渡辺松男研究23 【眉間】『寒気氾濫』(1997年)79頁~
参加者:泉真帆、かまくらうてな、渡部慧子、鹿取未放、石井彩子と鈴木良明は紙上参加
レポーター: 泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放
189 きっとどこかへ通ずる謎の非常口メレット・オッペンハイムのお臍
(レポート)
メレット・オッペンハイムはスイスの芸術家で、彼女の残したことばに「誰もあなたを自由にはしない、そのことを理解せねばならない」があるという。しかし作者は、きっとどこかに非常口があり、それはメレット・オッペンハイム自身の最も要のヘソにあるだろうと詠っているのではないか。名前のひびきのたのしさ自体に救いがあるように思う。(真帆)
(紙上意見)
メレット・オッペンハイムに親近感をいだいている作者は、彼女の作品を生み出す根源に思いを馳せている。若い頃、美しかった彼女、その写真か、あるいは想像か、作者は彼女の臍を見詰めている、女体の臍は男性である氏にとっては、謎の非常口である。ここから、臍の緒と繋がり、創造物にゆきつくのである、やがて時が満ちてくれば、自然と生み落とされるだろう。美とはエロスである。その根源を女体の臍にみている。オッペンハイムと、渡辺氏の芸術の手法は似ている。全く違うものを組み合わせて、新しいイメージを生じさせ、鑑賞者に衝撃を与える…。「月読に途方もなき距離照らされて確かめにいくガスの元栓」、オッペンハイム-の毛皮で覆われたコーヒーカップなど。ふたりは時代や言語は違うが、ことばやオブジェから受ける衝撃は似ている。(石井)
メレット・オッペンハイム(1913~1985)は、スイスの女性芸術家。有名なフレーズに「誰もあなたを自由にはしない。そのことを理解せねばならない」があるが、臍を含めた裸体画を結構描いており、その「臍」に、作者は、自由への「謎の非常口」をみているのだろう。(鈴木)
(当日意見)
★真帆さんの名前の響きがいいというのは良い捉え方だと思います。(慧子)
★メレット・オッペンハイムは「シュルレアリスムやダダに参加した女性アーティスト」と
Wikipediaに出ています。石井さんの書いている毛皮で覆われたコーヒーカップは、彼女の有名
な写真作品『毛皮の朝食』のことです。横浜美術館の常設の写真コーナーで、マン・レイという
写真家(シュルレアリスト、ダダイスト)が撮ったメレット・オッペンハイムのポートレートを
見たことがあります。題は忘れましたが、大きなハンドル(片手にべったりインクが付いていた
ので印刷機のハンドルかもしれません)が全面にある等身大のモノクロヌードです。それにお臍
が写っていました。なめらかな質感の美しい写真でした。2度目に行った時はその写真が無くて
がっかりしましたが。作者はそういう美しいお臍に女体への憧れとか母性的な神秘性とか感じて
いるのでしょうか。鈴木さんの臍に「自由への『謎の非常口』をみているのだろう」というのに
同感です。「非常口からわれ逃げしときまぶしさのなかにかがやくまぶしさのあり」は先月やり
ましたが、ここではエロスのようなところに非常口の可能性を 感じ取っているのかなと思いま
す。ナチヌード、エイズ、男波女波ときてお臍ですから性的な流 れがあると思います。また、
真帆さん、鈴木さんが挙げているオッペンハイムの自由についての 言葉と、「謎の非常口」と
いう言葉はうまく響きあっていますよね。(鹿取)
(後日意見)
臍を「謎の非常口」として、自由への出口とすることに、当日の意見は終始しているようですが
これには疑問です、自由とは抽象的概念で、歌のテーマとはなりえません。この歌のどこにも出てこない自由が俎上に上がったのは「誰もあなたを自由にはしない、そのことを理解せねばならない.」とWikipediaを引用しているからです。この原文はNobody will give you freedom, you have to take itです。比べてみると上記のたどたどしい英語は、明らかに翻訳ソフトによる自動翻訳でしょう。正しくは「一体、だれが自由を与えてくれるっていうの!自由なんて、(苦労して)自分がかちとるものよ!」と訳すべきものです。この言葉からわかるのは、オッペンハイムにとっての自由は、個人を抑圧する政治体制からの自由ではなく、内面的な自由で、いわば、自由自在な芸術作品を生み出す素地といったものではないかということです。私たちは日常の些事に追われ、きまりや道徳に囚われる存在ですが、オッペンハイムはそのような日常的束縛から逃れ、常に自由であろうとして努力をした人だと思います、それが「自由なんて、自分がかちとるものよ!」ということばに表現されているのです、このような現実の関わりを捨て、精神の自由を得たからこそ、オッペンハイムの素晴らしい芸術作品が生まれたのです。
以上を考慮すると、謎の非常口の内部は混とんとした芸術作品を生みだすエネルギーの源、エロスといった生みの情念や懊悩が充満しているところではないでしょうか。それが謎の非常口を通って世界へと投げ出されたオッペンハイムの芸術作品なのです。臍が謎の非常口となるのは、作者からみて、女体は母体でもあり、不可思議で神秘的なもので、臍はそのシンボルであるからです。「きっとどこかへ通ずる」は臍のどちら側をいっているのでしょうか?外側ではなく内側だと思います。
作者はメレット・オッペンハイムの個性的な臍を写真で外側から(当たり前ですが)みているのです。この臍の内部に、きっと芸術作品を生み出す源があると言っているのではないでしょうか。共感する作家や、芸術作品に出会ったとき、その創作の秘密や根源に思いを馳せます。そのような時の歌ではないかと思います。(石井)
