フィリピンのほほん生活記ー朝焼けに染められて

フィリピン・タガイタイの景色と日々の出来事を綴ったブログです。

可愛い茹で玉子

2020年09月26日 08時08分01秒 | 或日の思い出

 

 本日ののほほん生活記

2020.09.26 (金) 午前5時50分 靄晴れ 気温 25.5℃ 湿度50% 南南西 0.2m 平穏0



10月1日からの新型コロナウイルス対策の防疫区分見直しで、アニョ内務自治相は25日、
首都圏の首長の多くは現行の一般防疫地域(GCQ)の維持を望んでいると述べた。
首都圏の首長は27日の会合で対応を決定する予定だが、政府にGCQ維持を要請する
可能性が強まった。一方、経済団体はGCQから1段階緩和して修正一般防疫地域
(MGCQ)にするよう、求めている。(岡田薫)        2020.09.26.(マニラ新聞から)

 

 此処の処続いた、ビコール地方への旅ですが、私の暮らす、タガイタイには無い、田圃の風景に、

懐かしく郷愁の心が、込み上げたのです。私が生まれ育ったのは、利根川の、支流の流れる、

北関東の、関東平野のど真ん中、周囲では、利根川の土手が、一番高い処でした、此処からは、

秩父連山、赤城山、日光連山が、眺められ、沼地も多い、農村地帯ですね、此処で小学校、

入学の頃が、一番脳裡に、刻まれているのです。戦後の復興期、給食は、無かったのです、

自宅から、母親が創ってくれた、弁当を持参するのですが、お友達の弁当を覗くと、

今迄見た事も無い、可愛い、茹で卵が、乗っているのです。不思議がる私は、友達に懇願し、

此の創り方の、秘密を聞いたのです。下校時に友達の家に、お邪魔すると、長靴を、渡されたのです。

此の時に、茹で玉子の秘密が、『ケケシ』だと、ケケシの、巣を探しに、沼地の浮島に、ケケシの巣は、

葦を3本束ね、創られて在ったのです。毛利氏の、3本の矢の格言に、似ていますが、何方から、

風が吹いても、傾かないのです、其の中央に、巣が創られ、卵が3個在りました。各巣を廻り、

卵を拾い集めるのです。葦だから、蛇も昇れないし、ケケシの、先祖からの、習性に、あらためて、

関心したのです、廻りからは、『ケケシケケシケチケチ』との、啼く声が、此の事が、人生の終焉を、

迎える頃迄、覚えているとは、不思議ですね、私の可愛玉子の、思い出でした。m(_ _)m

 ビコールへの旅では、憧れの、Mt.マヨンですが、雲に覆われ、残念ながら、山水型の、マヨンは、

見えず仕舞いでした。山の天気は、代わりやすく、何時も表情が違うのは、当たり前ですね、(涙)


 野鳥オオヨシキリ  オオヨシキリ  オオヨシキリ(啼き声)

 


 昨日の起床は、午前5時でした。此の時間の起床が、私にとっては、理想的な時間ですね、

深夜草木も眠る、丑三つ時から、啼き出す、サボン(軍鶏)ですが、夜明け前の、此の時間には、

連呼と成るのです。私の夜明け、一番の行動は、日本の病院で、習慣ずけられた、体調管理の、

体調測定ですね、血圧、脈拍、体温、体重測定です。此れを毎日、欠かさず行うのです。(笑)、


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4 コメント

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Unknown (タガイタイ・ダニエル)
2020-09-26 10:40:55

 マランダイさん・お早う御座います。

 >マヨン山に途中まで登った事があります。登っている人は結構いましたね。
今は禁止の様ですね。

 マヨンに登って、途中で、亡くなったニュスも、
在りましたね、見るだけで、勾配がきついですね、

 >戦争当時特攻機がルソン富士を目指して飛んだのを知っていましたので
感慨ひとしおに眺めました。

 私はフィリピンを舞台にした、戦争の話は嫌いです。百万人以上のフィリピン人が、
犠牲に成ったのです。(涙)

 >レガスピのホテルからも見えていました。

 何時もは写真でしか、見ておりませんので
一度見たいと、出掛けたのですが、
頂上が見えなくて、残念でした。
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Unknown (タガイタイ・ダニエル)
2020-09-26 10:25:03

 Tomyさん・お早う御座います。

 >あんな小さな卵を、ゆで卵にするんですか?

 まさかね、現物を見て、驚きました。可哀想にね、

 >もっとも、私の親父も戦中はスズメを食べたと言ってました
鳩ならまだわかるんですが、スズメ?

 戦時中は、トカゲや蛇、何でも食べたのですね、
戦死した、人間迄、食べた記録が、
残っていますね、

 >本当に食べるものが無かった時代なんでしょうね

 食料が配給時代、闇物資横行しましたが、
闇での食料仕入れを拒み、頑なに、
配給食料を待ち、餓死した、役人が居りました。

 私の生まれた田舎は、農村地帯でしたが、
給食が確立しない前は、
お米が無く、さつまいもも、弁当箱に、
詰めて来た、生徒もいましたね、

 >本当に食べるものが無かった時代なんでしょうね私は戦後10年経っていたので、あまりそう言う体験は無かったです
むしろ経済成長の波がやってきて、物があふれ出す直前でした

 Tomyは、恵まれた時代だったのですね、私の生まれたのは、終戦の翌年でしたから、
だいぶ違うのですね、

 >今のタガイタイを見ていると、貧困層はそんなに多くはいませんが、食べられる野草とか、自生している場所をよく知っていますね

 TVで人気の在る番組でしたが、
貧困層にお金や、車が当たる、番組ですが、
タガイタイの人が、申込み、
事前調査で、やって来たTV局の、
貧困層がいないと、採用されなかったのです。
返信する
Unknown (マランダイ)
2020-09-26 10:16:02
ダニエルさんおはようございます。
マヨン山に途中まで登った事があります。登っている人は結構いましたね。
今は禁止の様ですね。
戦争当時特攻機がルソン富士を目指して飛んだのを知っていましたので
感慨ひとしおに眺めました。
レガスピのホテルからも見えていました。
返信する
Unknown (Tomy)
2020-09-26 09:03:25
おはようございます
あんな小さな卵を、ゆで卵にするんですか?
もっとも、私の親父も戦中はスズメを食べたと言ってました
鳩ならまだわかるんですが、スズメ?
本当に食べるものが無かった時代なんでしょうね
私は戦後10年経っていたので、あまりそう言う体験は無かったです
むしろ経済成長の波がやってきて、物があふれ出す直前でした
今のタガイタイを見ていると、貧困層はそんなに多くはいませんが、食べられる野草とか、自生している場所をよく知っていますね
返信する

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