夕方に西武新宿線に乗っていた時のこと、
20年以上前の社会学の本を手に難しい言葉の羅列と格闘していた。
馴染みのない言葉が並んでいるとどうしても読むのが遅くなる。
知らない熟語があると構成する漢字を見て適当に当たりをつけるが、
それが間違っていることも多々ある。
一つの熟語の意味を取り違えるだけで文章の意味まで変わってしまう。
そういうことが何度かあって最近は都度意味を調べるようにしている。
最近きっかけがあり、惰性で本を読むのはやめようとつとめている。
夕方の西武新宿線は混んでいるというふうでも空いているというふうでもない。
座席は埋まっていて立っている人もそれなりにいるが、まだ空間に余裕がある。
私は座席に座っていて正面に座っている人たちを観察しようと思えばできるくらいの余裕だ。
左前方に背中を向けて立っている女性二人組がいて、車両で喋っているのは彼女たちだけだ。
その近くには眠っている女性、スマホを触っているキャップを被った男性、サラリーマン。
いつもの代わり映えのない風景と代わり映えのないわたし。
この空間が車くらいの速さで移動していると思うと不思議な気持ちになる。
見知らぬ他人と一緒に動いているのが異様でもあり当たり前でもある。
本の影響で、この人たちも日本という沈みゆく船の乗組員なんだよなとか考える。
そう思うとなんだか情けなさと愛着のようなものが同時に芽生えそうになるんだけど、
何の目線なのかがわからなくなって手前でそっと胸に押し込んだ
目の前の人に一方的に仲間意識を持たれても気味が悪いだけだろうしね。
目線は本に戻してうむむと難航していると遠くの方からカラカラと乾いた金属音が近づいてきた。
カラカラカラカラカラッカラカラー
空き缶が転がってくる。
と認識するや否や、空き缶の半径2メートルくらいの空間にぐっと力が入ったのを感じた。
みんなが一様に空き缶の行く末を見守っている。
こっち来んなとかどうしようとか動揺する気持ちがなぜだか手に取るようにわかる。
二人組の女性なんかはあからさまに空き缶に気持ちを持っていかれている。
なぜなら空き缶の登場で会話が途切れたから。
無言の車両をあざ笑うかのように空き缶はカラカラと音を立て縦横無尽に動き回っている。
その感じが可笑しくて可笑しくてたまらなかった。
もう笑いをこらえるのに必死だ。
全部わたしの妄想なのかもしれないけどそれでもいい。
空き缶の動向を注意深く観察する自分自身も可笑しかったのだ。
意思のない空き缶一つにたじろぐ大人たち。
そこに子どもがいれば違っていたかもしれないし、海外の人がいれば違ったかもしれない。
「公共」を持たない日本人の大人しか居合わせなかったことがこの状況を生んでいる。
自分だってどうだ、足元に来たら拾おうくらいの他人任せだ。
空き缶は電車の急停止に合わせて一足飛びでどこかにいってしまった。
その後ぱったり音が消えたのはきっと空き缶が、
ロマンスグレーの髪を丁寧になでつけチェスターコートの襟を立て、
カシミアのマフラーを巻いた紳士の磨かれた靴にぶつかったのだが、
紳士は空き缶なんぞに心奪われることもなくそれを手に取り、
次の駅で降りてホームのゴミ箱に捨てさったからだろう。
紳士のおかげで空き缶は本来持つべきでない存在感を失いあるべき場所に帰った。
少し寂しいけど、これでよかったのだろうと思う。
人っ子一人いない昼間の伊賀鉄道
20年以上前の社会学の本を手に難しい言葉の羅列と格闘していた。
馴染みのない言葉が並んでいるとどうしても読むのが遅くなる。
知らない熟語があると構成する漢字を見て適当に当たりをつけるが、
それが間違っていることも多々ある。
一つの熟語の意味を取り違えるだけで文章の意味まで変わってしまう。
そういうことが何度かあって最近は都度意味を調べるようにしている。
最近きっかけがあり、惰性で本を読むのはやめようとつとめている。
夕方の西武新宿線は混んでいるというふうでも空いているというふうでもない。
座席は埋まっていて立っている人もそれなりにいるが、まだ空間に余裕がある。
私は座席に座っていて正面に座っている人たちを観察しようと思えばできるくらいの余裕だ。
左前方に背中を向けて立っている女性二人組がいて、車両で喋っているのは彼女たちだけだ。
その近くには眠っている女性、スマホを触っているキャップを被った男性、サラリーマン。
いつもの代わり映えのない風景と代わり映えのないわたし。
この空間が車くらいの速さで移動していると思うと不思議な気持ちになる。
見知らぬ他人と一緒に動いているのが異様でもあり当たり前でもある。
本の影響で、この人たちも日本という沈みゆく船の乗組員なんだよなとか考える。
そう思うとなんだか情けなさと愛着のようなものが同時に芽生えそうになるんだけど、
何の目線なのかがわからなくなって手前でそっと胸に押し込んだ
目の前の人に一方的に仲間意識を持たれても気味が悪いだけだろうしね。
目線は本に戻してうむむと難航していると遠くの方からカラカラと乾いた金属音が近づいてきた。
カラカラカラカラカラッカラカラー
空き缶が転がってくる。
と認識するや否や、空き缶の半径2メートルくらいの空間にぐっと力が入ったのを感じた。
みんなが一様に空き缶の行く末を見守っている。
こっち来んなとかどうしようとか動揺する気持ちがなぜだか手に取るようにわかる。
二人組の女性なんかはあからさまに空き缶に気持ちを持っていかれている。
なぜなら空き缶の登場で会話が途切れたから。
無言の車両をあざ笑うかのように空き缶はカラカラと音を立て縦横無尽に動き回っている。
その感じが可笑しくて可笑しくてたまらなかった。
もう笑いをこらえるのに必死だ。
全部わたしの妄想なのかもしれないけどそれでもいい。
空き缶の動向を注意深く観察する自分自身も可笑しかったのだ。
意思のない空き缶一つにたじろぐ大人たち。
そこに子どもがいれば違っていたかもしれないし、海外の人がいれば違ったかもしれない。
「公共」を持たない日本人の大人しか居合わせなかったことがこの状況を生んでいる。
自分だってどうだ、足元に来たら拾おうくらいの他人任せだ。
空き缶は電車の急停止に合わせて一足飛びでどこかにいってしまった。
その後ぱったり音が消えたのはきっと空き缶が、
ロマンスグレーの髪を丁寧になでつけチェスターコートの襟を立て、
カシミアのマフラーを巻いた紳士の磨かれた靴にぶつかったのだが、
紳士は空き缶なんぞに心奪われることもなくそれを手に取り、
次の駅で降りてホームのゴミ箱に捨てさったからだろう。
紳士のおかげで空き缶は本来持つべきでない存在感を失いあるべき場所に帰った。
少し寂しいけど、これでよかったのだろうと思う。
人っ子一人いない昼間の伊賀鉄道
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