参加者:泉真帆、かまくらうてな、渡部慧子、鹿取未放、石井彩子と鈴木良明は紙上参加
レポーター: 泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放
189 きっとどこかへ通ずる謎の非常口メレット・オッペンハイムのお臍
(レポート)
メレット・オッペンハイムはスイスの芸術家で、彼女の残したことばに「誰もあなたを自由にはしない、そのことを理解せねばならない」があるという。しかし作者は、きっとどこかに非常口があり、それはメレット・オッペンハイム自身の最も要のヘソにあるだろうと詠っているのではないか。名前のひびきのたのしさ自体に救いがあるように思う。(真帆)
(紙上意見)
メレット・オッペンハイムに親近感をいだいている作者は、彼女の作品を生み出す根源に思いを馳せている。若い頃、美しかった彼女、その写真か、あるいは想像か、作者は彼女の臍を見詰めている、女体の臍は男性である氏にとっては、謎の非常口である。ここから、臍の緒と繋がり、創造物にゆきつくのである、やがて時が満ちてくれば、自然と生み落とされるだろう。美とはエロスである。その根源を女体の臍にみている。オッペンハイムと、渡辺氏の芸術の手法は似ている。全く違うものを組み合わせて、新しいイメージを生じさせ、鑑賞者に衝撃を与える…。「月読に途方もなき距離照らされて確かめにいくガスの元栓」、オッペンハイム-の毛皮で覆われたコーヒーカップなど。ふたりは時代や言語は違うが、ことばやオブジェから受ける衝撃は似ている。(石井)
メレット・オッペンハイム(1913~1985)は、スイスの女性芸術家。有名なフレーズに「誰もあなたを自由にはしない。そのことを理解せねばならない」があるが、臍を含めた裸体画を結構描いており、その「臍」に、作者は、自由への「謎の非常口」をみているのだろう。(鈴木)
(当日意見)
★真帆さんの名前の響きがいいというのは良い捉え方だと思います。(慧子)
★メレット・オッペンハイムは「シュルレアリスムやダダに参加した女性アーティスト」と
Wikipediaに出ています。石井さんの書いている毛皮で覆われたコーヒーカップは、彼女の有名
な写真作品『毛皮の朝食』のことです。横浜美術館の常設の写真コーナーで、マン・レイという
写真家(シュルレアリスト、ダダイスト)が撮ったメレット・オッペンハイムのポートレートを
見たことがあります。題は忘れましたが、大きなハンドル(片手にべったりインクが付いていた
ので印刷機のハンドルかもしれません)が全面にある等身大のモノクロヌードです。それにお臍
が写っていました。なめらかな質感の美しい写真でした。2度目に行った時はその写真が無くて
がっかりしましたが。作者はそういう美しいお臍に女体への憧れとか母性的な神秘性とか感じて
いるのでしょうか。鈴木さんの臍に「自由への『謎の非常口』をみているのだろう」というのに
同感です。「非常口からわれ逃げしときまぶしさのなかにかがやくまぶしさのあり」は先月やり
ましたが、ここではエロスのようなところに非常口の可能性を 感じ取っているのかなと思いま
す。ナチヌード、エイズ、男波女波ときてお臍ですから性的な流 れがあると思います。また、
真帆さん、鈴木さんが挙げているオッペンハイムの自由についての 言葉と、「謎の非常口」と
いう言葉はうまく響きあっていますよね。(鹿取)
(後日意見)
臍を「謎の非常口」として、自由への出口とすることに、当日の意見は終始しているようですが
これには疑問です、自由とは抽象的概念で、歌のテーマとはなりえません。この歌のどこにも出てこない自由が俎上に上がったのは「誰もあなたを自由にはしない、そのことを理解せねばならない.」とWikipediaを引用しているからです。この原文はNobody will give you freedom, you have to take itです。比べてみると上記のたどたどしい英語は、明らかに翻訳ソフトによる自動翻訳でしょう。正しくは「一体、だれが自由を与えてくれるっていうの!自由なんて、(苦労して)自分がかちとるものよ!」と訳すべきものです。この言葉からわかるのは、オッペンハイムにとっての自由は、個人を抑圧する政治体制からの自由ではなく、内面的な自由で、いわば、自由自在な芸術作品を生み出す素地といったものではないかということです。私たちは日常の些事に追われ、きまりや道徳に囚われる存在ですが、オッペンハイムはそのような日常的束縛から逃れ、常に自由であろうとして努力をした人だと思います、それが「自由なんて、自分がかちとるものよ!」ということばに表現されているのです、このような現実の関わりを捨て、精神の自由を得たからこそ、オッペンハイムの素晴らしい芸術作品が生まれたのです。
以上を考慮すると、謎の非常口の内部は混とんとした芸術作品を生みだすエネルギーの源、エロスといった生みの情念や懊悩が充満しているところではないでしょうか。それが謎の非常口を通って世界へと投げ出されたオッペンハイムの芸術作品なのです。臍が謎の非常口となるのは、作者からみて、女体は母体でもあり、不可思議で神秘的なもので、臍はそのシンボルであるからです。「きっとどこかへ通ずる」は臍のどちら側をいっているのでしょうか?外側ではなく内側だと思います。
作者はメレット・オッペンハイムの個性的な臍を写真で外側から(当たり前ですが)みているのです。この臍の内部に、きっと芸術作品を生み出す源があると言っているのではないでしょうか。共感する作家や、芸術作品に出会ったとき、その創作の秘密や根源に思いを馳せます。そのような時の歌ではないかと思います。(石井)
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