1968年、空前の大ヒットを飛ばした伊勢佐木町ブルースとともにこの映画は始まる。
近年、これほど誠実なドキュメンタリー映画を私は観たことがない。
全国ロードショーではなくこだわりの映画館でしかかからなかったので見逃してしまい、いつか観たいと思っていた矢先、友人から運良くDVDが借りられた。
暗めの画面に食い入るように観てしまった。
今夜はまたもう一度観てしまった。
何度観ても静かな何かが胸に押し寄せる。
静謐な何かがあふれている。
1941年、メリーさんは突然ヨコハマに出現した。
米兵相手だけど、将校専門のパンパンとして。
いつもドブ板通りの角に立っていたという。
若い頃は背が高くそれは美しい人だったらしい。
言葉遣いが美しく、きれいな帽子をかぶり、レースの服を着て薄い手袋をはめていた。人々は「皇后陛下」などと呼んでいたという。
全財産である袋やかばんをいくつも持ち歩き、家を持たず年を重ねるごとにその顔はだんだん真っ白に塗られていった。白塗りお化けなどといわれながらもハマの有名人であったメリーさんが1995年に突然姿を消す。
この映画は姿を消したメリーさんと関わりのあった人々をインタビューする形で進められていく。
そしてもう一人の主役は、ゲイでシャンソン歌手の永登元次郎さん。
彼は、子供を育てるために水商売に足を踏み入れ自分たち子供から男に心を移した母を「パンパン」とののしったという過去をもっている。
自分も一時男娼として生きた時間があった・・今なら母にそんなことを言わないだろう。今母がいたら自分はなんと言うだろう。何をしてあげるだろう・・
彼はメリーさんに母を重ねたのかもしれない。
彼が、メリーさんと出会ったのは1991年に関内ホールで行われたリサイタル。
そこにはプレゼントを渡すメリーさんの丸くなった背中が映っている。
彼女が観に来てくれた舞台は成功するというジンクスもあったようだ。
それからは何くれとなく彼女の援助をするようになったが、プライドの高いメリーさんは施しはうけない。
小さな祝儀袋に入れてお花を買ってねと渡すのだ。それはもう演技の世界だったという。
有名な舞踏家の大野一雄の息子の大野 慶人が語る。「私たちはキンキラさんと呼んでいた。シルクセンターでドラッグストアを妻がやっていて、景気がよくなるとショーウィンドウにガラスの香水瓶が飾られていた。それをメリーさんが見ているのだけどそれはそれはいとおしそうに観ている。」
と言って彼女の様子を身体であらわすのだけどそれがまた素晴らしい。さすが舞踏家。
舞台でハムレットをやるときに、オフェーリアならできると思った。
キンキラさんのあの香水瓶を眺めるあれだと思ったという。
その舞台は大成功で彼女のおかげだと語る。
「白く塗っているんじゃなくって、消している」と彼女は言ったという。
「きれいということは人をうつということ。メリーさんは演じきった」と。
メリーさんを描いた「横浜ローザ」を演じた五大路子は観客はローザでもなく五大路子でもなくて「メリーさんよくがんばったね」とメリーさんに拍手を送ってくれたと。
メリーさんと喧嘩したという芸者の五木田京子さんたちが語る、黒澤明監督の映画「天国と地獄」の撮影にも使われた「根岸屋」の話も貴重なもので、きっぷのいい玄人の語るハマの歴史には引き込まれてしまう。
おそらく聴衆の前で踊るのが最後になるであろうと言う彼女のミニステージ。
この映画に情熱をかけた人々によってであろうか。踊り終わった彼女の瞳には光るものがあった。
こういうお座敷芸も文化の、歴史の、ひとつの終わりなのだ。
白粉はS堂のこれしか使わなかったという化粧品店のおかみさん
メリーさんがベンチに座っていても追い払ったりしなかったアート宝飾の社長
お客から苦情が来て、とうとうこないでくれといわざるを得なかった美容室のママさん
毎日通うティールーム「相生」は、メリーさんと同じカップでは・・というお客がいるので、メリーさん専用のステキなカップを使うようにして排除しなかったという。
クリーニング店のご夫婦はロッカーを貸してそこで着替えさせてあげたという。
そして脱いだものを出していく。彼女の衣裳部屋だったのだ。
そして、「気になるものを記録していこう」という信念をもち、彼女を撮り続けたカメラマンの森日出夫さん
70歳を過ぎ、GMビルの廊下の小さな椅子の上で寝る彼女は「私お部屋がほしいの」と言ったという。
住民票を持たない彼女には社会的援助はうけられない。
そして74歳の時、親切な人のお世話できっぷも買ってもらい実家に帰った。
彼女から来た手紙には「ヨコハマ」への郷愁が・・
やがて6年間老人ホームで過ごしていた彼女の元に元次郎さんが慰問に行く。
このラストは衝撃的だった。
そこには品の良い美しいメリーさんが・・元気で生きていたんだ!
