ここに数点の設計図があります。開港記念横濱會館(現:横浜開港記念会館)の設計コンペへのこの応募作品は、当時若手の建築家として、数々の建築設計に優れた才能を見せていた、咲壽栄一の力作です。開港記念横濱會館は、市民や銀行、企業などからの寄付により建築資金を集める計画であったが、開港50年祭の明治42年7月に地鎮祭を行うも、資金不足により着工は遅れていたのです。その後大正2年2月に、神奈川県下では初めて懸賞募集(コンペ)により設計が公募されたもので、当時懸賞金は一等2000円、二等1000円、三等700円であったそうです。一等には東京市技師の福田重三が当選し、残念ながら栄一の作品は選に漏れました。そしてこのコンペの翌年の大正3年3月、建築家として脂の乗った、まさにこれからという時に、栄一は病に倒れ帰らぬ人となったのです。享年わずか30歳。家族はもとより多くの友人たちがその死を悼んだのです。
横浜開港記念館 コンペ提出作品 作:咲寿栄一
咲壽栄一は、明治18(1884)年4月8日、横浜電気株式会社常務取締役であった上野吉二郎の長男として東京の京橋で生まれました。日本橋区槍物町千葉小学校へ入学するが、尋常科第四年級の明治27年に横浜市吉田小学校へ転校。その後神奈川県立第一中学校へ入学、京都市第三高等学校を経て、東京帝国大学工科大学建築学科に進みます。
同期には、建築家・能楽研究家として知られ、東京・染井の「染井能舞台」の設計に携わった(のちに横浜能楽堂の本舞台として復原)山崎清太郎、豊多摩監獄(中野刑務所)などの作品がある後藤慶二、横浜銀行協会、国会議事堂の建設に携わった大熊喜邦らがいます。
栄一は卒業後大蔵省臨時建築部に入り、のちに大蔵技師となりました。門司税関庁舎、徳島、北條、武雄、四日市、横須賀、福島等の各税務署庁舎、大正博覧会の浅沼商会特設館などに携わり、中でも大きな作品が、大阪中之島公会堂(三等に当選、2000円の賞金)と前述の開港記念横濱會館であります。大蔵省臨時建築部が設計にあたった横浜税関陸上設備鳥瞰図も、栄一の手による。住宅では、浜口雄幸邸の洋館客室をはじめ、父である上野の根岸邸の洋館増設にその才能が発揮されています。また、江ノ島山上に建てられた、曽根西湖氏の記念塔もその作品です。
咲壽栄一が東京帝国大学(現・東京大学)に進むきっかけは、日本の西洋建築の祖、ジョサイア・コンドル氏と深い関係があります。
ジョサイア・コンドル(Josiah Conder、1852年9月28日 - 1920年6月21日) はイギリスのロンドン出身の建築家。お雇い外国人として来日し、政府関連の建物の設計を手がけた人物です。また工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)の教授として辰野金吾ら、創生期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いたのです。
のちに民間で建築設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅を数多く設計。代表作は三菱一号館、岩崎邸、三井倶楽部等。また、河鍋暁斎に師事して日本画を学び、趣味に生きた人でもあった。 「コンドル」はオランダ風の読み方で、「コンダー」の方が英語に近い。著書『造家必携』(1886年)には「ジョサイヤ・コンドル」とあり、政府公文書では「コンダー」「コンドル」が混在しているが、一般には「コンドル先生」で通っている。「コンデル」とも呼ばれた。
その、ジョサイア・コンドルの執事をしていたのが、高橋道保。高橋道保は私の高祖父(ひいひいおじいさん)にあたります。
