かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 353

2024-11-27 23:42:42 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 渡辺松男研究42(2016年9月実施)
    『寒気氾濫』(1997年)【明快なる樹々】P143~
     参加者:M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:鈴木 良明    司会と記録:鹿取 未放


353 全身で春を悦ぶ樹のもとをただ通りゆく人間の顔

      (レポート)
 自然そのものである樹は「全身で春を悦ぶ」のである。それに対して、自然から遊離した人間は自らの裡に春を実感できず、樹々の芽吹きや山菜などによって間接的に春を知るのである。自然の変化に関心のない人間は「樹のもとをただ通りゆく人間」で、自然から見れば、その顔は、感動のない、のっぺらぼうに映るだろう。(鈴木)    


     (当日意見)
★これを読んだ時「樹のもとをただ通りゆく人間」に作者は含まれるのか、含まれない
 のか気になりました。ボクは樹の気持ちが分かるけどおまえらはわかちゃいないね、
 というのだったらすぐく偉そうで嫌だし。自分は木の葉であってもよかった、という
 歌も作っていますから、「ただ通りゆく人間」に作者は含まれているのだろうと思い
 ます。いくら樹が好きでも365日ずっと樹を見てすごすわけにはいきませんから。
 「一本のけやきを根から梢まであおぎて足る日あおぎもせぬ日」(『寒気氾 濫』)とい
 う歌の鑑賞を以前しましたが、松男さんだって樹のことを思う精神的余裕のない日あ
 るんですね。そういう日は自分も自然から遠ざかった顔をしているんだろうなという
 自覚があるんですね。(鹿取)
★自分はわかっているんだということを出さない。他の奴らは黙って通り過ぎていくだ
 けだと言わないところがすばらしい。自分が上の立場ではなく、下から見ている。レ
 ポートの「自然から見れば」 はそこを気遣った表現で松男さんが見て「その顔は、
 感動のない、のっぺらぼう」と要ったのではないです。自然から見れば自分の顔だっ
 てのっぺらぼうに見えるんだよ、という事ですね。(鈴木) 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 渡辺松男『寒気氾濫』の一首... | トップ | 渡辺松男『寒気氾濫』の一首... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

短歌の鑑賞」カテゴリの最新記事