の国粋主義にたつ復古神道を確立、儒教や仏教を強く排斥した。復古神道は各地の豪農・神職に浸透し、幕末期には内外の危機感の中で、現実の政治運動との結びつきを強めていった。
〈2016慶大・商AB方式:「
国学では[ 26 ]が、『古史伝』を書き、儒教・仏教が渡来する以前の神道に戻ることを主張する[ 27 ]を説いた。この思想は地方の神職・豪農らに受け入れられるとともに、(ウ)幕末にいたるまで影響力をもった。
問3 下線部(ウ)で述べられている思想は、幕末においてどのような運動を支えるものとして発展したと考えられるか。その運動を漢字4文字で書きなさい。」
(答:26平田篤胤、27復古神道←原問には65語句の選択肢あり、問3尊王攘夷)〉
〈2014明大・全学部前期
19世紀に入ると、不安定になる社会への危機意識から、日本の神代の時代を理想とする復古的な国学が登場し、[ 5 ]が復古神道を盛んにし、水戸藩では国学を政治論までたかめ、国体論を形成し、尊王懐夷運動に影響を与えていったのである。
問8 空欄5に入る人名として正しいものを、次のA~Dのうちからいっ選べ。
A塩平八郎 B平田篤胤
C本多利明 D賀茂真淵」
(答:B)〉
〈2013慶大・文:「
(本居宣長に)続いて平田篤胤は、( N )と呼ばれる神道説を大成した」
(答:復古神道)〉