2022年度版 渡辺松男研究2の29(2019年11月実施)
Ⅳ〈悪寒〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P145~
参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取未放
220 鶏と睨みあってはおちつかず天高き日のフランケンシュタイン
レポート)
害にならない鶏にオロオロしているその構図のユーモラスな味わいこそが一首の魅力だが、「天高き日の」と季節をイメージできる視野の大きな一語を据えることで、ユーモラスな一場面にさらに物語性が顕ちあがる。フランケンシュタインを調べると「本来はM.W.シェリー原作の『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』(1818)に登場する科学者ビクトル・フランケンシュタイン男爵の姓。今日ではもっぱら怪奇映画のスクリーンを通じて、同男爵が死体から造った〈怪物〉の通称ともされている」(平凡社世界大百科事典)とあるが、一首のフランケンシュタインはその男爵なのか、男爵の造った怪物なのか、全く別のものなのか、それとも喩か。あるいはボリス・カーロフ主演・ジェームズ・ホエール監督の映画の一場面なのか。そしてまた、フランケンシュタインが落ち着かない理由は何なのか、なんだろう、そう疑問を抱かせることが、読者を連作〈悪寒〉へと引き込むいい導入歌になっているのだろう。(泉)
(紙上参加)
ドラキュラ、狼男と並ぶ、怪奇物語の主役であるフランケンシュタイン。どこか怖さより哀れさが感じられる。大きな体に醜さへの恥じらいを持つ弱い心を抱えている。そして、怪奇物語に似合うのは嵐やくらがり。ところがそのフランケンシュタインが秋晴れの下で、小さくても恐れを知らぬ、恐竜の裔らしき眼光の鶏と睨みあいおろおろしている。なんとも気の毒で滑稽な場面の面白い歌。作者はフランケンシュタインに自らを重ねているのか、それとも愚かな人によって生み出された怪物など、自然が生み出した鶏にすらかないはしないと言いたいのか。(菅原)
(当日意見)
★泉さんのレポートのように原作や映画の情報を知って歌を読むのと知らないで読むの
とでは違うと思うのですが、私は全く情報がないので、何も無しで歌と向き合ってい
ます。菅原さんの最後の3行、ここまで読むんですかね。(A・K)
★情報を知って読むのと知らずに読むのとそれぞれ良い点、悪い点があるのでしょう
ね。情報がたくさん有りすぎると却って作者の思いに届かなかったりすることもあり
ますよね。情報を知っているのは悪いことではないけど、歌に向き合うときはいった
ん忘れた方がいい場合もありますね。でも、菅原さんの「気の毒で滑稽」あたりは賛
成で爽快な気分で読みました。(鹿取)
★醜さへの恥じらいとかフランケンシュタインに深く寄り添っていますよね。
(A・K)
★そうですね、その部分は原作に書かれているのか、菅原さんの独創か。どちらにして
も醜さを恥じらいつつ真っ昼間に鶏とにらみ合っている図は面白いですけど。
(鹿取)
★「落ち着かず」にフランケンシュタインの存在の何かが出ているように思います。そ
れにしてもここにフランケンシュタインをもってくるかと思いますね。字余りなんだ
けどぴたっときますよね。(A・K)
★天高き日の設定もいいですよね。(鹿取)
★晴朗な感じがしますね。自分と重ねているのかなあ。作品と作者を重ねてしまったら
陳腐になるような。フランケンシュタインが何かの喩ととったらつまんなくなるんじ
ゃない。鶏の歌で良いのは佐藤佐太郎、宮柊二 、俳句では加藤楸邨です。
(A・K)
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