ひな菊の丘から

あれから25年

毎年この日は特別な気持ちで過ごします。でも、本当に確実に、あの日のことが遠くなるのがわかります。そう思うから毎年何かひとことでも書いて残しているのですが、直接体験した私ですら忘れてしまうことを、今を生きる人たちにわかってもらうのはとても難しい。

過去を辿らずに、覚えていることを残しておこうと思います。

1995年1月17日未明、まずドンッという強い突き上げが来て、その後建物ごと巨人がつかんで揺さぶっているかのような大きな揺れが来ました。狭い部屋で真ん中に長女を挟んで寝ていた私の布団の上に、ブラウン管の重たいTVが落ちてきました。ガラスの割れる音、外からは車の急ブレーキや物がぶつかるような、がちゃんという音。

相方は息子の名を呼んで飛び起きました。ふだんは子どもたちは一緒に別の部屋で寝ているのですが、息子の体調が悪く、うつってはいけないと娘は私たちの部屋にいました。慌てて私も後を追いましたが、台所はものが散乱していて、ガラスも飛び散っていてちょっと動きにくい状況でした。朝6時前とはいえ真冬、まだ陽は上っていません。街灯も信号も消えています。真っ暗な中手探りで部屋に入ってみると、タンスの上にぎゅうぎゅうに詰め込んだモスボックス(紙製の衣装ケース)が全て下に落ちており、後で見たらタンスは10センチぐらい動いていましたが、なんとか倒れずにありました。その真下で寝ていた息子は、しばらく前にトイレに起き、まだ寝付けなかったところだったようですが、布団をかぶっていたので、落ちてきたものでケガをすることはありませんでした。


寝室(兼リビング)に戻ると、寝ているとばかり思っていた長女が「怖かったねえ・・・」とぼそっと
言いました。怖くて目を開けられなかったのだそうです。直後は停電もしていなかったのでTVを付けました。大きな地震があったこと、被害の状況はわからないこと、気を付けて行動してください、などというアナウンスばかりで、報道で最初に私が聞いた被害は、奈良県で、おばあさんがこけてケガをした、というものでした。

我が家の被害は、食器棚のガラス戸が全壊して、中の食器類が落ちてほぼ全滅、ミキサーも落ちて壊れて、冷蔵庫は15センチほど前に出てドアが開いた状態、その他軽微ではあるけどめんどくさ~い状態でした。

この日は祝日の翌日で、小学生の長男と保育園児の長女を送り届けたら、妊娠7か月の私も仕事に行かねばなりません。とにかくそんなすごい地震だと気づいていなかったので、支度をさせて、いつもなら自転車で行くところ、徒歩でまず小学校に向かいました。息子はお腹を壊していて、休ませようと思っていたのでそれを伝えるためです。正門のところに校長先生がいらして、(息子がポスターで大阪府知事賞をいただいた時、その直前に近隣のお宅の塀に泥団子をぶつけて謝りに行った時、さらに死んだ鳥(何だったかな)を見つけて校長室へ持って行ったら、珍しい鳥だ、とそれをはく製にして保存するよう動いてくださった、そんなお世話になった校長先生でした。)が長靴姿で応対され、「こんな状態やから、今日は学校は休校です。」と言われました。こんな状態?水道管が破裂して水が噴き出してました。

学校からすぐの保育園も「臨時休園」の張り紙がしてあり、こんな時に頼るのは実家、徒歩で向かいました。実家は我が家とは線路を挟んで反対側にありますが、こちら側の方が被害がひどいようで、「靴のままで入って」と言われて入ってみると、リビングに割れたガラスは集められ、父母の寝室が唯一落ち着いて座っていられるところのようでした。マンションの実家隣のお宅は、電気給湯機がずれて割れ、水浸しになっているそうで、実家にもその余波がありました。
とにかく仕事に行ってみる、と子どもたちを預けて30分かけて(身重なので)職場に向かいます。国道沿いの歩道はあちこち亀裂が入り、隆起していたり陥没していたり、まっすぐには歩けません。道路沿いの塀はブロックが落ちていたり、道路標識も曲がっています。その時はもう信号は付いていたのかな、覚えていませんが、国道を渡ったりしないといけなかったので、ついていたのでしょうね。
職場は嵐の後のような惨状で、机の上のPCは全部落ちて、本棚は倒れて、本が散乱していました。できるところだけを手伝って(身重なので)電話番をしていたのですが、奈良在住の社長はのんきに「揺れたみたいやけど大丈夫?」って感じでした。電車が動いてないらしいから、行けない、と。最初の電話は繋がったのですが、途中から全く繋がらなくなり、仕事にならないので、とりあえず片付けたら皆解散、と帰りました。ごく近くに住んでいる人しか来られなかったので、私が一番遠くから来た社員かも知れません。(隣の駅ですけどね。)

子どもたちを引き取って帰宅して、片付けて何も置かないようにした部屋の真ん中で余震におびえつつ過ごしました。当日の思い出はこのくらいしかありません。そうそう、当時はまだ携帯電話が普及してなかったので、赤電話(公衆電話)に人が行列していました。もちろん阪急電車は止まっているので、職場や家族への連絡でしょうね、どの電話も(当時はたくさんありました。)列ができていて、毎日放送のアナウンサーさんの姿もありました。

春に3人目が生まれるので、手狭になった賃貸マンションから引っ越しする予定を立てていました。その時住んでいたマンションからすぐ近くの新築マンション、これは震災の年の12月に完成したのですが、地震の時には既に着工していて、なので我が家の水道は、上から押したら水が出るタイプです。震災の時、上から物が落ちてきて水が出っぱなしになったお宅がたいへん多くて、それからは押して止水するタイプに変わったそうですね。

震災後の生活はずいぶん変わってしまいました。小学校は避難所になり、職場のパートさんも近くの避難所で生活、中には住んでいた住宅が倒壊してしまって、田舎に帰った人もありました。職場は、大阪府で唯一死者の出た豊中市の中でも、特に被害の大きいエリアで、長くブルーシートがかかったままの家が残っていました。でも、それでもまだマシな方、系列店のうち、川西と伊丹の店は長く閉め、結局開けられなかったところもありました。地元の店に商品を取りに入る時は、「何があっても自己責任です」と一筆書かされた、と担当者が言ってました。まだまだ震度4クラスの余震が続いてた頃です。

子どもたちにも大きな傷が残ったと思います。4歳だった長女は今でもはっきり覚えているといいますし、当時は揺れるたびに私にしがみついていました。お腹の中にいた次女は、無事生まれてきてくれましたが、TVがもし、直接お腹に落ちていたら、と思うと肝が冷えます。毎日電気は点けたままで、靴下もはいて、固まって寝ていました。外に出る時は、預金通帳と印鑑も全て持って出ていました。タンスの転倒防止器具も買いました。でも、割れた食器棚を新しくしたものも、やっぱりガラスの両開き(スライド式じゃなく)にしてしまいました。学習してないな。職場からベビー服を段ボールいっぱい貰って、洗濯をしてから避難所に送りましたが、あれは役に立ったのかな。あの頃本当にたくさん建っていた、2階建て木造アパートは、今は近所にはほとんど残っていません。

本当にたくさんのことを忘れてしまいました。
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