道保の妹(きく)が嫁ぎ、栄一が生まれるのです。また、コンドルの妻(くめ)の姪で、コンドルの家で育てられたヤエが、私の曽祖母(ひいおばあさん)にあたります。
※咲壽栄一の父、上野吉二郎は高橋家から妻を娶り、また栄一自身は母方の祖母の姓である咲壽を名乗ったという
咲壽栄一がコンドルとの深く関係があり、東京帝国大学で建築を学び、俳句に対する影響を受けたこともここで記しておきます。
上野吉二郎邸 玄関と室内
建築に非凡な才能を開花させた栄一はまた、趣味人でもあった。特に俳句は高校に入学する直前の明治36年夏から始めたもので、俳号は「織草」、のちに「一樹」と改め、さらに高校卒業後入学試験準備のため、本牧に借りていた住まいの庭に咲く卯花(ウツギの花)を好み、その後は「卯木屋」と称していた。生涯に詠んだ句はおよそ3万句あまり、その才能は京都・東本願寺第23代法主で俳人としても著名な大谷光演(俳号「句佛」)に認められたいいます。
私の父が大切に保管している唯一の遺稿集「卯木集」
その彼を病魔が襲ったのです。「今度の彼の病の危篤を聞いて赤十字病院へ駆けつけた時、私が彼について知る三度目の病顔を見たのである。そして最も甚だしい、最も悲しむべきこの病顔を、再び美はしい以前に返す事無しに彼は去った。この三度の病顔の外に私は彼をほとんど絶対的強壮者と遇し、いかなるときにもその活発々地の健康を信じていた。誰も彼の死を疑い、誰も彼の死に驚き、誰も彼の死を悲しむのは、この公認ある故に一層その度が強いのであると思う。大学の同期卒業生十六人の中。彼は唯独り徴兵に応じ得る体格の持ち主であった。」(「故 咲壽栄一君の事」、山崎静太郎)
夫人と幼き長男(母方の姓を名乗り現・土屋家)を残し、わずか1カ月余の入院生活ののち、栄一は粟粒結核によりその生涯を閉じたです。彼の死後、山崎を中心に東京帝国大学工科大学建築学科の同期生らが遺稿集「卯木集」を取りまとめました。装丁は後藤慶二の手によります。以前から栄一は、後藤に油絵を依頼しており、病床にあって笑顔でそれを催促したのです。翌日、後藤は油絵を掲げて見舞いに訪れました。約束の画を描き上げる時間はなかったが、それはかつてほしがっていた赤い木蓮の花を描いた画であります。そしてこの美しい絵が、栄一が物を物としてみた最終であったのです。
横浜を愛した建築家、咲壽栄一は横浜市根岸の西有寺墓地に埋葬されています。
咲寿栄一の代表作は旧門司の税関です。
旧門司税関は、明治42年11月長崎税関より分離して門司税関が発足、これを契機に明治45年(1912)に煉瓦造り瓦葺平屋構造の庁舎が建設されました。設計は妻木頼黄(ジョサイア・コンドルに執事)の指導のもとに咲壽栄一が担当しました。15年使用されたが昭和2年に新庁舎が西海岸通りに移ったので、民間に払い下げられ事務所・倉庫などに使われました。このルネサンス様式のこの赤煉瓦造りの旧門司税関は、長き時代の変遷を見守ってきた北九州のシンボル的存在なので、北九州市が取得し平成6年に修復されました。内部は大きな吹き抜けのロビー、その奥に税関PRコーナーがあります。近代的なデザインで改修されていますが、当時のままの状態も保存されており、この建物の特徴などが良く理解できます。
ここに出てくる妻木頼黄(つまきよりなか)は、横浜にとても縁があり、また栄一の縁戚にあたるジョサイア・コンドルとも通じる人物です。
横浜の赤レンガ建造物を語るとき妻木頼黄という名が欠かせない人物です。
辰野金吾(東京駅の設計者)と同様イギリス人ジョサイア・コンドルに学び、辰野の後輩にあたるが、妻木はその後ドイツに留学することから、イギリス派、ドイツ派と袂を分けている。かれが明治37年に建てた“横浜正金銀行”は現在、“神奈川県立歴史博物館”となった。代表作の一つで、関東大震災にも持ちこたえたが、この赤レンガ倉庫(明治44年竣工)も震災にビクともしなかったのです。