彼は100まで生きるんだよと手を握り別れを告げた。
やがて彼は癌の痛みに耐えかねてモルヒネを使うことにし、残りの時間をカウントダウンし始めた。
そしてこのDVDには付録で、ホームビデオで撮った彼の2003年11月22日最後のコンサートの様子が納められている。
やがて私はこの世を去るだろう
長い年月を私は幸せにこの旅路を今日まで生きてきた
いつもわたしのやり方で
心残りも少しはあるけれど
人がしなければならないことならば
できうる限りの力を出してきた
いつもわたしのやり方で・・・ ・
命の瀬戸際で歌うMy way・・
このシャンソンはこれほどにいい歌だったのかと改めて感じた。
彼はこの最後ののげシャーレでのコンサートから4ヵ月後の2004年3月66歳で逝った。
この映画の画面は時々ふっと止まるときがある。
静かにただ映し出しているだけ。それがいい。それぞれが感じるための時間だと思う。
不思議なのは、ぱんぱん、ゲイ、洋パン、ゴーチンなどという言葉がぽんぽん出てくるのに、それらの言葉が何も不快感を感じない。
それぞれの人たちが、自分に正直で嘘がないということだと思う。
そしてこのヨコハマという街の魅力、なくしたものへの郷愁を多くの人々がもっていると言うことなのでしょうか。
私にとってのヨコハマは、少女の頃のゴールデンカップスとつながる・・
かれらこそ、根岸の墓地にひっそりと眠る幼子たちの光の部分だったのかもしれない。
そして、この地は母方の先祖の街・・今も血を半分分けた姉もいる特別な思いのある街。
何度訪れても飽きることがない。
シネマの感想を書き込む交流の場所で、意気投合した方を4年ほど前に亡くしました。
生きていたらきっとこの映画にのめりこむだろう。。どんな感想を書いただろうか。今はもう聞くことができないけれど。
近年、これほど誠実なドキュメンタリー映画を私は観たことがない。
全国ロードショーではなくこだわりの映画館でしかかからなかったので見逃してしまい、いつか観たいと思っていた矢先、友人から運良くDVDが借りられた。
暗めの画面に食い入るように観てしまった。
今夜はまたもう一度観てしまった。
何度観ても静かな何かが胸に押し寄せる。
静謐な何かがあふれている。
1941年、メリーさんは突然ヨコハマに出現した。
米兵相手だけど、将校専門のパンパンとして。
いつもドブ板通りの角に立っていたという。
若い頃は背が高くそれは美しい人だったらしい。
言葉遣いが美しく、きれいな帽子をかぶり、レースの服を着て薄い手袋をはめていた。人々は「皇后陛下」などと呼んでいたという。
全財産である袋やかばんをいくつも持ち歩き、家を持たず年を重ねるごとにその顔はだんだん真っ白に塗られていった。白塗りお化けなどといわれながらもハマの有名人であったメリーさんが1995年に突然姿を消す。
この映画は姿を消したメリーさんと関わりのあった人々をインタビューする形で進められていく。
そしてもう一人の主役は、ゲイでシャンソン歌手の永登元次郎さん。
彼は、子供を育てるために水商売に足を踏み入れ自分たち子供から男に心を移した母を「パンパン」とののしったという過去をもっている。
自分も一時男娼として生きた時間があった・・今なら母にそんなことを言わないだろう。今母がいたら自分はなんと言うだろう。何をしてあげるだろう・・
彼はメリーさんに母を重ねたのかもしれない。
彼が、メリーさんと出会ったのは1991年に関内ホールで行われたリサイタル。
そこにはプレゼントを渡すメリーさんの丸くなった背中が映っている。
彼女が観に来てくれた舞台は成功するというジンクスもあったようだ。
それからは何くれとなく彼女の援助をするようになったが、プライドの高いメリーさんは施しはうけない。
小さな祝儀袋に入れてお花を買ってねと渡すのだ。それはもう演技の世界だったという。
有名な舞踏家の大野一雄の息子の大野 慶人が語る。「私たちはキンキラさんと呼んでいた。シルクセンターでドラッグストアを妻がやっていて、景気がよくなるとショーウィンドウにガラスの香水瓶が飾られていた。それをメリーさんが見ているのだけどそれはそれはいとおしそうに観ている。」
と言って彼女の様子を身体であらわすのだけどそれがまた素晴らしい。さすが舞踏家。
舞台でハムレットをやるときに、オフェーリアならできると思った。
キンキラさんのあの香水瓶を眺めるあれだと思ったという。
その舞台は大成功で彼女のおかげだと語る。
「白く塗っているんじゃなくって、消している」と彼女は言ったという。
「きれいということは人をうつということ。メリーさんは演じきった」と。
