ひな菊の丘から

古墳の勉強に

高槻に出かけた。いつぞやTVでやっていて、相方が興味を覚えたらしい。元々歴史は私のテリトリーなので、喜んで付いて行った。



この古墳は発掘調査が行われた後、きれいに整備された広い公園になっていて、自由に歩くことができる。



二重の濠があったらしいが、今は途中から埋め立てられて広場が作られている。



古墳、というのは古代の有力者の墓、な訳だが、天皇の墓となると宮内庁の管轄で立ち入りができないらしい。ここは、歴史学者の間では、継体天皇の墓という説が有力なのだが、宮内庁は別の古墳(茨木市の太田茶臼山古墳)をそれと定めているため、逆に自由に発掘したり整備したりできるそうなのだ。

休日とあって、家族連れや子どもたちだけでの利用も多くて、特に子どもたちはマスク無しで運動したり自転車の練習をしたりしていた。日よけテントもあちこちにあった。




隣接する古代歴史館に行ってみる。





企画展は撮影OKとのことだったので、すこし。







常設展も、かなり見ごたえがあっておもしろかった。たくさんの数の副葬品や埴輪が復元されていた。石棺の材料として使われていたのが、兵庫、奈良に加えて熊本の阿蘇ピンク石だった、というのをTVでやっていたが、まさしくピンク色の石だった。

継体天皇は世継ぎがいなかった武烈天皇の後継者として担ぎ出された、傍系の出身で、都を樟葉宮、筒城宮、弟国宮と移した後、奈良の磐余玉穂宮に移したとされている。彼の直系のひ孫が厩戸皇子(聖徳太子)だ、と聞くと、謎の多い彼の生涯にもう少し迫ってみたくなったりする。

ミュージアムショップで手ぬぐいとチャームを買ったのだが、色んな小物が売っていて、どれも手作りっぽく、もしかして「古墳女子」「埴輪女子」の人が作って「置いてください」って持ってきたのかな、なんて思ってしまった。



歴史館を出て、また古墳公園に戻る。埴輪祭祀場には、ものすごくたくさんの埴輪が並んでいた。けっこうちょけた奴もいた。











濠を埋め立てた広場を抜けて古墳に上がる。



鬱蒼とした森だが、整備されているので道はある。ただ、ちゃんとした階段状ではなくて滑りやすそうな坂道なので、平地でもよく転ぶ私は緊張した。



一番上から見た風景



上ったら降りる。



こんな風に段がかなり高くなっている。



けっこうたくさんの人で賑わっていたけど、広いので気になることはなかった。歴史館の中も距離は保たれていた。一組、大声でしゃべりながら観覧している人たちはいたけど、ちょっと離れていたので大丈夫。入り口で住所氏名、体温健康状態を記入させられたが、これは仕方がないことなのだろうな。

ぐるりと一回りして元の場所に戻る。





車を停めた場所にベーカリーカフェがあったので、パンを買いに入る。大好きなバンドと同じ名前だったので、それだけで買って帰ろう、と思ったのだが、夕食時、とても美味しかったのと、老舗のお店で、本店は南千里にあるらしい、と聞いたので、また今度名物のカレーパンを買いに行こう、と思った。



楽しいお出かけだった。
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