この横浜赤レンガの流れから考えても、門司の税関のレンガ造りを興味深く見ることができるのです。
現在、明治維新後における日本の西洋建築物に多く携わった家系として生まれた咲壽栄一のあふれる才は、いまもなお日本における西洋家具発祥の地:横浜元町で培われた、伝統家具『横浜家具』を製造する家具メーカー『株式会社ダニエル』として、咲壽の本家である高橋家と咲壽家の家族により、復興し時代を超えて継承され続けています。
日本の西洋家具・・・1863年(文久3年)に英国人のゴールマンが、横浜に住む馬具職人の原安造に椅子の修理を依頼したところ、その出来栄えに感心して本格的な洋家具の製作を依頼したこが、日本における西洋家具製作の始まりです。
後年、この優れた伝統を忠実に継承しようと“ダニエル”を創業したのが、咲寿武道氏と高橋保一氏(現社長)の二人。これらの製法で作られた家具を“横浜クラシック家具”といい、かの「ホテル・ニューグランド」では、昭和初期に製作された家具が現在でも使われています。
ホテルニューグランドの本館2階にある『横浜家具』
横浜家具の復興と継承をした、咲壽武道と高橋保一 昭和20年代の横浜元町:ダニエル元町本店/イズミ家具インテリア
咲壽栄一の主な建築物
旧門司税関(1912年、北九州市)監修:妻木頼黄、復元設計:大野秀敏、アプル総合計画事務所
徳島税務署
北條税務署
武雄税務署
四日市税務署
横須賀税務署
福島税務署
大正博覧会浅沼商会特設館
大阪中之島公会堂コンペ(三等に当選、2000円の賞金)
開港記念横濱會館コンペ
横浜税関陸上設備鳥瞰図
浜口雄幸邸洋館客室
根岸邸洋館増設
曽根西湖氏記念塔(神奈川県 江ノ島)
上野吉二郎邸(横浜市)
<参考>
株式会社ダニエル DANIEL STORY
横浜アルバム 執筆:島津氏
咲寿栄一(1884~1914)
明治18年4月、横浜電気㈱社長で実業家の上野吉二郎の長男として東京に生まれる。神奈川県立一中を経て第三高等中学校を卒業し、東京帝国大学工科大学建築学科に入学、明治42年7月に卒業する。その後大蔵省臨時建築部嘱託を経て、大正2年7月大蔵技師に任ぜられるが、翌3年7月病没。代表作に上野吉二郎邸(大2)など
横浜開港記念館 コンペ提出作品 作:咲寿栄一
咲壽栄一は、明治18(1884)年4月8日、横浜電気株式会社常務取締役であった上野吉二郎の長男として東京の京橋で生まれました。日本橋区槍物町千葉小学校へ入学するが、尋常科第四年級の明治27年に横浜市吉田小学校へ転校。その後神奈川県立第一中学校へ入学、京都市第三高等学校を経て、東京帝国大学工科大学建築学科に進みます。
同期には、建築家・能楽研究家として知られ、東京・染井の「染井能舞台」の設計に携わった(のちに横浜能楽堂の本舞台として復原)山崎清太郎、豊多摩監獄(中野刑務所)などの作品がある後藤慶二、横浜銀行協会、国会議事堂の建設に携わった大熊喜邦らがいます。
栄一は卒業後大蔵省臨時建築部に入り、のちに大蔵技師となりました。門司税関庁舎、徳島、北條、武雄、四日市、横須賀、福島等の各税務署庁舎、大正博覧会の浅沼商会特設館などに携わり、中でも大きな作品が、大阪中之島公会堂(三等に当選、2000円の賞金)と前述の開港記念横濱會館であります。大蔵省臨時建築部が設計にあたった横浜税関陸上設備鳥瞰図も、栄一の手による。住宅では、浜口雄幸邸の洋館客室をはじめ、父である上野の根岸邸の洋館増設にその才能が発揮されています。また、江ノ島山上に建てられた、曽根西湖氏の記念塔もその作品です。
咲壽栄一が東京帝国大学(現・東京大学)に進むきっかけは、日本の西洋建築の祖、ジョサイア・コンドル氏と深い関係があります。