メリーさんを描いた「横浜ローザ」を演じた五大路子は観客はローザでもなく五大路子でもなくて「メリーさんよくがんばったね」とメリーさんに拍手を送ってくれたと。
メリーさんと喧嘩したという芸者の五木田京子さんたちが語る、黒澤明監督の映画「天国と地獄」の撮影にも使われた「根岸屋」の話も貴重なもので、きっぷのいい玄人の語るハマの歴史には引き込まれてしまう。
おそらく聴衆の前で踊るのが最後になるであろうと言う彼女のミニステージ。
この映画に情熱をかけた人々によってであろうか。踊り終わった彼女の瞳には光るものがあった。
こういうお座敷芸も文化の、歴史の、ひとつの終わりなのだ。
白粉はS堂のこれしか使わなかったという化粧品店のおかみさん
メリーさんがベンチに座っていても追い払ったりしなかったアート宝飾の社長
お客から苦情が来て、とうとうこないでくれといわざるを得なかった美容室のママさん
毎日通うティールーム「相生」は、メリーさんと同じカップでは・・というお客がいるので、メリーさん専用のステキなカップを使うようにして排除しなかったという。
クリーニング店のご夫婦はロッカーを貸してそこで着替えさせてあげたという。
そして脱いだものを出していく。彼女の衣裳部屋だったのだ。
そして、「気になるものを記録していこう」という信念をもち、彼女を撮り続けたカメラマンの森日出夫さん
70歳を過ぎ、GMビルの廊下の小さな椅子の上で寝る彼女は「私お部屋がほしいの」と言ったという。
住民票を持たない彼女には社会的援助はうけられない。
そして74歳の時、親切な人のお世話できっぷも買ってもらい実家に帰った。
彼女から来た手紙には「ヨコハマ」への郷愁が・・
やがて6年間老人ホームで過ごしていた彼女の元に元次郎さんが慰問に行く。
このラストは衝撃的だった。
そこには品の良い美しいメリーさんが・・元気で生きていたんだ!
彼は100まで生きるんだよと手を握り別れを告げた。
やがて彼は癌の痛みに耐えかねてモルヒネを使うことにし、残りの時間をカウントダウンし始めた。
そしてこのDVDには付録で、ホームビデオで撮った彼の2003年11月22日最後のコンサートの様子が納められている。
やがて私はこの世を去るだろう
長い年月を私は幸せにこの旅路を今日まで生きてきた
いつもわたしのやり方で
心残りも少しはあるけれど
人がしなければならないことならば
できうる限りの力を出してきた
いつもわたしのやり方で・・・ ・
命の瀬戸際で歌うMy way・・
このシャンソンはこれほどにいい歌だったのかと改めて感じた。
彼はこの最後ののげシャーレでのコンサートから4ヵ月後の2004年3月66歳で逝った。
この映画の画面は時々ふっと止まるときがある。
静かにただ映し出しているだけ。それがいい。それぞれが感じるための時間だと思う。
不思議なのは、ぱんぱん、ゲイ、洋パン、ゴーチンなどという言葉がぽんぽん出てくるのに、それらの言葉が何も不快感を感じない。
それぞれの人たちが、自分に正直で嘘がないということだと思う。
そしてこのヨコハマという街の魅力、なくしたものへの郷愁を多くの人々がもっていると言うことなのでしょうか。
私にとってのヨコハマは、少女の頃のゴールデンカップスとつながる・・
かれらこそ、根岸の墓地にひっそりと眠る幼子たちの光の部分だったのかもしれない。
そして、この地は母方の先祖の街・・今も血を半分分けた姉もいる特別な思いのある街。
何度訪れても飽きることがない。
シネマの感想を書き込む交流の場所で、意気投合した方を4年ほど前に亡くしました。
生きていたらきっとこの映画にのめりこむだろう。。どんな感想を書いただろうか。今はもう聞くことができないけれど。
このメリーさんの記事と、オレンジと太陽が好きです。
僕の中ではね、勝手なイメージにしか過ぎないけど、天皇とよく拮抗しえたのは(少なくとも世界に対するプライドの側面で)マリーさんなんじゃないかと思っているんです。
ありがとうございます。
うらやましいです。あなたにとって実体験なんですものね。
これからもどうぞよろしく。
神々しいほど毅然としていたので
地元の人は全く軽蔑的な視線でみてはいない「戦後のシンボル」。
ずっと占領されていて「戦争は駄目!」、という横浜のシンボルでもあったと思います。
昔、毎朝皇后陛下と会い、ホテルのエレベーターからお引取り願い、アートで宝石を買い、相生でお茶をして・・・根岸屋のお姐さんの唄うノーエ節も唄える・・・横浜が横浜らしかった時代・・・あの赤い電車は私が生まれたときから乗っている電車です。
彼女が静かに美しい笑顔をみせるシーンはとても印象的でしたね。
映画館でみましたが、万雷の拍手鳴り止まず、でした!