素面仲尾
おほほほほほ。。。
卑弥子でござ~♪~ますわよゥ。
また出てきてしまいましたわぁ~
ええっ?どうしてかって。。。?
あなたにお会いしたいからで
ござ~♪~ますわよゥ。
うふふふふふ。。。
ええっ?
あたくしに、そうたびたび
会いたくないの?
どうしてよゥ?
ん?いつも同じ顔だから。。。?
あなただって同じ顔でしょう?
ゴタゴタ言わないで読んでちょうだいよォ~。
ねっ。。。お願いだから。。。
ええっ。。。そんなことよりも
タイトルの四字熟語について話せ!
あなたはそのように強い口調で
あたくしにご命令なさるのですか?
んもお~~。。。イヤ~♪~なお方ぁ~♪~!
分かりましたわ。
今日はそのことについてお話しようと思って
出てきたのでござ~♪~ますわよ。
うふふふふ。。。
コンピューターって頭がイイようで、可笑しな事をやるのよねぇ~。
それもそうなのよ。
コンピュータを動かしているのはソフトだから。。。
そのソフトを作っているのは、あなたやあたくしと同じ不完全な人間たちでござ~♪~ますわよ。
だから、あなたやあたくしのように可笑しな失敗もするのですわよねぇ。
そう言う訳で、今日はワープロの変換プログラムがやらかした失敗作を取り上げてみようと思い立ったのでござ~♪~ますわよ。
では、まずタイトルから。。。
素面仲尾
確かに、これは四字熟語のように見えますわ。
「四面楚歌」
あたくしは、すぐにこの熟語を連想したのでござ~♪~ますわよ。
四字熟語辞典によると、「周囲がみな敵で、孤立無縁なようす」と説明が出ていますわ。
あなただって聞いた事があるでしょう?
でも、うろ覚えではっきりとした由来など忘れている場合が多いのですわよね。
あたくしも、そうなのでござ~♪~ますわよ。
漢文の時間にこのエピソードを聞いた覚えがありますわ。
でも、ほとんど忘れてしまっているのですわよ。
そう言う訳でしばらくぶりに漢文の教科書を取り出してまいりましたのよ。
おほほほほ。。。
時は紀元前202年のことなのでござ~♪~ますわ。
古いお話なんですのよね。今から2200年前の事なのですわよ。
4年間に及んだ漢と楚の戦いは、いよいよ終局を迎えようとしていたのでござ~♪~ます。
漢の劉邦(りゅうほう)に追い詰められた楚の項羽(こうう)は、垓下の城壁にたてこもったのですわよ。
項王の軍垓下に壁す。兵少なく食尽く。
漢軍及び諸侯の兵、之を囲むこと数重なり。
夜、漢軍の四面皆楚歌するを聞き、
項王乃ち大いに驚いて曰く、
「漢皆已に楚を得たるか。
是れ何ぞ楚人の多きや」と。
つまりですわね、夜になるとどこからともなく、項羽の故郷楚の国の歌声が聞こえてきて、
日が経つにつれて、その歌声が東西南北あらゆる方向から聞こえてきたのですわよ。
これを聞いて項羽は、
「漢は已に楚を全部降してしまったのだろうか。
敵軍の中に何と楚の国の人が多いことか」
このように嘆くのでござ~♪~ますわ。
実は、これは漢の軍師・張良(ちょうりょう)が、敵の戦意を無くさせるために考え出した歌声作戦だったのでござ~♪~ますわよ。
項羽と楚の兵はまんまとひっかかってしまったのですわ。
「四面楚歌」・・・出典は、言うまでもなく司馬遷の『史記』でござ~♪~ますわよ。
【閑話休題】
前より低い地位や官職に移す事を、
なぜ“左遷”と言うのか?