ジョサイア・コンドル(Josiah Conder、1852年9月28日 - 1920年6月21日) はイギリスのロンドン出身の建築家。お雇い外国人として来日し、政府関連の建物の設計を手がけた人物です。また工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)の教授として辰野金吾ら、創生期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いたのです。
のちに民間で建築設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅を数多く設計。代表作は三菱一号館、岩崎邸、三井倶楽部等。また、河鍋暁斎に師事して日本画を学び、趣味に生きた人でもあった。 「コンドル」はオランダ風の読み方で、「コンダー」の方が英語に近い。著書『造家必携』(1886年)には「ジョサイヤ・コンドル」とあり、政府公文書では「コンダー」「コンドル」が混在しているが、一般には「コンドル先生」で通っている。「コンデル」とも呼ばれた。
その、ジョサイア・コンドルの執事をしていたのが、高橋道保。高橋道保は私の高祖父(ひいひいおじいさん)にあたります。
道保の妹(きく)が嫁ぎ、栄一が生まれるのです。また、コンドルの妻(くめ)の姪で、コンドルの家で育てられたヤエが、私の曽祖母(ひいおばあさん)にあたります。
※咲壽栄一の父、上野吉二郎は高橋家から妻を娶り、また栄一自身は母方の祖母の姓である咲壽を名乗ったという
咲壽栄一がコンドルとの深く関係があり、東京帝国大学で建築を学び、俳句に対する影響を受けたこともここで記しておきます。
上野吉二郎邸 玄関と室内
建築に非凡な才能を開花させた栄一はまた、趣味人でもあった。特に俳句は高校に入学する直前の明治36年夏から始めたもので、俳号は「織草」、のちに「一樹」と改め、さらに高校卒業後入学試験準備のため、本牧に借りていた住まいの庭に咲く卯花(ウツギの花)を好み、その後は「卯木屋」と称していた。生涯に詠んだ句はおよそ3万句あまり、その才能は京都・東本願寺第23代法主で俳人としても著名な大谷光演(俳号「句佛」)に認められたいいます。
私の父が大切に保管している唯一の遺稿集「卯木集」
その彼を病魔が襲ったのです。「今度の彼の病の危篤を聞いて赤十字病院へ駆けつけた時、私が彼について知る三度目の病顔を見たのである。そして最も甚だしい、最も悲しむべきこの病顔を、再び美はしい以前に返す事無しに彼は去った。この三度の病顔の外に私は彼をほとんど絶対的強壮者と遇し、いかなるときにもその活発々地の健康を信じていた。誰も彼の死を疑い、誰も彼の死に驚き、誰も彼の死を悲しむのは、この公認ある故に一層その度が強いのであると思う。大学の同期卒業生十六人の中。彼は唯独り徴兵に応じ得る体格の持ち主であった。」(「故 咲壽栄一君の事」、山崎静太郎)
夫人と幼き長男(母方の姓を名乗り現・土屋家)を残し、わずか1カ月余の入院生活ののち、栄一は粟粒結核によりその生涯を閉じたです。彼の死後、山崎を中心に東京帝国大学工科大学建築学科の同期生らが遺稿集「卯木集」を取りまとめました。装丁は後藤慶二の手によります。以前から栄一は、後藤に油絵を依頼しており、病床にあって笑顔でそれを催促したのです。翌日、後藤は油絵を掲げて見舞いに訪れました。約束の画を描き上げる時間はなかったが、それはかつてほしがっていた赤い木蓮の花を描いた画であります。そしてこの美しい絵が、栄一が物を物としてみた最終であったのです。
横浜を愛した建築家、咲壽栄一は横浜市根岸の西有寺墓地に埋葬されています。
咲寿栄一の代表作は旧門司の税関です。
