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他者と接して初めて自分が見えてくる(上)

2024-06-12 15:36:40 | エッセイ・雑文(韓国・朝鮮関係以外)
他者と接して初めて自分が見えてくる(上)

「アイデンティティ」って何なの?

 さあ、始まるよー、席についてー。
 さてと、今日はいきなり難しい言葉について説明するところから始めます。どう難しいかというと、実はぼく自身もよく分かってないというレベルなんですよ、ハハハ(汗)。それで教えられるのかと言われそうですが、そこは「努力します」ということで・・・。これ、言い訳には便利な言葉だねー。テヘヘ、今日は暑いなー。
 で、その言葉なんですが、「アイデンティティ」という英語なんだけど、ずいぶん前からけっこうふつうに使われるようになってますね。あ、「アイデンティティー」と最後を伸ばしてもOKですよ。ところで、皆さんはこの言葉知ってましたか?
 え、お笑い芸人だって? 二人組の? ふうん、知らなかったな。そこまで一般的になってるんだねー。
 じゃあ会話の中でふつうに使ってる・・・というレベル、まではいかないですか?
 ぼくがこの言葉を最初に知ったのは高校時代。ということは、んー・・・ずいぶん昔ですよ。たしか倫理の授業で・・・。いや当時は倫理社会、略して倫社と言ってたね。今オジイサンから「オマエはリンシャをちゃんとベンキョーせんとあかんゾ」と言われても分からんだろなー。
 その高校の頃のリンシャの教科書でアイデンティティーがどんな日本語で説明されていたかというと「自我同一性」ですよ。または「自己同一性」。この用語は今も倫理用語集にありますね。しかし自我同一性と聞いて「そうか、なーるほど」とうなづく日本人がいるかねー? ぼくも分からなかったし、その後何十年経った今も分かりません。今の日本人も分からないからみんなアイデンティティというカタカナ語のまま使っているんでしょうね。
 同じアイデンティティという言葉を韓国ではチョンチェソン(정체성)、つまり「正体性」と言ってます。ぼくはコチラの方がずーっと良い訳し方だと思います。要は自分自身が一体何者なのかということを心の奥底でどのように認識しているかということですからねー。
 人間に化けた妖怪に「おまえの正体は何だっ?」と問いをぶつけると「フッフッ、ばれちゃあしょうがねーや」と笑いながらタヌキが正体を現す場面がアタマに浮かびますが、そんなようなものですよ。ん? タヌキは自分のことタヌキだという自己認識はあるのかな? ミミズなんかはなさそうか? 飼い犬は自分も家族の一員と思ってるのか? それとも・・・。フーム、動物のアイデンティティもおもしろそうだけど、まあ興味のある人は将来研究してごらんなさい。
 このアイデンティティという用語が広まったのは、アメリカの精神分析学者エリクソンが青年期の発達課題を説明する際に用いて1960年代頃から広く知られるようになって、その後意味も広がっていったようです。
 倫理の教科書のアイデンティティ関係のページにはアイデンティティ・クライシス、つまり「アイデンティティの危機」という用語も出てきます。生まれてからずっと自分の周囲のことを学習しながら適応することに懸命に生きてきたのが、成長して学校などで新しい人間関係もできて、外の社会についての知識も広がる中で自分を見失ってしまうことを指す言葉です。フランスの啓蒙思想家ルソーは著書『エミール』で人が青年期を迎える頃のその自己のめざめを「第二の誕生」と呼んだ、といったことも教科書に載ってます。
 ・・・って、今けっこうふつうに使ってる中二病となんか意味が重なってる感じじゃないですか? そう言えばTVアニメで「中二病でも恋がしたい!」というのを放映してましたが、そのテーマ曲のタイトルがまさに「INSIDE IDENTITY」だったんですね。これは最近知りました。
 さて、アイデンティティという用語を自我同一性じゃなくてもっとわかりやすい日本語で言うと、スマホでググってみれば「国・民族・組織などある特定集団への帰属意識」、「独自性」、「一致」、「身元」、「本質」等々の言葉が出てきます。
 まあ自我同一性よりはマシですが、イマイチですかねー。で、ぼくが独自に具体例を考えてみました。
 君たちがこの高校に入学して生徒証をもらって制服を着ても最初はしっくりこなかったでしょ? 話し相手も中学時代の友だちと「そっちのクラスのフンイキどうなの?」なんて情報交換したりして。それがしばらく経って、人にもよるけど一学期の末にはクラスの仲間の名前も憶えて高校生活に慣れてくる。これも人によりますがこの学校の部活が対外戦で活躍するとうれしく思ったりといった愛校心を持ったりもする。一方、中にはこの学校というよりも自分が入った部活に強い思い入れを持つようになる人もいるでしょ? あるいは、「この」学校というより希望する大学や職業をめざして本気で勉強することを最優先して日々がんばってる人もいる・・・かな? こうして、それぞれ中学生のこそして、まだ自分の居場所を見つけられない頃とは違う新たなアイデンティティを確立していきます。ただ中にはまだ不安定な精神状態の人もいるかもしれません。
 ところで、もし君たちが初対面の人に自己紹介するとしたらどんなことから話しますか? 「◯◯高校生です」とハッキリ言う人は◯◯高校の生徒であることに強いアイデンティティを持っているということ。「◯◯高校野球部でレギュラーやってます」と言えば当然その肩書きを誇らしく思ってるわけですね。そこらへんは本校生徒でもさまざまです。それから、もちろん人によっては学校以外の何か、たとえばピアノとかバレエとかの習いごととかサッカーのクラブチームのこととかの方がずっと重要だという人もいるでしょう。

