かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

追加版 渡辺松男の一首鑑賞  142

2021-01-08 16:57:54 | 短歌の鑑賞
   追加版 ブログ版 渡辺松男研究 17  2014年6月
     【Ⅱ 宙宇のきのこ】『寒気氾濫』(1997年)62頁~
       参加者:泉真帆、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放

   ※末尾の(後日意見)を追加しました。


142 森のなかの空へ拓かれし場所に出でなにもかも言えそうでおそろし

 【レポート】閉塞的な場所からいきなり開放的な場所に出たとき、人間の知覚・感覚は一気に拡散する。特に、水平に拓けるよりも、鎖された森の中で天井が抜けるように垂直の空間がぱっと拓かれた時、人間の知覚・感覚は、脳髄ごと一気に空へ引き上げられる。そうすると、言葉の源にいるようなものだから「なにもかも言えそうでおそろし」くなる。言葉は空から垂直に降ってくるからである。(その根拠は、短歌は縦書きなのである)(鈴木)
 
             (発言)      
★「なにもかも言えそう」って言ってはいけないことを言ってしまいそうだということでしょうか?
     (曽我)
★天に開かれたところで遮るものがないから、言葉として何でも言えそうだと。言葉としてさらし
 てしまいそうだと。言ってはいけないことという意味ではないと思う。(鈴木)
★「言えそう」というのは認識のレベルが無限に拓けて何もかも分かっちゃって言えそうというこ と?それとも、もっと日常的な話?少なくとも、人の悪口を言うとかタブーを侵してしまいそう
 とか、そういうレベルの話ではないと思う。(鹿取)
★木々の無いフラットな空間が現れて、目線は空に開かれる。そこには他人の目が無くて一人の許
 された場で覆い隠すことなく何でも吐露できるって、そういう単純な意味に取ったんですけど。
  鈴木さんの話を聞いていると、言葉が降って来るというか、何もかも言葉になると言うか、そん
 なふうなこともあるのかなあと。 (泉)
★水平との違いを感じます。目が横に付いているから、やっぱり垂直にあこがれますよね。(鈴木)
★もちろん水平線見たときと垂直に開かれた場にあるときと思考は違うものになる。でも、もうひ
 とつ、私はこの歌分からなくて。「なにもかも言えそう」っていうのが、天からの啓示のように
 世界の本質がばっとつかめて口をついて出そうだ、ということか、もう少し身体感覚的なことな
 のか、よくわからない。この歌については、時間をかけて考えてみようと思います。(鹿取)

         (後日意見)(2021年1月)
 森はあらゆる生物のふるさとです。そこは木々や生き物が共存共栄して、平和で充足した母親の胎内にいるような安寧の空間です。が、森のなかの「空へ拓かれし場所に」すなわち異空間、異界に遭遇したとき、人は受け入れがたい感情、耐え難い感情にとらわれたのです。森での充足した営みにおいては、ことばは意識されません。が、受け入れがたい感情に打ち勝つために、人はことばを過剰に使用するようになったのです。渡辺氏はそのことばの過剰を恐ろしといっているのです。つまり、(なにもかも言えない)他の生物に対して、自己保存のためには(なにもかも言ってしまう)人間の傲慢さを「おそろし」といっているのです。人間はことばを道具として使用することによって、他の生物よりも優位に立ち、文化・文明を発展させてきました、が、半面、他の生物との共生のバランスを壊し、自然環境を大きく破壊したのです。
 以下に鈴木氏のレポートに対する違和感を述べます。森は現代人のわれわれにとっても癒しの空間であるので、閉鎖的場所とするのは一面的だと思います。仮に、森が閉鎖的場所であって、開放的な空へと導かれたとしても「人間の知覚・感覚」は一気に拡散するのは事実認識として妥当だとはおもえません。「人間の知覚・感覚」が活発に働くのはこれまで慣れて当たり前のような環境から、全く違った環境に置かれたときです。それが動物に備わっている防衛本能なのです。氏は内部で溜まっていた知覚・感覚が解放されて一気に拡散するかのように述べられていますが、これは語法的誤りです。知覚・感覚は拡散したり、しなかったりするものではありません。まず、外に何か刺激があり、それに身体を通して働くのが視覚・聴覚といった感覚であり、「熱い」「寒い」といった知覚なのです。又、氏の知覚・感覚の拡散は言葉の過剰によっておこり、「なにもかも言えそうでおそろし」は「言葉の源にいるようなもの」だから、という論旨には説得力はありません。そもそも言葉は「理性」「精神」「認識」であり、身体を通しての知覚・感覚とは対極にあるものだからです。そして肝心な「なにもかも言えそうな」ことがどうして「おそろし」なのか、氏のレポートでは解明されておりません。この感情的表現こそ作者が訴えたかったことだとおもうのですが…。(S・I) 

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