ブログ版 清見糺の短歌鑑賞
鎌倉なぎさの会 鹿取 未放
229 はしきやしわがみどりごは死に至る病にとおく歩きはじめたり
2003年6月作
前年6月に生まれた孫を歌っている。お誕生前後に歩きはじめたわけである。「はしきやし」は「いとしい」の意。ところで、キルケゴールの「死に至る病」は、厖大な著作を著して追求した難しい概念の語である。だから一言では説明できないが、煎じ詰めると神や信仰から見放された奥深い苦悩の状態を「絶望」つまり「死に至る病」とよんでいる。しかし、作者はしばしば「死に至る病」をキルケゴールとは全く違う文脈、つまり「死が必然の病」という意味で使用している。この歌では癌という「死に至る病」にかかった自分と歩きはじめたばかりの孫とを対比している。
ちなみに、作者の父親は六十歳で事故死したが、その折、孫(作者の最初の子)はたったの一ヶ月であったという。
鎌倉なぎさの会 鹿取 未放
229 はしきやしわがみどりごは死に至る病にとおく歩きはじめたり
2003年6月作
前年6月に生まれた孫を歌っている。お誕生前後に歩きはじめたわけである。「はしきやし」は「いとしい」の意。ところで、キルケゴールの「死に至る病」は、厖大な著作を著して追求した難しい概念の語である。だから一言では説明できないが、煎じ詰めると神や信仰から見放された奥深い苦悩の状態を「絶望」つまり「死に至る病」とよんでいる。しかし、作者はしばしば「死に至る病」をキルケゴールとは全く違う文脈、つまり「死が必然の病」という意味で使用している。この歌では癌という「死に至る病」にかかった自分と歩きはじめたばかりの孫とを対比している。
ちなみに、作者の父親は六十歳で事故死したが、その折、孫(作者の最初の子)はたったの一ヶ月であったという。