旧門司税関は、明治42年11月長崎税関より分離して門司税関が発足、これを契機に明治45年(1912)に煉瓦造り瓦葺平屋構造の庁舎が建設されました。設計は妻木頼黄(ジョサイア・コンドルに執事)の指導のもとに咲壽栄一が担当しました。15年使用されたが昭和2年に新庁舎が西海岸通りに移ったので、民間に払い下げられ事務所・倉庫などに使われました。このルネサンス様式のこの赤煉瓦造りの旧門司税関は、長き時代の変遷を見守ってきた北九州のシンボル的存在なので、北九州市が取得し平成6年に修復されました。内部は大きな吹き抜けのロビー、その奥に税関PRコーナーがあります。近代的なデザインで改修されていますが、当時のままの状態も保存されており、この建物の特徴などが良く理解できます。
ここに出てくる妻木頼黄(つまきよりなか)は、横浜にとても縁があり、また栄一の縁戚にあたるジョサイア・コンドルとも通じる人物です。
横浜の赤レンガ建造物を語るとき妻木頼黄という名が欠かせない人物です。
辰野金吾(東京駅の設計者)と同様イギリス人ジョサイア・コンドルに学び、辰野の後輩にあたるが、妻木はその後ドイツに留学することから、イギリス派、ドイツ派と袂を分けている。かれが明治37年に建てた“横浜正金銀行”は現在、“神奈川県立歴史博物館”となった。代表作の一つで、関東大震災にも持ちこたえたが、この赤レンガ倉庫(明治44年竣工)も震災にビクともしなかったのです。
この横浜赤レンガの流れから考えても、門司の税関のレンガ造りを興味深く見ることができるのです。
現在、明治維新後における日本の西洋建築物に多く携わった家系として生まれた咲壽栄一のあふれる才は、いまもなお日本における西洋家具発祥の地:横浜元町で培われた、伝統家具『横浜家具』を製造する家具メーカー『株式会社ダニエル』として、咲壽の本家である高橋家と咲壽家の家族により、復興し時代を超えて継承され続けています。
日本の西洋家具・・・1863年(文久3年)に英国人のゴールマンが、横浜に住む馬具職人の原安造に椅子の修理を依頼したところ、その出来栄えに感心して本格的な洋家具の製作を依頼したこが、日本における西洋家具製作の始まりです。
後年、この優れた伝統を忠実に継承しようと“ダニエル”を創業したのが、咲寿武道氏と高橋保一氏(現社長)の二人。これらの製法で作られた家具を“横浜クラシック家具”といい、かの「ホテル・ニューグランド」では、昭和初期に製作された家具が現在でも使われています。
ホテルニューグランドの本館2階にある『横浜家具』
横浜家具の復興と継承をした、咲壽武道と高橋保一 昭和20年代の横浜元町:ダニエル元町本店/イズミ家具インテリア
咲壽栄一の主な建築物
旧門司税関(1912年、北九州市)監修:妻木頼黄、復元設計:大野秀敏、アプル総合計画事務所
徳島税務署
北條税務署
武雄税務署
四日市税務署
横須賀税務署
福島税務署
大正博覧会浅沼商会特設館
大阪中之島公会堂コンペ(三等に当選、2000円の賞金)
開港記念横濱會館コンペ
横浜税関陸上設備鳥瞰図
浜口雄幸邸洋館客室
根岸邸洋館増設
曽根西湖氏記念塔(神奈川県 江ノ島)
上野吉二郎邸(横浜市)
<参考>
株式会社ダニエル DANIEL STORY
横浜アルバム 執筆:島津氏
咲寿栄一(1884~1914)
明治18年4月、横浜電気㈱社長で実業家の上野吉二郎の長男として東京に生まれる。神奈川県立一中を経て第三高等中学校を卒業し、東京帝国大学工科大学建築学科に入学、明治42年7月に卒業する。その後大蔵省臨時建築部嘱託を経て、大正2年7月大蔵技師に任ぜられるが、翌3年7月病没。代表作に上野吉二郎邸(大2)など
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