 さて、やっとここから本論です。(えっ!
 一応この授業の看板は日本史なので、日本人としてのアイデンティティの形成をテーマに考えてみようということで、ここまではその前提なんですよ、ハハハ。すみませんねー。
 自己紹介の話の続きなんですが、もし海外旅行先で「どこの国の方ですか?」とか「何人ですか?」と聞かれたらどう答えますか? たぶん大方の日本人なら「日本です」と答えますね。しかしたとえばラモス瑠偉や元横綱の白鵬のように外国から来てその後日本国籍を取得した人の場合はどう答える? それ以前に自分自身ではどう認識しているのかな? ・・・という疑問も出てきます。それから、長く日本で暮らしている在日韓国・朝鮮人の人たちが大勢います。ルーツは戦前から日本にやってきた在日一世ですが、1965年の日韓基本条約以降は国籍の選択肢も韓国籍か日本籍か、でなければ従来の朝鮮籍(←これは北朝鮮のことじゃなく便宜的なもの)の三択になってもう半世紀以上になり、在日の主体も三世さらには四世になっているので、そのナショナル・アイデンティティつまり国民としての自己認識も多様化しているようですね。少なくともいわゆる嫌韓の人たちのイメージにあるような反日的な意見の持ち主はいたとしてもごく少数じゃないかなー? 日本人との結婚もふつうになってますが、純粋の韓国・朝鮮人だけの家庭でもある資料では九割ほどは日本語を話してますよ。日頃接するマスメディアも日本のテレビや新聞だしねー。

 日本人のナショナル・アイデンティティを考える時、念頭に置く必要があることを一つ言っておきます。それは「日本とはそもそも何なのか?」ということなんですが・・・、やっぱりキョトンとしてる人が何人もいますね。
 どういうことかと言うと、日本は①国の領土がほとんど日本列島という一目でわかる地理的な範囲と重なり、②ほぼ同じような顔つきと体格の黄色人種で構成されていて、③言語は日本語が全国的に用いられている、ということ。これらは日本人にとっては当たり前のことでしょうが、約200ヵ国ある世界の国々の中では非常に例外的と言っていいでしょう。またこれらに付随して④約二千年間日本国内で歴史が展開され、⑤衣・食・住、芸術、文学等々、独自の特色ある文化を育んできた、ということも特色として挙げられますね。
 それからもう一つ重要なことを言っておきます。それは日本人がいつ頃から「自分は日本人だ」と思うようになったのか?ということ。答は明治以降です。だから、大雑把に言ってまだ1世紀半くらいなものですね。つまり世界史的には1800年前後のイギリス、フランスを先駆けとする国民国家の成立とセットなんですが、この辺についてはあとで説明します。つまりは、日本だけではなく、世界を見てもほとんど全国民が「自分は◯◯人だ」という意識を持ったのはそんなに昔のことじゃないということです。
 この点については、専門の歴史学者でも間違った主張をする例をたまに見かけます。具体例をあげれば、90年代末頃から中国は「高句麗と百済と渤海は中国の地方政権であり、中国史の中に含まれる」と主張して韓国の歴史学者やマスコミ、そして一般国民の反発を招きました。「朱蒙(チュモン)」をはじめ高句麗関係の歴史ドラマが相次いだのもそのためです。ついでに言えば、日本史の教科書では高句麗・百済・新羅の三国時代の後は統一新羅の時代となっていますが、韓国では七〇年代から渤海と合わせて南北国時代と呼んでます。こうした中国と韓国の間の歴史認識論争に対して、韓国の少数派の歴史学者・林志弦(イム・ジヒョン)漢陽大教授は次のように語っています。
 「二千年も前の高句麗に現代の近代国民国家の概念をそのまま投影させてしまうのは時代錯誤です。タイムマシンに乗って当時の高句麗に行って「あなたは韓国人ですか?中国人ですか?」と聞いたら高句麗人は当然「何をわけのわからんことを言いなさるのか?」と言うんじゃないですか?」
 ぼくはこの見解には全面的に同意します。
 これ以外にも、歴史認識問題となるとそれぞれの国民の皆さんが「愛国心」に根差した主張を応酬し合う例は日韓間に限らずホントに多いですよね。しかし片方が相手方を「論破したぞ!」と思っても相手は「はい、おっしゃる通りです」なんて受け入れることはありませんよ。まさに自分たちのアイデンティティに関わる問題だから。そんなわけで、ほとんど解決は望めないというのがぼくの見方です。
 それでも、今日のテーマは相手と直接接して初めて相手の実像と、今まで気づかなかった自分の姿が見えてくるということで、戦争とか議論とかも直接接することだから、そう考えると得ることも多いと思いますよ。
 このテーマであと二回くらい続くかな? はい、ではまた今度。
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