紀元前206年、劉邦との「鴻門の会」を終えた項羽は、圧倒的な武力で中国統一王朝秦を滅ぼし、その都咸陽を焼き払った。
項羽はその後間もなく中国全土を分割し、お気に入りの武将達を王に取り立てて思うままに領地を分配したが、項羽は秦打倒の立役者・劉邦には荒涼たる辺境の地漢中を与えるに留まった。
漢中は咸陽の西、地図上では左に在る。これが「左遷」の語源といわれている。
しかし、劉邦はやがて項羽を退けて漢王朝を打ち立てる。
四面楚歌のエピソードには、さらに悲しい愛の物語が続くのでござ~♪~ますのよ。
ついでだから、その悲しい愛の物語を書くことにいたしますわ。
楚の国の歌声が周りから聞こえるものでござ~♪~ますから、項羽の下で戦っていた兵隊達は戦意を失ってしまいました。
飢えと郷里への想いもあり、最早自分たちだけ戦っても意味はないと思い兵士達は次々と逃げ出します。
将校や部隊長の中にも、これまでの項羽への不満から項羽を見限り、兵隊たちに混じって逃亡する者がたくさん出てくる始末です。
漢の軍師・張良は部下に楚歌を習わせ歌わせたばかりではなく、部下たちに更に次のように言ったのです。
「故郷へ帰ろうとする敵の者は、身分の上下を問わず、皆、逃がしてやるように」
このような訳で、包囲する漢軍は武器を捨てた楚兵を黙って通してあげたのですわよ。
楚陣に残ったのはたったの八百騎のみとなったそうです。
信頼する部下からこの知らせを聞き、項羽はほとんど空となった自分の陣を見て「最早、これまで!」と覚悟を決めたのでした。
ここで悲しい愛の物語が始まるのでござ~♪~ますわよ。
項羽は愛妾の虞美人と信頼する部下と共に最後の宴を開いたのです。
そして、有名なあの「垓下の歌」を詠(うた)ったのでござ~♪~ますわ。
「力は山を抜き、気は世を覆う。
時、利有らずして、騅行かず。
騅行かざるを如何せん。
虞や虞や汝を如何せん。
この虞美人さんはきれいな人だったのでしょうね。
項羽はもうこれまでだと思ったわけですけれど、虞美人には生きて欲しいと思ったわけなのでござ~♪~ますわよ。
この虞美人は虞姫(ぐき)とも呼ばれます。虞は姓である(漢書)とも名(史記)であるとも言われていますわ。
「美人」も後宮での役職名であるとも、その容姿を表現したものであるとも言われているのです。
いわゆる側室か二号さんなのですが、小説やテレビドラマでは項羽の妻として描かれている事が多いようです。
でも、これほど有名な虞美人も項羽との馴れ初(そ)めについては、史記にも漢書にも一切記載されていないのでござ~♪~ますわ。
ただ垓下の戦いで、劉邦率いる漢軍に敗れた傷心の項羽の傍には、いつも虞美人がおり項羽は片時も彼女を放すことがなかったと紹介されています。
項羽が上の歌を詠ったあとで垓下から脱出するのですが、小説では項羽の足手まといにならぬようにと虞美人は自殺しています。
しかし、『史記』や『漢書』では、その後の虞美人については一切書いてないのでござ~♪~ます。
虞美人の自殺が語られるようになったのは、女性の貞節が口うるさく言われるようになった北宋時代からだと言われていますわ。
とにかく、自殺した虞美人の伝説は、ヒナゲシに虞美人草という異名がつく由来となったのでした。
どうですか?ケシの花ですわよねぇ~。何とはなしに生々しい美しさですよねぇ~。
虞美人が自殺してその血を吸いながら、その場に咲いたのが虞美人草だそうですわ。
悲劇、悲恋を吸い取ったような妖艶で鮮(あざ)やかなヒナゲシの別名ですわ。
ところで夏目漱石の作品に『虞美人草』があります。この作品を漱石自身は最も嫌悪していたそうでござ~♪~ますわ。
なぜ?
衆知のようにこの作品は漱石が大学教師を辞めて朝日新聞社の専属作家になった時の第一作で、極めて通俗性の濃い作品でした。
つまり、通俗性が強かったために嫌ったようですわ。この作品は勧善懲悪の小説です。
善玉は思索の人である甲野。悪玉は甲野の異腹の妹・藤尾です。
この藤尾が漱石の頭の中で“虞美人”あるいは“虞美人草の花”のイメージになっていたのでしょうか?
藤尾は魔性を兼ね備え、男を誘惑する女として登場します。
『虞美人草』は漱石の作品中、唯一の失敗作と見なされることの多い作品です。
なぜ?
その根拠としてかならず上げられるのが、作品の執筆を開始してから1ヶ月半ほどが過ぎた明治40年7月16日付で高浜虚子に書いた手紙でござ~♪~ますわ。